第84話 酒の味を知った夜
食事を終えると、すぐに午後の任務が割り振られた。
昨日まで工兵として作業にあたっていた者たちは、畑の周辺に残る木々の伐採へ。
その中でも、元が農民だった者たちは畑の拡張作業に回され、役割ごとに散っていく。
午後の作業が始まると、その動きは驚くほど早かった。
誰かに急かされるでもなく、一人ひとりが自分の持ち場へ向かい、黙々と手を動かす。
朝のざわめきが嘘のように、現場には斧の音と土を掘る音だけが響いていた。
伐採作業も、想像以上に進んだ。
慣れがあるとはいえ、午後だけで三本の木を倒せたのは予想外だった。
効率だけを見れば、これまででも指折りの成果だ。
――そんなに、酒が飲みたいのか。
ふと、そんな考えが頭をよぎる。だが、その熱意が嫌なものには感じられなかった。
むしろ、皆が同じ目標を見据えて動いている、その一体感が心地よかった。
やがて、仕事終了を告げる鐘が鳴る。
その音を合図に、作業はきっちりと止まり、兵士たちは一斉に広場へ戻り始めた。
一緒に作業をしていたトマとダリルが、肩を叩いてくる。
顔には疲労よりも、期待の色が浮かんでいる。
エドリックも流れに乗り、広場へと足を向けた。酒を飲んだことは、まだ一度もない。
だが、ここまで皆が楽しみにしているものが、どんな味で、どんな気分になるものなのか興味を抱かずにはいられなかった。
夕暮れの空を見上げながら、エドリックは静かに歩みを進める。
この先に待つ、初めての体験を思い描きながら。
***
広場に戻ると、配給係から夕食を受け取った。
硬そうな黒パンに、湯気の立つスープ。そして今日は――肉。
それも、三切れも入っている。
さらに最後に渡されたのは、それほど大きくない木の器。
中には、琥珀色の液体が静かに揺れていた。
酒だ。
いつもより明らかに豪華な食事だった。
それだけで、胸の奥が少し浮き立つ。
「久しぶりだなぁ……」
ダリルが、器を掲げるようにして笑う。
「エールは本当に、どれくらいぶりだ!?俺は楽しみで仕方ねぇよ!」
「最後に飲んだのは、いつだったかな。プライマの開拓に入ってからは、ほんとに飲まなかったからね」
トマも懐かしそうに器を眺めている。
二人の声は弾んでいた。
その様子を見ているだけで、この酒が特別なものなのだと分かる。
そこへ、漁と狩りを終えたオズワルとロランも合流した。
二人とも、土と血の匂いをまだ身にまとっている。
「お前ら、うるせぇぞ。気持ちは分かるが、少しは抑えろ」
オズワルが苦笑しながら言う。
「俺は酒を進んで飲む方じゃないがな。……久しぶりなのは、確かだ」
ロランも器を手に取りながら続ける。
落ち着いた二人も、どこか楽しそうだった。
どうしても気になって、エドリックはオズワルに声をかけた。
「なあ、オズワル。酒って、そんなにうまいのか?なんで、みんなこんなに楽しそうなんだ?」
素直な疑問だった。
「んあ?」
オズワルは少し驚いた顔をしてから、すぐに納得したように笑う。
「そうか。お前、まだ十五だったな。なら酒は初めてか……」
そう言われて、少しだけ肩がすくむ。
「味については、まあ……人それぞれだ。だが、俺はうまいと思うぞ」
オズワルは器を傾けながら言う。
「まずくはない……体が温まる。冬場には、少し飲むくらいなら悪くない」
ロランも静かに補足する。
エドリックは首を傾げた。
「それならさ。冬の間、毎日出せばよかったじゃないか。ここに来てから飲んでる奴、ほとんど見なかったぞ?」
オズワルは、少しだけ真面目な顔になる。
「飲みすぎると、次の日に体調を崩すことがあるんだ」
淡々とした口調だった。
「それに、この拠点は水場が近い。金のかからねぇ水の方が、安上がりだろ?」
そう言ってから、肩をすくめる。
「エールは身近な酒だが、それでも多少は金がかかる。金がねぇなら毎日飲むもんじゃねぇってことだ」
なるほど、とエドリックは納得する。
皆が楽しみにしているのは、酒そのものだけではない。
――久しぶりだから。
――今日が特別な日だから。
そう理解すると、手元の木の器が、少しだけ重く感じられた。
エドリックは、まだ口をつけていない酒を見つめる。
初めての味。初めての感覚。
周囲の笑い声と、夕暮れの広場のざわめきの中で、
彼は静かに、その一口を迎える準備をしていた。
***
五人は、広場の端の少し落ち着いた場所に腰を下ろした。
焚き火の熱が、冷えかけた身体に心地よく伝わってくる。
「じゃあ、今日は特別な日だからな。先に、いただきますっと」
ダリルが木の器を持ち上げる。
そう言うや否や、迷いなくエールを口に運んだ。
トマも、それに続く。
「ゴク、ゴク……」
ダリルは器を下ろし、満足そうに息を吐く。
「っはぁ……うまぁ!久しぶりに、体に染み込むぜ!」
トマも目を細める。
「ああ……うまいね。なあダリル、もう一杯もらいに行こう」
「そうだな!早いもん勝ちだ!」
二人は立ち上がると、食事には手をつけないまま、酒の樽が置かれた方へ向かっていった。座ってから、まだ一分も経っていない。
「……ダリルはともかく、トマもあんなに酒好きだったか……」
オズワルが呆れたように呟く。
「まあ、今日くらいはいいだろう。区切りの日だ。少し気分が高まっても悪くない」
ロランが静かに言う。
「……そうだな」
オズワルも頷いた。
二人は落ち着いた様子で、パンをちぎり、スープを口に運びながら、時折エールに口をつけている。
「ん?」
オズワルがエドリックを見た。
「お前はちゃんと飯を食え。酒は、少し腹に入れてからの方がいい」
「腹に何か入れとけば、変な酔い方を防げるからな」
ロランも補足する。
エドリックはうなずいた。
「……わかった。いただきます」
パンをスープに浸し、ゆっくりと口に運ぶ。
温かい汁が、冷えた身体に染みる。
今日は肉の日だったか。三切れも配られるのは、正直かなり珍しい。
エドリックは一切れを噛みしめながら、そのありがたさを噛みしめていた。
一通り食べてから、木の器を手に取る。
中で揺れる琥珀色の液体を、しばらく眺めて――
意を決して、口をつけた。
……苦い。
だが、思っていたほどではない。
鼻に抜ける独特の香りと、舌に残る穀物の味。
水とも、スープとも違う。
(……変な味、ってほどじゃないな)
喉を通ると、じんわりと熱が広がる。
胸の奥が、ほんの少しだけ温かくなる感覚があった。
(でも……)
ダリルやトマのように、進んで飲みたいかと言われると、そうでもない。
嫌いではないが、特別うまいとも思えない。
――不思議な飲み物だ。
器を下ろすと、オズワルがこちらを見ていた。
「どうだ?初めてのエールは?」
少しだけ口元を緩める。
エドリックは、正直な感想を探す。
「……思ってたより、普通だな。まずくはない。でも……夢中になるほどでもない、かな?」
オズワルは小さく笑った。
「最初は、だいたいそんなもんだ」
「味よりもな。こういう場で飲むから、うまく感じるんだ」
ロランが静かに言う。
焚き火の音。周囲の笑い声。久しぶりに力を抜いた空気。
エドリックは、もう一度器を見つめた。
酒の味よりも――この時間そのものが、特別なのだと、ようやく分かり始めていた。
***
食事と酒を囲んでいると、広場の喧騒の向こうから足音が近づいてきた。
顔を上げると、レナードがこちらに向かってくる。
「おう。久しぶりのエールはどうだ?」
気取らない調子で声をかけてきた。
「最高だぜ!ただよ……量が少なすぎるだろ!」
間髪入れずにダリルが答える。
「当たり前だ!飲みすぎたら、明日仕事しなくなるだろ」
オズワルが鼻で笑う。
その一言に、場に笑いが広がった。
エドリック自身も、思わず声を立てて笑っていることに気づく。
(……あれ?)
いつもより、笑うのが簡単だ。胸の奥が、ふわりと軽い。
ロランがレナードに目を向けた。
「それより、どうした?明後日ここを出ることは、もう聞いているが」
「ああ、それは俺が伝えたからな。忘れてねぇよ。ここ、座るぞ」
レナードはそう言って、空いている場所に腰を下ろす。
「どうしたんだい?あっちで上層部と話し合ってたんじゃないの?」
トマが首を傾げる。
「してたさ。でもな、さすがに堅苦しくてな。こうして小隊で話してる方が、よっぽど気が楽だ……」
少し苦笑して続ける。
「俺の方が立場は上でも、ガレスは元上官だろ?気を抜くと、つい敬語が出ちまう」
「ああ……その気持ちは分かるな」
オズワルがうなずく。
「俺もプライマじゃ立場は同じでも、敬語が抜けねぇ。『いらない』って言われても、しごかれた期間が長すぎてな……」
「染みついたもんは、簡単に取れないもんだ。俺は上層部ではないから敬語で話しても問題はないが……」
ロランが静かに言った。
そんな会話を聞いているうちに、エドリックはふと瞬きをした。
まぶたが、妙に重い。
(……あれ?)
意識が、少し遠くなる。
「ん?おい、エドリック。眠いのか?」
ロランが気づいたように言う。
「ああ……疲れたのかな……」
エドリックは正直に答えた。
「なんだよ。もう寝るのか?」
ダリルが笑う。
「エールが効いてるんだろ。初酒なら、まあ仕方ねぇな」
オズワルが言った。
トマが優しく声をかける。
「器は片づけておくから、先に戻っていいよ。もう寝ちゃいな」
その言葉に甘えることにした。
立ち上がると、足元が少しだけふらつく気がする。
「……おやすみ」
背を向けると、後ろから声が飛んできた。
「まだまだ、お子様だなぁ」
笑い声が聞こえる。だが、もう振り返る気力はなかった。
家に戻り、寝台にもぐり込む。
毛布に包まれると、少し肌寒い。だが、それも気にならない。
焚き火の残り香と、遠くの笑い声。胸の奥に残る、ほんのりとした温かさ。
(……酒って、こういうものなのか)
そう思ったところで、意識はゆっくりと沈んでいった。
闇は、静かで、穏やかだった。




