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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第二部 鐘が響く前に

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第85話 贅沢だった日々

朝、目を覚ますと、身体にわずかな重さが残っていた。

頭が痛むほどではない。ただ、普段より少しだけ、動き出すのが億劫だ。


(……これが、酒の後ってやつか)


エドリックはそう思いながら、寝台の上で上半身を起こした。部屋を見渡すと、ダリルだけがまだ毛布にくるまって寝息を立てている。それ以外の皆は、すでに起きていた。


「おう。起きたか」


先に声をかけてきたのはオズワルだった。

装備を整えながら、いつも通りの調子で続ける。


「俺はこれから、漁師の仲間にポイントを教えてくる。戻ったら明日の準備だ。着替えておけよ」


それだけ言うと、振り返りもせず外へ出ていった。

相変わらず、朝の行動は早い。


「おはよう、エドリック」

トマが声をかけてくる。穏やかな表情だが、すでに身支度は整っている。


「調子はどうだい?」


「おはよう、トマ。……少しけだるいけど、大丈夫だよ」


正直に答えると、トマは小さく笑った。

「まあ、初めてならそんなものだよ」


その横で、ロランがダリルを一瞥しながら口を開いた。


「おはよう。昨日は早く寝て正解だったな。ダリルはお前のことをお子様だと言っていたが……」

そう言って、まだ眠りこけているダリルを見下ろす。


「こいつの方が、よほどお子様だ……」


「まったくだね……」

トマも肩をすくめる。


「まさか、飲めない兵士から酒をもらってまで飲むとは思わなかったよ……」


二人は少し呆れたように首を振った。

ダリルは、そんな視線も知らず、気持ちよさそうに眠っている。


「ロラン、おはよう」

エドリックは改めて挨拶してから、ダリルに目を向けた。


「……そっか。なんとなくお子様って言われたのは覚えてるけど、こいつだったのか……

着替えても起きなかったら、蹴り起こしてもいいかな?」


「いいんじゃないか?どう思う?」

ロランは即答だった。そのままトマに視線を向ける。


「いいと思うよ」

トマも、あっさりとうなずいた。


「オズワルが帰ってくる前に起こさないと、オズワルは本気で叩き起こしそうだし……

戻ってくる前に起こしてあげな」


「……了解」

エドリックは苦笑しながら答え、寝台から降りた。


「着替えるよ」


そう言って、装備に手を伸ばす。

明日には、この拠点を発つ。その事実が、朝の空気の中で、静かに重みを増していく。


(出発前の朝、か……)

ダリルの寝息を背に聞きながら、エドリックは外套を手に取った。


エドリックが身支度を整え終えても、ダリルは相変わらず寝息を立てていた。

毛布を胸元まで引き寄せ、完全に世界から切り離されている。


(……言ったからな)


エドリックは一瞬だけ視線をロランとトマに向ける。

二人とも何も言わない。ただ、わずかに口元が緩んでいた。


次の瞬間。


エドリックは、言葉通りダリルを蹴り起こした。


「――っ!?」


鈍い音とともに、ダリルの身体が寝台から転げ落ちる。

床に落ちた衝撃で、ダリルは飛び起きた。


「な、なんだ!?」


目を見開き、周囲を見回すダリルに、エドリックはすぐさま駆け寄った。


「ダリル!大丈夫か?」

真剣そのものの声で言う。


「いきなり落ちたから、びっくりしたよ」

そして完全に、しらばっくれていた。


トマとロランは一瞬だけ顔を見合わせ、思わず笑いそうになるのをこらえる。

ダリルは頭を掻きながら、首を傾げた。


「お、おお……そうか?なんか……背中が痛ぇな……」


「背中でも打ったんじゃないか?すごい勢いだったから、驚いたよ」

エドリックは、さも心配そうに続ける。


「……そうかぁ?」

ダリルはまだ半分寝ぼけた顔で呟くが、それ以上は追及しなかった。


「とにかく、オズワルが戻ってくる前に着替えなよ。戻ってきて、まだ寝てたら怒られるぞ」

エドリックは話題を切り替える。


「ああ……それはマズいな」


そう言って、ダリルはようやく立ち上がり、着替えを始めた。

どうやら、うまく誤魔化せたらしい。


それからしばらくして。全員が身支度を終えた頃、外から足音が聞こえてきた。

扉が開き、オズワルが戻ってくる。


「おう。起きたか、ダリル」


その一言に、ダリルは反射的に背筋を伸ばす。


「まだ寝てたら、背中を蹴り飛ばして起こすところだったぜ」


その言葉に、トマとロランは思わず吹き出しそうになる。

だが必死にこらえ、咳払いで誤魔化した。


ダリルはというと、何が何だか分からないという顔で立ち尽くしている。


「……え?背中?蹴り?」


「なんでもない、なんでもない」

エドリックは、最後まで平然とした顔だった。


小さな朝の騒動は、そうして誰にも咎められることなく終わった。

今日もまた、いつも通りの一日が始まろうとしている。


――明日、この拠点を発つという事実だけを除けば。


***


エドリックとオズワルは、並んで武器の点検を進めていた。

並べられているのは、投げナイフ、手斧、短槍――少し前まで、日常のように扱っていた道具だ。


だが、明日以降は違う。これらは再び、人を殺めるための武器になる。

そう思うと、プライマで過ごした日々が、急に遠いものに感じられた。

伐採をし、薪を作り、伐根をして拠点を形にしてきた時間。


『こんな日々が続けばいい』


誰かが、そんなことを言っていた。

その言葉を、今になってはっきりと思い出す。

エドリックは、それを噛みしめるように胸の中で反芻していた。


「オズワル。これ、少し研いでおいてくれないか。先が欠けてる。……すぐ使えなくなるかもしれない」

エドリックは短槍を手に取り、穂先を示す。


「わかった。お前はナイフと手斧を頼む。剣と矢じりの調整が終わったら、そっちにかかる」


「了解。弓の調整はどうする?」


「それは各自だな。引く強さは人それぞれだ」

オズワルは剣を手に取りながら言った。


それだけ言うと、オズワルは剣の調整に取りかかる。

エドリックも、投げナイフを手に取り、砥石に当てた。


シャリ……シャリ……


刃物を研ぐ、乾いた音が静かに響く。


二人とも、言葉を交わさない。

だが、それでよかった。


自分の命を守る道具の手入れは、雑談をしながら行うものではない。

集中し、感触を確かめ、刃の状態と向き合う時間だ。


シャリ……シャリ……


エドリックは、一本一本、丁寧に投げナイフを仕上げていく。

特に、自分が一番使うことになる一本は、念入りに。


やがて、刃先の感触に納得し、ナイフを布で拭う。それから顔を上げ、オズワルに声をかけた。

「オズワル。悪いけど、一度的に当てて、刺さり具合を確認する。いったん、外すぞ」


「わかった」

オズワルは顔を上げずに答える。


それだけで十分だった。

お互いに、何をするのか、なぜ必要なのか説明はいらない。


エドリックはナイフを腰に収め、立ち上がる。向かう先は、夜に利用している自主訓練場。人の少ない、的を立てられる場所だ。


歩き出しながら、エドリックは無意識にナイフの重さを確かめる。

手に馴染んだ感触。


――また、これを投げる日が来る。


そう思いながらも、足取りは迷わなかった。

明日へ向けた準備は、もう始まっている。


静かな拠点の中で、刃物の音とともに、プライマでの最後の時間が、少しずつ削られていっていた。


***


自主訓練場には、冷たい空気がまだ残っていた。

人の気配はなく、風に揺れる草の音だけが耳に届く。


エドリックは的の前に立ち、距離を測るように数歩下がった。

これまで何度も立った場所だ。足の感覚が、自然と位置を覚えている。


腰から投げナイフを一本抜く。

指先で重さを確かめ、刃の向きを整える。


深く息を吸い――吐く。


腕を振り、手首を返す。


――ヒュッ。


乾いた音とともに、ナイフが飛ぶ。

刃はまっすぐに伸び、的の中心より少し左に突き刺さった。


「……悪くないな」


近づいて引き抜く。

刺さりは浅くない。刃先も、欠けてはいない。


もう一回。

少し距離を変え、先ほどよりも角度と力を意識して投げる。


――ヒュッ、ドスッ。


今度は、先ほどより深く刺さった。

的に残る振動が、しばらく止まらない。


(……問題ない)


エドリックは小さくうなずいた。

感触は、以前と変わらない。研ぎ直した刃は、きちんと応えてくれている。


だが、その事実が、少しだけ胸に引っかかった。


――これで、また人を殺すのか……。


頭では分かっている。

それが任務であり、生き延びるために必要なことだということも。


それでも、プライマで過ごした日々が脳裏をよぎる。

土の匂い。伐採の合間に交わした他愛のない会話。

酒を飲み、笑い合った夜。


「……贅沢だな……」


誰に聞かせるでもなく、そう呟く。

こんなことを考えていられる時間があったこと自体が。


エドリックはナイフを回収し、腰に戻した。

もう一度だけ、的を見つめる。


次にここへ来るとき、この手は、また違う目的で動いているだろう。


そう思いながらも、表情は変えず、訓練場を後にした。

戻れば、次の準備が待っている。


プライマでの静かな時間は、確実に終わりへ向かっていた。


***


全ての装備を整えた夜。

独立奇襲小隊のメンバーは、エドリックたちが休んでいる家に集まっていた。


部屋の中央に簡単な灯りが置かれ、その周囲に自然と輪ができている。

誰もが鎧や武器を身につけてはいないが、もう心は戦場に持っていっている。


「装備の方は大丈夫か?」


最初に口を開いたのはレナードだった。

視線を一人ずつに向け、確認するように問いかける。


「ああ。武器の調整は完了した」


オズワルが即座に答える。

「弓に関しても各自で調整してもらっている。……やっていないのはレナード、お前だけだな」


「分かっている」


レナードは苦笑しつつ頷いた。

「こちらも引き継ぎはすべて完了した。防具や食料の調整はどうだ?」


「防具は問題ない」

ロランが返答をする。


ダリルがその後を補足する。

「大きさも前から合わせてきたしな。ただ、今回の任務は革の防具って聞いているが……大丈夫か?」


「ああ」


レナードは迷いなく答えた。

「今回は敵国に潜入して、相手の拠点や周辺の町、村の状況を確認するのが主な役割だ。重装備は逆に邪魔になる」


言葉を区切り、続ける。

「軽装で動きやすさを優先する。テルティアでも防具の調整は可能だ。まずは速度だ」


「なら問題ないな」

ダリルは納得したように頷き、視線をトマへ向けた。


「食料の方はどうだ?」


「三日分だ」

トマが落ち着いた口調で答える。

「ここからセクンダまでは半日もあれば行ける。セクンダからテルティアまでは一日と聞いているから、少し多めにしてある」


全員が無言で頷いた。


「ただし、一日二食計算だよ」


トマは少しだけ肩をすくめる。

「三食に慣れちゃったから、最初は少しきついかもしれないね」


その言葉に、部屋の空気がわずかに緩み、軽い笑いが漏れた。


「まあ、それは慣れるしかないな」


レナードがまとめるように言う。

「少しすれば、嫌でも慣れる。地図はこちらで用意する」


そして、はっきりと告げた。


「出発は、明日の日が昇る前だ。集合場所は、いつもの広場」


全員が短く頷く。


「プライマに戻る時期は、まだ分からない」


レナードの声が、少しだけ低くなる。

「戦いを続けるかもしれないし、拠点の開拓を手伝う可能性もある。そこは、テルティアの隊長の判断に従う」


再び、全員が頷いた。

異論はない。覚悟も、もうできている。


「……今日は、早く寝ろ」


最後にレナードが言った。

「明日からは、また闘いの日々だ」


それで、話は終わった。


誰かが立ち上がり、誰かが灯りを見つめ、誰かが静かに息を吐く。

言葉はもう必要なかった。


エドリックは、無言で自分の装備に目を落とす。

革の防具、短槍、弓――

再び、それらを手にして進む道が始まる。


プライマで過ごした日々は、ここで一区切りだ。

寝台に入りだす仲間たちの背中を見つめながら、エドリックは思う。


(……明日だ)


エドリックが火を消して寝台に入る。

夜は、静かに更けていった。


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