第96話 陽動作戦開始
あれから俺たちは、少しずつ目的地であるヴァルケンへと近づいていた。
一直線に進むわけではない。
森を縫い、丘を避け、視界の開けた場所は慎重にやり過ごす。その途中、連合の兵士による見張りが何度か確認された。
だがそれらはすべて、排除した。
詳しいやり取りを交わすこともなく、声を上げさせることもなく。
気づいた時には終わっている、そんな距離と速さで。
相手が何を考えているのかは分からない。
だが、テルティアの存在を認知しているのは間違いないだろう。
斥候と思われる兵士の姿も確認した。
装備、動き、視線の置き方。間違いなく、こちらを探っている人間だった。
それも排除した。
何人倒したのか、誰も口にはしなかった。
振り返る者もいない。俺たちは、ただ前へ進む。
そうして、昼を少し過ぎた頃。
予定していた逃走ルート――小道へと辿り着いた。
「……ここだ」
レナードの一言で、全員が足を止める。
小道は森の中を斜めに抜けており、視界が悪い。
だが、その分、追手を撒くには最適な地形だった。
「ここで一度、装備を整理する」
レナードの指示で、俺たちは背負っていた荷を下ろした。
片手で扱える武器以外は、ここに隠す。
土を掘り、落ち葉をかぶせ、痕跡を消す。何度も訓練でやってきた手順だ。
最終的に残った装備は、俺はナイフ。トマは手斧。ミロは鎌。ダリルは短刀。そして全員が短弓と矢を持つ。
レナードとオズワルは、これまで通りの装備。
ロランもいつも通り弓と矢、そして短い短刀の装備になった。。
誰も異を唱えない。ここから先は、速さと静かさが何より重要になる。
身軽になった俺たちは、再び動き出す。
先頭に立つのはミロだった。
「この先を抜ければ、ヴァルケンは近い」
その声は低く、落ち着いている。
予定通りなら、もうすぐ他の部隊とも合流するはずだ。
それが先か。それともすでに予想外のことが起きているのか。
はやる気持ちを押さえ込みながら、俺は足を前に運ぶ。
もう、引き返す理由はない。ヴァルケンは、すぐそこだ。
***
昼と夕方の境目。
太陽が傾き始め、光の色が少しずつ変わり始めた頃、俺たちは目的地へと辿り着いた。
全員が身を低くし、草木の影に溶け込む。
視線の先にはヴァルケン。
その周囲で、別の斥候部隊の動きを確認した。
合図はない。だが、動きで分かる。
ミロが音も立てずにその場を離れ、斥候部隊へと合流する。
数分もしないうちに、再びこちらへ戻ってきた。
「今のところ、作戦は完璧だよ」
息を整えながら、ミロが小声で報告する。
「向こうの部隊が広場の状況を確認してる。準備が整い次第、陽動作戦に入る予定だ」
「了解した」
レナードが短く答える。
「……あとは、待つだけだな」
こちらにまで届くほど、ヴァルケンの中は騒がしくなっていた。
風に乗って、切羽詰まった声が断片的に流れてくる。
「誰も戻ってこないぞ!」
「攻撃を受けている可能性が高い!」
「斥候の情報はどうなっている!?」
「落ち着け!指揮官の指示通り警戒を強めながら装備を整えろ!」
怒鳴り声に近い声。
命令とも、報告ともつかない言葉が、重なり合っている。
気づいたな。
連中も、こちらが何らかの攻撃を仕掛けていることを察している。
だが、状況を正確には掴めていない。
補給兵が消え、斥候が戻らない。理由が分からないまま、不安だけが膨らんでいるのだ。
だがこのまま時間をかければ……最悪の場合、本国への報告が飛ぶ。
そうなれば、こちらの奇襲は意味を失う。
俺がそう考えた瞬間だった。
「……焦るな」
レナードの低い声が、背後から落ちてくる。
叱責ではない。冷静さを取り戻させる声だった。
「広場の状況が分からなければ、意味がない」
視線は、ヴァルケンから離れない。
「連中が慌てているのは事実だ。だが、ここで動けば、こちらの手札を先に晒すことになる」
短く、はっきりと言い切る。
「予定通りだ。情報が揃うまで、耐える」
その言葉に、胸の奥のざわつきが、少しだけ抑えられた。
そうだ。ここで焦るのは、敵の思う壺だ。
俺たちは、すでに主導権を握っている。
後は、それをどう使うかだけだ。
ヴァルケンの中では、混乱が広がっている。
だが、まだ決定的な動きはない。
その時だった。
気配もなく、第三斥候部隊のリースがこちらへ現れる。
「兵の配置は、完了したみたいだ」
そして、間を置かずに続けた。
「それと……作戦の変更だ」
全員の意識が、一斉に集まる。
「広場で合戦はしない。配置した兵は、このままヴァルケンに突入するらしい」
一瞬、空気が張り詰めた。
「俺たちは陽動したら、すぐに引くぞ。雷筒の音が聞こえたら、それが突撃の合図になっている」
「……了解した。いつ行う?」
レナードが静かに答える。
リースはミロを見る。
「ミロ。準備はできているか?」
「大丈夫です」
「よし。それなら、これから雷筒を使用する」
リースは指で簡単な動線を描く。
「雷筒をヴァルケンに投げ込む。直後に、こちらの部隊が煙幕を張る。その後、再度雷筒を使用する。何度も音が鳴るがビビるなよ」
「その後、撤退しながら矢を放つ。煙幕で視界は悪いだろうが、気にするな。大人数だと錯覚させる。敵影を少しでも確認したら即撤退だ。俺たちは本隊と合流する。お前たちは側面、もしくは背後から攻撃しろ」
リースの指示が終わると、場に短い沈黙が落ちた。
誰もが頭の中で、これからの動きをなぞっている。
最初に口を開いたのは、レナードだった。
「了解した。攻撃したのち俺たちは作戦通り、小道で武器を回収する。その後、側面から攻撃を仕掛ける」
淡々と、だが迷いなく続ける。
「本隊がヴァルケンに突入する際は、逃走兵を優先して撃破する。混乱に紛れて逃げられるのが、一番厄介だからな」
「それでいい」
リースは短く頷いた。
「それと……朗報だ」
一瞬だけ、声の調子が変わる。
「現在、ヴァルケンから本国へ向かおうとしている兵士は、第一斥候部隊と暗殺部隊が阻止しているとの連絡が入った」
その言葉に、場の空気がわずかに動いた。
「もう、奴らは外には出られない」
リースは低く言い切る。
「ヴァルケンは、今や袋のネズミだ。……今日中、いや速やかに決着をつけるぞ」
短い言葉だったが、その重みは十分だった。
相手の逃げ場はない。援軍も来ない。そして連絡もできない。
ここで終わらせる――その覚悟が、はっきりと伝わってくる。
「了解した……ミロ。頼む。お前たちの合図で、俺たちも動く」
一瞬の間もなく、ミロが頷いた。
「わかった。任せて」
その声には、不安も迷いもなかった。
「リースさん、行きましょう」
「行くぞ」
二人はそれ以上言葉を交わさず、音も立てずにその場を離れていく。
茂みの影に溶けるように、姿が消えた。
残された俺たちは、再びヴァルケンへと視線を向ける。
混乱は、すでに始まっている。あとは合図を待つだけだ。
***
みんなと別れて、すぐに目的の場所へと向かった。
防壁の中でも、ここは一番低い。雷筒を投げ入れやすく、それでいて投げた直後に身を引ける。さらに、背後には斥候部隊が待機していて、すぐに合流できる。作戦のために選び抜かれた地点だった。
雷筒の位置と逃走経路を最終確認していた、その時だった。
隣で、リースさんが小さく息を吐いた。
「なあ、ミロ」
小声だが、どこか軽い調子だ。
「どうだった?俺さ、お前たちの部隊に報告する時、ちゃんと斥候部隊の一員として威厳あったか?」
思わず、心の中で苦笑する。
「大丈夫ですよ。みんな、ちゃんと威厳を感じてたと思います」
事実だ。
少なくとも、誰一人として軽く扱ってはいなかった。
「だよな?」
リースさんは満足そうに頷く。
「いやぁ……それにしてもさ。お前の隊の副隊長、こえぇよ」
ぼそっと、しかし妙に真剣な声で続けた。
「俺が話してる間、ずっと無表情なんだもん……」
……それには、心の中で強く同意してしまった。
もちろん、それは口には出さない。
任務中でも、こうして軽口を叩いて場の空気を和らげる。
リースさんは、そういう人だ。
ここまで余裕を見せられるのは、経験の差なんだろう。
正直、感心してしまう。
だが
リースさんは、ふっと言葉を切った。
後方を一度だけ確認し、表情が一変する。
「……来たな」
さっきまでの軽さは消え、完全に任務の顔だ。
「作戦の合図が来た。やるぞ」
そう言って、雷筒をこちらに差し出してくる。
ずしり、と重みが手に伝わった。
「使い方は分かってるな?」
「はい」
「俺はこれを投げ込んだあと、続けて二本投げる。お前は投げたらそのまま後ろの部隊に合流しろ」
指で動線を示しながら、素早く続ける。
「俺たちが投げてすぐ、後ろの部隊が煙幕を張る。見えなくても構わん。矢を打ち込め」
「了解です」
短く答え、雷筒を構える。
拠点の中から、声が聞こえてくる。
怒鳴り声、命令、混乱した足音。
――敵も、もう気づいている。
でも、だからこそ。
こちらが慌てたら、終わりだ。
(落ち着け……)
深く息を吸い、導火線に火を点ける。
じり、と嫌な音を立てて火が走る。
「……今だ」
雷筒を、全力で投げ込む。
着弾を確認するより早く、踵を返して後退する。
その瞬間――
後方の仲間たちが、一斉に動いた。
煙幕弾が次々と放り込まれ、白い煙が立ち上る。
そして
ドンッ!
ドンッ!
空気を引き裂くような爆音。
胸の奥まで響く衝撃に、思わず歯を食いしばる。
――始まった。
混乱は、もう止まらない。
ここから先は、計画通りに動くだけだ。
(……もうやるしかない!)
そう心の中で呟きながら、僕は後方の部隊へと駆け出した。




