第87話 拠点を支える男
建物の中は、プライマよりも明らかに大きかった。
通された廊下は天井が高く、壁の内側に空間の余裕がある。人が多く出入りしても詰まらないように作られているのだと、歩いているだけで分かる。外の冷えた空気は扉の向こうに置き去りにされ、ここには別の温度があった。
(……同じ拠点でも、こうも違うのか)
エドリックは、壁に目をやった。
プライマは木を中心に建てられている。丸太を組み、板を張り、必要な部分だけ補強していく。森に囲まれた場所に、あの造りはよく馴染んでいた。
だが、セクンダは違う。
木材だけではない。壁の一部に、硬い質感の建材が混じっている。土の色に近い赤味を帯びたレンガだ。
「俺はプライマには入ったことはないけどさ、驚いたろ?」
案内役の兵士が、肩越しに振り返って言った。口調は軽いが、どこか誇らしげでもある。
「……うん。プライマは木ばっかりだから」
エドリックが素直に答えると、兵士はうなずいた。
「全部、隊長が指示してくれたんだ。拠点として長く使うなら、木だけじゃなくレンガも使うべきだってな」
足を進めるたび、靴音が硬い床に乾いた反響を残す。木の床のように音を吸わない。こういう感覚が、拠点の性格そのものを語っている気がした。
「建物自体の強度にもつながるしな」
後ろから別の兵士が補足してくれた。いつものように周囲を見渡しながら、淡々と続ける。
「テルティアが落とされた場合、次の前線基地はここになる可能性が高い。そういった理由もあるらしい」
言葉の端が、少しだけ重い。
(テルティアが落とされた場合……)
まだ見ぬ前線基地の姿が、頭の片隅で形になりかけた。だが、エドリックはそれを押し戻して歩き続けた。
「すげぇな……」
ダリルが小さく息を吐く。感心の声に、いつもの調子が混じる。
「でも、これだけレンガ使ってんなら金もかかってんじゃねぇの?」
その問いかけは、妙に現実的だった。
確かにそうだ。木は伐採して加工すればその場で使える。プライマがそうしてきたように、自分たちの手で材料を用意できる。
だがレンガは違う。焼き固めたものを買い付け、運び込み、積み上げる必要がある。そこには必ず金が発生する。
「俺たちも、いくらかかってるかは知らないけどさ。結構かかってんじゃないか?まあ隊長が自分で金を払ってたな」
案内の兵士は、少し肩をすくめた。
「自分で……?」
トマが目を丸くする。
兵士は何でもないことのように、続けた。
「俺たちもレンガなんて扱ったことがなかったから、最初は大変だったぜ。王都の隊長の知り合いの職人が来てさ、建築の指導をしてくれたんだ」
(王都の……職人)
距離感が一気に変わる。ここは森の中の拠点だ。王都の職人と縁があるというだけで、隊長という存在の背後にある世界が広がる気がした。
「極めつけは、隊長がレンガ職人までここに呼んじまったからな」
兵士は笑い混じりに言うが、その笑いには尊敬がはっきり含まれていた。
「その職人も、隊長には恩があるって言ってさ。弟子も含めて、今はここに住んでもらってる」
「……住んでもらってる?」
トマが信じられないという顔をする。
「それって……もう、拠点じゃなくて町づくりだね」
その言い方が妙にしっくりきて、エドリックは内心でうなずいた。
(ここは兵のための場所だけじゃない。長く使う前提で、人の暮らしまで組み込んでる)
木の匂いに混じって、土と焼き物の乾いた匂いがする。壁の冷たさも、木とは違う。触れれば硬く、簡単には傷つかないだろう。
「クラウス隊長……だよね」
トマがぽつりと言った。
「戦場で活躍してたって聞いたけど……人望も凄いんだね」
兵士は、少し照れたように鼻を鳴らした。
「隊長は本当にいい人だよ。最初はめちゃくちゃ怖い人だと思ってたけどさ……それ、勘違いだったってすぐ気づいたね」
その言葉が、不思議な安心を連れてきた。
怖い人に見えるのは、責任を背負っているからだ。厳しくなるのは、拠点と兵を守るためだ。そういう類の怖さなのだろう。
(……だから、ここまでできるのか)
もしテルティアが落ちる。もし前線が崩れる。その「もしも」を、あらかじめ現実として捉え、備える。
レンガの壁は、その意思の形だった。
廊下の先で、食堂らしき大きな部屋の明かりが見えた。人の声と食事の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。
案内役の兵士が、顎で前を示す。
「ほら、こっちだ。腹減ってるだろ?」
エドリックは頷き、仲間たちとともに歩みを進めた。
セクンダの空気を、体の奥まで吸い込むように。
一歩足を踏み入れた瞬間、視界が一気に開ける。天井は高く、梁もしっかりと組まれている。長机がいくつも並べられているが、それでも余白が多く、人が集まればまだまだ収まりそうだった。
(……バルデ砦の食堂と同じくらいか。それ以上かもしれない)
エドリックは無意識に天井を見上げる。兵が一斉に腰を下ろしても窮屈にならない。集会や指示伝達にも使えるだろう。
「ここの食堂は大きいだろ?」
案内の兵士が、胸を張るように言った。
「ここは食堂でありながら、非戦闘員の避難場所にもなる。だからこの拠点で一番大きいんだ」
避難場所。
その言葉に、空気がわずかに引き締まる。
(つまり……戦場になる可能性を、最初から織り込んでいる)
「……なるほど。よく考えられている」
ロランが低く呟いた。
兵士の説明を聞きながら、周囲を見渡す。その視線が、やがて一か所で止まった。
「……ん?」
ロランは、食堂の奥を指さす。
「あそこの大きな扉は?」
食堂の壁際。ほかの出入口とは明らかに違う、分厚い扉が設えられている。金具も多く、枠も頑丈そうだ。
「ああ、あそこか」
兵士はすぐに答えた。
「あそこが、この拠点の食糧貯蔵庫さ」
「食糧庫……?こんな近くに?」
トマが思わず声を上げる。
「近い方がいいんだよ」
兵士は当たり前のように言った。
「周りは全部レンガで固めてある。火にも強いし、多少の衝撃じゃびくともしねぇ」
(……確かに)
木造の倉庫なら、火をかけられれば終わりだ。食糧を失うことは、そのまま拠点の死を意味する。
「食堂と近ければ、人も集めやすい。避難所として使うなら、なおさらだ」
「そうそう」
兵士たちは何度も頷く。
「隊長は、拠点が耐えることを一番に考えてる。守るだけじゃなく、持ちこたえるためにな」
ダリルが、感心したように口笛を吹きかけた。
「いや……ここまで考えてるとはな。正直、ただの駐屯地だと思ってたぜ」
「俺たちも最初はそうだった」
兵士は苦笑する。
「でもな、作ってるうちに分かってきた。ここは一時の場所じゃねぇって」
(長く使う。人を集める。守り、耐え、次につなぐ)
レンガの壁。広い食堂。分厚い扉の向こうにある食糧。
それらは全部、同じ方向を向いていた。
「……セクンダは、ただの中継点じゃないんだね」
トマの言葉に、誰も否定しなかった。
食堂の中には、すでに何人もの兵が集まっている。鍋の湯気と、焼いたパンの匂いが混じり合い、腹の奥を刺激した。
「ほら、空いてるところに座れ」
兵士がそう言って促す。
「もうすぐ、隊長たちも来るはずだ」
その言葉に、エドリックは無意識に背筋を伸ばした。
(……クラウス隊長)
噂だけで形作られていた人物像が、少しずつ輪郭を持ち始めている。
この拠点を作り、この場所を支え、この先を見据えている男。
その本人と、間もなく顔を合わせる。
エドリックは仲間たちと席に着きながら、静かに息を整えた。
しばらくして、食堂の入口の方から笑い声が聞こえてきた。
ひとつは、聞き慣れたレナードの低い笑い声。
もうひとつは、オズワルの少し抑えた調子のもの。
そして――もう一人。
腹の底から響くような、豪快な笑い声が混じっている。
エドリックは思わずそちらを見た。
背が高く、肩幅も広い。濃いひげをたくわえた男が、二人の間に立っている。動きも声も大きく、周囲の空気を一気に持っていくような存在感だ。
(……あの人が)
隣に座っていた兵士が、低く声をかけてくる。
「隊長が来たぞ」
その一言で、食堂の空気が変わった。
椅子を引く音が一斉に鳴り、兵たちが立ち上がる。
もちろん、エドリックたちも反射的に立ち上がっていた。
だが、その瞬間――
「そんなことはしなくていい!」
太い声が、食堂に響いた。
「早く飯を食え。冷めちまうだろう」
そう言いながら、その男――クラウス隊長らしき人物は、大股でこちらへ歩いてくる。手をひらひらと振り、立ち上がった兵たちを座らせようとした。
「ほら、座れ座れ」
勢いに押されるように、エドリックたちは席に座る。
そのまま、クラウスは目の前まで来て、顔をぐっと近づけた。
「お前たちが、独立奇襲小隊の人員か!?」
そして、満面の笑みを浮かべる。
「本当に若いな!」
その声の大きさに、周囲の兵がびくりと肩を揺らす。
(……何というか)
エドリックは思った。
(豪快、って言葉がそのまま歩いてるみたいな人だ)
「クラウス隊長」
すぐ横から、オズワルが咳払いをして口を挟む。
「少し声を小さくしてください。みんな驚いています」
するとクラウスは、目を丸くしてから、さらに大きく笑った。
「まだ他人行儀なのか、オズワル!」
肩を叩く勢いで言う。
「敬語なんて使わなくていい!隊長と副隊長なんて、『副』が付いてるか付いてないかだけだろう!」
「言い方はそうかもしれませんが…さすがにあなたとは実績が違いすぎます」
オズワルは苦笑しつつも、引かない。
そのやり取りに、エドリックたちは思わず目を見張った。
(……オズワルが、押されてる?)
普段は余裕を崩さないオズワルが、完全に相手の勢いに飲まれている。
「はぁ……」
そこで、レナードが短く息を吐いた。
「みんな、この人がセクンダの隊長、クラウス隊長だ」
簡潔にそう言ってから、こちらを振り返る。
「俺たちは飯を食ったら、すぐにテルティアに向かう。長く交流する時間はないかもしれんが、覚えておけ」
「了解!」
エドリック、トマ、ダリルの声が揃う。
「よろしくな、お前たち!」
クラウスは満足そうにうなずいた後、ふと視線をずらした。
「……おお?」
そして、声を弾ませる。
「ロラン!久しぶりだな!元気だったか!?」
名を呼ばれたロランは、一瞬だけ間を置いてから、静かに答えた。
「……ええ。お久しぶりです。隊長は、何も変わっていないですね」
わずかに口元を緩める。
「ああ!俺は何も変わっていないぞ!」
クラウスは胸を張る。
それから、表情を引き締めるようにして言った。
「これから任務なんだろう?気をつけろよ」
その視線が、エドリックたち三人にも向けられる。
「お前たちもだ」
「ありがとうございます」
ロランが頭を下げる。それに倣って、エドリック、トマ、ダリルも深く頭を下げた。
「レナード、オズワル」
クラウスは二人に向き直る。
「俺はこれから、また打ち合わせだ。時間の許す限り、ゆっくりしていけ」
そう言い残すと、豪快な足取りで食堂を後にした。
その背中を見送りながら、エドリックは小さく息を吐く。
(……なんか、すごい人だな)
圧倒されるような存在感。だが、不思議と嫌な感じはしなかった。
ロランは、去っていく背中をじっと見つめてから、静かに視線を戻す。
「……あの人がいる限り、セクンダは簡単には崩れないだろうな」
その言葉には、確信があった。




