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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第二部 鐘が響く前に

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第82話 静かな午前

目を覚ましたとき、外はまだ静かだった。


いつもと同じ時間だ。

身体が勝手に覚えているのだろう。鐘が鳴る前でも、自然と目が開く。


(……そうか。今日は午前中、休みだったな)


ぼんやりと天井を見つめながら、ようやく思い出す。

作業が終わった翌朝。珍しい、何も予定のない時間。


寝床から上半身を起こし、部屋の中を見渡した。

トマとダリルは、相変わらずの格好で毛布にくるまり、寝息を立てている。

昨日あれだけ動き回っていたのだから、無理もない。


反対側の寝床は空いていた。

オズワルとロランは、もう起きているのだろう。


(気を使ってくれたんだな)


起こさないように、静かに出ていったのが目に浮かぶ。

ありがたいと思う反面、少しだけ申し訳なくもなる。


もう一度横になろうかとも思った。

だが、目は冴えてしまっている。どうにも眠気が戻ってこない。


エドリックは小さく息を吐き、静かに身支度を整えた。

物音を立てないように気をつけながら、外套を羽織る。


扉を開けると、冷たい空気が頬を撫でた。

息はまだ白い。だが、以前ほど刺すような冷たさではない。


拠点の端に残っていた雪は、ほとんど姿を消していた。溶けた水が地面を濡らし、踏みしめると柔らかく沈む。


(……ずいぶん、変わったな)


何をするでもなく、エドリックは歩き出した。

ただ、拠点の中を、ゆっくりと。


櫓の影。倉庫の並ぶ一角。完成した防壁の内側をなぞるように進む。

しばらく歩いていると、拠点の外にある訓練場の方から、かすかに声が聞こえてきた。


張りのある怒声。

短く、鋭く、腹の底まで届くような響き。


(……ガレス、か?)


距離があるせいではっきりとは聞き取れないが、あの調子は間違いない。

号令と、それに続く若い声。まだ息の揃わない返事。


(この時間から、訓練はやってるんだな)


午前中は休みと言われているのは工兵だけだ。

新兵たちにとっては、いつも通りの朝なのだろう。


濡れた地面を踏みしめるたび、靴底に伝わる感触が少しずつ違う。

柔らかい土。踏み固められた道。人の手が入った跡。


冬の間、聞こえていた斧の音も、ロープのきしむ音も、今はない。

代わりにあるのは、遠くの訓練の声と、朝の静けさだけだ。


エドリックは、深く息を吸った。

冷たい空気の中に、かすかに湿った土と草の匂いが混じっている。


春は、確実に近づいている。


***


エドリックは、完成した櫓の近くまで足を運んでみた。

見張り台の上では、数人の兵士が朝の交代を終えたところらしく、道具を整えながら低い声で話している。


「おはよう」

声をかけると、すぐに返事が返ってきた。


「あれ?お前ら工兵は休みなんじゃねぇか?」


「ああ、午前中だけな」

エドリックは肩をすくめるように笑った。

「なんとなく散策してるだけだ。寝ようとしても、どうにも寝れなくてさ」


短い会話だったが、それで十分だった。

顔を合わせれば自然と挨拶を交わす。最初は部隊も違い、言葉を交わすことも少なかった相手だ。だが、同じ拠点で半年も過ごせば、もう立派な仲間だった。


「それで、お前らは何してるんだ?」

エドリックは櫓の下に置かれた籠や道具に目を向けた。

「お前らは休まないのか?」


「俺たちは最後の方は工作に入ってなかったからな」

「これから収穫だ」


「……収穫?離れの畑にか?」

思わず聞き返す。


拠点を出て、バルデ砦側に畑があることは知っている。

だが、工兵作業に追われていたエドリックは、正直なところ、畑の様子をきちんと見たことがなかった。


「そうだ。ライ麦とカブだな。冬前に種をまいたやつだ」

「お前も見るか?暇だろ?」


そう言って、兵士は少しだけ口元を緩めた。

「作業は邪魔だからさせないけどな」


冗談めかした言い方に、エドリックも小さく笑った。

「見るだけなら、ちょうどいいな」


冬の間、斧と縄と土ばかり見てきた。

その先にある実りを、まだ自分はちゃんと見ていない。


エドリックは頷き、兵士たちと並んで歩き出した。


***


畑に着くと、すでに何人かの兵士たちが収穫作業に入っていた。

腰を落とし、土を払うようにしてカブを抜き、籠へと運んでいく。

畝の間を歩くたび、湿った土の匂いと、青い葉の擦れる音が立ち上った。


畑は、エドリックが想像していたほど大きくはない。

それでも、この拠点に駐屯している兵士たちだけなら、しばらくは困らないだろうと思えるほど、作物はよく実っていた。


一緒に来た兵士が、誇らしげに声をかけてくる。

「すげぇだろ?伐採や防壁の設置も頑張ったがよ。こっちも負けてねぇだろ?」


エドリックは畑を見渡し、素直にうなずいた。

「……確かにすごいな。こんなに収穫できるのか」


「徴募兵のほとんどは農民だからな。……もちろん、俺もだが」

そう言って肩をすくめる。

「多少なりとも知識はある。正直、この冬は思ったより寒くて不安だったけどよ……ちゃんと育ってくれて助かった」


そう言ってから、畑の奥を指さした。

「俺は先に行って収穫を手伝うよ。エドリック、お前はここで見てな。長くなりそうだから、飽きたらどっか行ってもいいぜ」


一緒に来た兵士の一人はそう言い残し、畑の中にいる仲間たちと合流した。作業の様子を眺めていると、もう一人が、ふと思い出したように振り返る。


「レナード隊長の話だと、この拠点は食料の供給が主な役割になるらしい」

少し照れたように笑う。

「俺もな、徴募されたときは、どっかで野垂れ死にするんだろうなって思ってた。でも、こんな仕事なら大歓迎だ。ずっとこんな感じなら本当にありがたい」


その目は、はっきりとした光を宿していた。


「……お前らは、春になったらまた戦場に出る可能性が高いんだろ?」

一瞬、言葉を選ぶように間を置く。

「俺たちは畑仕事を中心に、拠点の防壁の任務につくことになった。正直……少し申し訳ねぇ気もする」


エドリックは首を横に振った。


「でもな」

兵士は続ける。


「戦争だけじゃ、生きていけねぇ。飯は必要だろ?」

籠いっぱいの作物を見下ろし、はっきりと言った。

「それを作って、お前たちみたいに戦場に出る仲間を支える。それが俺の戦争だ」


エドリックは、その言葉を噛みしめるように聞いてから、静かにうなずいた。


「……そうだな。それも、立派な戦いだ」


「隊長の話じゃ、この拠点には王都から孤児や、怪我で戦場に立てない奴らも送られてくるらしい」

兵士は遠くを見るような目をした。


「そいつらに仕事を教えながら、この拠点を守り抜く。それが俺の役目だ」


エドリックは、短く息を吐いた。

「……ああ。飯のことは、頼んだぞ」


「任せとけ。収穫が終わったら、畑も拡張しなきゃならねぇ。もしかしたら、また伐採するかもな」


そう言って、肩を少しすくめた。

「伐採や伐根は頑張れ。俺たちは……手伝わねぇけどな」

二人は顔を見合わせ、同時に笑った。


「そろそろ、俺は収穫に戻るわ」

兵士は畑の方を振り返る。

「見てるか?」


「いや、いいよ。邪魔になりそうだし、手伝えって言われたら嫌だし」

エドリックは首を振った。


「ははっ、確かにな」

兵士は笑いながら手を振った。


「じゃあな。ゆっくり休めよ」


「ああ」

そう答えると、兵士は畑の中へ戻っていった。


エドリックは一人、畑の端に立ち、土と作物と、人の手の跡を静かに眺めていた。斧と剣だけが、戦いではない。そのことを、春の畑ははっきりと教えてくれていた。


***


あれからエドリックは、拠点の中をさらに歩き回っていた。


完成した防壁の内側。その一角では、食糧貯蔵庫の建設が進められている。

太い柱が組まれ、壁の下地が整えられた段階で、まだ中はがらんとしていた。


少し離れた場所には、粉挽き場の予定地もある。

今は仮設の小屋と石臼が置かれているだけだが、ここも正式な建物になる予定だという。


完成は春から夏にかけてになるらしい。今すぐではないが、確実に形になる未来だ。


(俺たちは、その頃にはここにいないんだろうな)

任務に出れば、次に戻って来られる保証はない。


それでも――

(戻ってきたときには……)


この拠点は、ただの前線基地ではなくなっているはずだ。

兵士が駐屯する場所であり、食料を生み、粉を挽き、人が暮らす場所。

もはや拠点というより、小さな町に近いものになるのだろう。


そんな光景を想像すると、胸の奥に小さな楽しみが芽生えた。

エドリックはそれを振り払うように軽く息を吐き、家へと戻ることにした。


***


「おお。お帰り、エドリック。散策か?」


扉を開けると、ダリルの声が飛んできた。中を見ると、トマもすでに起きていて、身支度を整えている。どうやら、思っていたよりも長く歩き回っていたらしい。


「起きたらエドリックがいないから、びっくりしたよ」

トマが笑いながら言う。

「いつもは一番遅くまで寝てるのに、今日は一番早かったからさ。さっきまでダリルと、休みを忘れて伐採場まで行ったんじゃないかって話してたんだ」


「そんなことないよ。二度寝しようとしたんだけど……目がさえちゃってね」

エドリックは苦笑する。


「そんな日もあるよね」

トマはそう言って、手に持っていたパンを放ってよこした。


「ほら。まだ飯、食べてないだろ?」


「ありがとう、トマ」


受け取ったパンをかじりながら、エドリックは言った。


「散策、結構楽しかったよ。拠点の中の建物をよく見ていなかったから新鮮だった」

それからダリルを見る。

「二人も行ってみれば?ライ麦の収穫、やってたぜ。ほら、お前ん家、粉屋だったろ?参考になるんじゃない?」


「マジか?!」

ダリルが目を輝かせる。

「でも今日は寝るって決めたんだよなぁ……」


三人でそんな他愛もない話を続ける。

パンを食べ、笑い、窓から差し込む春の光を眺めながら。


気がつけば、拠点に正午を告げる鐘の音が響いていた。


珍しい、何も追われない時間。

その静かな午前は、穏やかな余韻を残したまま、ゆっくりと終わっていった。


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