第92話 静かな怒り
宿舎に戻ってきたあと、俺たちはそれぞれの寝台に腰を下ろしたまま、誰一人として言葉を発しなかった。
外からは、まだ防壁の設置を続けている職人たちの声が聞こえてくる。
怒鳴るような指示、金属を叩く音、石を運ぶ足音。いつもなら気になって外を覗きに行っていただろう。だが、今は誰もそんな気分じゃなかった。
胸の奥に沈んでいるのは、はっきりとした嫌悪だった。
連合のやり方に対する、どうしようもない怒り。
ここにいる全員が徴募兵だ。
自分の意思とは関係なく、戦場に立たされてきた人間ばかりだ。
もし自分たちの故郷が、同じ目に遭わされていたら。
考えるだけで、腹の底から怒りが湧いてくる。
奪われ、追い出され、行き場を失う。
それを「戦争だから」の一言で片付けられることが、どうしても許せなかった。
「……今日は寝るわ。気分がわりぃ」
沈黙を破ったのは、ダリルだった。
寝台に腰を下ろしたまま、低く言う。
「……わかった。ゆっくり休みな」
トマが静かに答える。
ダリルはそれ以上何も言わず、自分の寝台に潜り込んだ。
だが、その背中はわずかに震えていた。
怒りが収まらないのだろう。目を閉じても、頭の中が静かにならないのが伝わってくる。
いつもなら、任務を前にすれば緊張と不安が入り混じる。
だが今回は、それとは違った。
なぜ、一週間も待たなければならないのか。
その思いが、何度も胸に浮かんでくる。
自分は正義の味方じゃない。
誰かを救うために戦っている、なんて綺麗なことも言えない。
それでも連合のやり方だけは、どうしても受け入れられなかった。
「……すまないが、俺は少しテルティアを散策してくる」
ロランが、低い声で言った。
「工作作業か、何か手伝えることがあるかもしれん。じっとしていられない」
「……ロラン。俺も一緒に行くよ。いいかな?」
トマが一瞬迷うように視線を向けてから言う。
「構わん」
ロランは短く答え、立ち上がった。
「エドリック。少し席を外す」
「……了解。レナードとオズワルが戻ってきたら、伝えておくよ」
「頼む」
それだけ言って、二人は宿舎を出ていった。
扉が閉まる音が、やけに大きく響いた。
気持ちは、よくわかる。
俺自身、この感情をどう扱えばいいのか分からなかった。
最初は困惑だった。
自分たちに伏せられたまま、大きな戦いがすぐそこまで迫っていたことに。
その次に湧いたのは、怒り。
連合の非道なやり方に対する、抑えきれない感情。
「……はぁ」
思わず、ため息が漏れる。
すると、ダリルがこちらを見ないまま、低く声を投げてきた。
「……エドリック」
「ん?」
「今度の任務は、絶対に成功させるぞ」
布団に顔を向けたままの声だったが、その言葉には迷いがなかった。
「……ああ。わかっている」
俺も、短く答える。
それ以上、言葉は交わさなかった。
だが、それで十分だった。
怒りも、憎しみも、焦りも。
すべてを抱えたままでも前に進むしかない。
静まり返った宿舎の中で、それぞれが、来たる戦いに向けて心を固めていた。
***
それから少しして、レナードとオズワルが宿舎に戻ってきた。
ダリルはすでに寝息を立てている。
「戻ったぞ」
レナードが小さく声を落とす。
「……ん?ロランとトマはどうした?」
俺は声を抑えて答える。
「お疲れ。二人は散策に行ったよ。じっとしていられないってさ」
「了解した。まあ、自由だしな。……ダリルは寝ているのか?」
「ああ。少し前までは怒りで震えていたけど、落ち着いてきたのか……さっき寝たよ」
「まあ、しょうがねぇか」
オズワルが低く言いながら、自分の寝床に腰を下ろす。
「俺も、あの場じゃ切れそうだったしな」
しばらく黙ってから、オズワルがこちらを見る。
「後でみんなにも伝えるが、お前には先に言っておく。ミロが合流するのは夜だ。今は工作作業に出てる。それが終わったら、こっちに来るってよ」
「了解。ミロには会ったの?」
思わず、声が少し明るくなる。
「いや、まだだ」
オズワルは首を振る。
「ヴィルクがそう言ってた。その時に、任務の内容もまとめて話すらしい」
「わかった」
怒りは、確かにまだ胸の奥にある。
だが、それとは別にミロに会えるという事実が、素直に嬉しかった。
これで、久しぶりに全員が揃う。それだけで、少しだけ気持ちが軽くなる。
「俺は少し作戦を考える。独り言を言うかもしれんが気にするな」
レナードが言った。
そう言って、自分の寝台に地図を広げ始める。
紙を押さえる指、視線の動き。
やはり、こういう時のレナードは頼もしい。今回も、きっと最善の道を探し出すだろう。
「そういえば。これからどうするんだ?」
俺はオズワルに声を向ける。
「今日は何もしねぇよ」
オズワルは短く答えた。
「最初は訓練でもするか考えたが……話を聞いてるうちに、なんか面倒になっちまった」
そのまま寝台に横になる。
「今日は、ゆっくり休むさ。これからは、そうもいかなくなる」
天井を見上げたまま、続ける。
「寝はしねぇが……今日は横になりたい気分だ。話しかけてもいいが、少しぼーっとしたい。返事がなくても気にするなよ」
「……わかった」
俺はそれだけ答え、オズワルと同じように横になる。
天井を見上げる。
じっと見ていると、木目の模様がゆっくり動いているように見えた。
気のせいだと分かっていても、視線を外せない。
怒り、疲れ、緊張。
そして、これから始まる戦い。
いろいろなものが頭の中を巡りながら、俺はただ、天井を見つめて時間を過ごしていた。
***
夕方になり、トマとロランが宿舎に戻ってきた。
二人とも土と木屑の匂いをまとっている。何かしら作業を手伝ってきたのだろう。
オズワルが簡単に状況を説明し、ミロが夜に合流する予定だと伝える。
それを聞いたあと、誰も言葉を続けなかった。
気持ちの整理は、まだついていない。頭では理解していても、感情が追いついてこない。
しばらくして、テルティアの兵士が食事の誘いに来たが、オズワルが首を振った。
「今日は疲れてるから大丈夫だ。明日から、手伝えることは手伝う。よろしくな」
「わかった。早く、ここに慣れるといいな」
兵士は無理に勧めることもなく、そう言って、宿舎を後にする。
……あの兵士は、これから何が起きるのかを、まだ知らないのだろう。
そう考えると、胸の奥が少しだけ重くなる。
(レナードとオズワルは……ずっと、これを黙っていたんだな)
簡単なことじゃない。改めて、二人の重さを感じた。
「……う、うーん」
小さな唸り声がして、ダリルが身じろぎする。
「おう、起きたか?お前、ずっと寝てたが……夜、寝られんのか?」
オズワルが声をかける。
「……オズワルか。俺……あの後、ずっと寝てたのか?」
ダリルは目を擦りながら、ゆっくりと上体を起こす。
「結構ね。気分は、少しは良くなった?」
エドリックがダリルに問いかける。
「いや……あんま変わんねぇな」
ダリルは苦笑した。
「思い出したら、また、頭が熱くなりそうだ」
そう言って、深く息を吐く。
「……ただな」
少し間を置いて、続けた。
「ここで怒ってても仕方ねぇよな」
視線を落としたまま、拳を軽く握る。
「作戦で、連合の連中に全部ぶつけてやる。それでいいだろ」
「それが一番だ。今、怒っても……何も変わらん」
ロランが静かに言った。
ダリルは短く頷いた。
そのやり取りをきっかけに、宿舎の中に、少しだけいつもの空気が戻り始める。
重さは消えていない。
だが、全員が同じ方向を向き始めているのが、はっきりと分かった。
その時だった。
コン、コン。
控えめなノック音が、扉を叩く。
一瞬、全員の視線が扉に集まる。
「……来たか」
オズワルが小さく呟いた。
扉が開き――
そこに立っていたのは、久しぶりの仲間の姿だった。
「……あ」
少し戸惑ったような声。
「久しぶり、だね」
ミロだった。
工兵用の簡易装備を身につけ、顔にはうっすらと疲れが見える。
だが、その目は、確かにこちらを見ていた。
半年ぶりだというのに、その姿を見た瞬間、胸の奥がじんわりと熱くなる。
ようやく、全員が揃った。




