第81話 すべてを引き抜いた日
正午を告げる鐘の音が、拠点の方角から低く響いた。その音を合図にするように、ロープを握る兵士たちの間に、短い緊張が走る。
「……行くぞ」
親方の声が落ちた。
「せーの!!」
掛け声と同時に、全員が一斉に身体を後ろへ倒すように力を込めた。
張り詰めたロープがきしみ、腕と肩に重みがのしかかる。
――ミキ……ミキミキ……
大地の奥から、鈍く軋む音が返ってくる。だが、切り株はまだびくともしない。地中深く、根がしっかりと踏ん張っているのが伝わってきた。
「……まだだな」
誰かが息を吐く。
「もう一度だ!力を抜くな!せーの!!」
親方の声が、すぐに続いた。
再び、全員が引いた。
――ミキ……ミシ……
さきほどよりも、わずかに軽い。ロープ越しに伝わる抵抗が、ほんの少しだけ弱まったように感じられる。
「踏ん張れ!来てるぞ!もう一度だ!!」
親方が叫ぶ。
「せーの!!」
三度目の号令。
兵士たちは歯を食いしばり、足を踏み込み、全身の力をロープに預けた。腕が震え、呼吸が乱れる。それでも、誰一人として手を離さない。
――メリ……メリメリッ!!
今度は、はっきりと違う音だった。地中で、太い何かが裂ける感触が、ロープを通して伝わってくる。
「……来たぞ!」
誰かの声が上がる。だが、誰も引くのをやめない。力を緩めれば、また根が踏ん張る。それを、全員が身体で理解していた。
そして――
――バキィッ!!
乾いた音が、森に響いた。
切り株が大きく傾き、土を巻き上げながら、ついに地面から引き抜かれる。
勢い余って、後方にいた何人かが尻もちをつき、鈍い音を立てて倒れ込んだ。
一瞬の静寂。
それを破ったのは、親方の声だった。
「よーし!!抜けたぞ!!」
切り株の根元が、完全に地上にさらされている。
最後の一本――それが、確かに抜けていた。
「これで終わりだ!!」
その瞬間だった。
「おおおおおっ!!」
雄たけびが、あちこちから上がる。喉が裂けるほど叫ぶ者、拳を突き上げる者、地面に座り込んで笑い出す者。少し離れた場所で地面を均していた兵士たちも、何事かと顔を上げ、状況を理解すると、同じように声を上げてくれた。
終わったのだ。こちら側の伐根作業は、すべて。
隣の拠点の方では、まだ数本の切り株が残っているのが見える。
だが、この区間――自分たちが任されていた場所は、完全に片付いた。
親方は一度、大きく息を吐いてから言った。
「よし、いったん休憩だ!」
そして、少し声の調子を落とす。
「午後は、あちらの様子を見て、手伝うかどうかを判断する。ひとまず……お疲れだ!」
再び、歓声が上がった。
「やったな、エドリック!」
ダリルが勢いよく駆け寄ってきて、そのまま体当たりするように飛びついてくる。
腕も手も泥だらけで、頬にも黒い筋が残っていた。
だがそれを汚いなどとは、微塵も思わなかった。
「ああ!やったな!」
エドリックも声を上げ、ダリルの背を強く叩く。
二人はそのまま、ぎこちなくも力いっぱい抱き合った。
汗と土の匂い。重なった呼吸。
冬の間、何度も同じ場所で斧を振り、縄を引いてきた仲間の感触。
言葉はいらなかった。
「……ほんと、長かったなぁ」
ダリルが、少し照れたように笑う。
「ああ。正直、途中で終わらないんじゃないかと思った」
エドリックも笑い返した。
そこへ、トマが近づいてくる。
手には縄の切れ端を持ったまま、肩で息をしながら。
「二人とも……お疲れ様!やっと終わったな!」
そう言って、少しだけ目を細めた。
「やっと終わったな!だが…腕も腰も、もうボロボロだ」
ダリルが肩をすくめる。
「それでも、終わった。……全部、終わったんだ」
トマは短く、しかしはっきりと言った。
その言葉が、改めて胸に落ちてくる。
周囲を見渡せば、仲間たちが互いに肩を叩き合い、笑い、声を上げている。
道を均していた兵士たちも作業を止め、こちらに向かって手を振っていた。
冬の間、黙々と続けてきた仕事。誰に褒められるわけでもなく、ただ必要だからやってきた作業。
それが今、確かな形として残っている。
エドリックは、もう一度だけ道の方を見た。そして、仲間たちの輪の中へと戻っていく。
この仕事を、一人でやり遂げた者はいない。皆で引き、皆で掘り、皆で耐えた。
だからこそこの達成は、皆のものだった。
***
昼食のあと、エドリックたちは向こうの拠点の伐根作業を手伝いに向かった。
だが、不思議なことに、誰一人として嫌な顔をする者はいなかった。
「どうせ、もう終わりだしな」
そんな声が、あちこちから自然に漏れていた。
その言葉どおり、午後の作業は驚くほど順調だった。
牛の力も借りながら、こちらの手で――合計四本もの切り株を抜くことができたのだ。
土を掘り返し、根を削り、縄を掛け、合図を合わせて引く。
午前中までとは違い、皆の動きには迷いがなかった。終わりが見えているというだけで、人はこれほどまでに力を出せるのかと、エドリックは思った。
作業の合間、向こうの拠点の兵士から声を掛けられた。
「明日は、こっちだけでやる。残りは二本だ」「もう、すぐ終わるよ」
その言葉に、自然と笑みがこぼれた。
それなら、きっと問題ない。今日一日で、ここでの工作作業は事実上、すべて終わったのだ。
拠点へ戻るころには、空はすっかり暗くなっていた。
焚き火の明かりが点々と灯り、昼間の喧騒が嘘のように静まり返っている。
そんな中、伝えられたのが、明日の予定だった。
――工兵は、午前中は休み。
それだけの一言だったが、伐根作業に関わってきた者たちから、小さなどよめきが広がった。
「……マジか」
「久しぶりだな、何もない朝って」
声を張り上げて喜ぶ者はいない。
だが、誰もが顔を緩め、深く息を吐いていた。
それだけで、十分だった。
エドリックもまた、静かに夜空を見上げる。身体は重く、腕や腰には鈍い痛みが残っている。それでも、心の奥には、確かな満足感があった。
ここでの仕事は、終わった。
次に何が待っているのかは、まだ分からない。
だが今夜だけは、そのことを考えなくてもいい。
エドリックはそう思いながら、静かな夜の拠点へと歩いていった。
***
夕食を終えたあと、エドリックたちは家へ戻り、今日一日の出来事を自然と話し始めていた。炉の火は小さく、部屋の中にはまだ作業着に残る土の匂いが漂っている。
「やっと工作が終わったぜ!」
ダリルが、抑えきれない様子で声を上げた。
「長かったぁー……ほんとに!」
その様子を見て、オズワルが道具を片づけながら苦笑する。
「おうおう。聞いてるよ。お疲れさん。明日の午前は休みなんだろ?漁の手伝いでもするか?」
そう言ってから、ちらりとダリルを見る。
「勘弁してくれよ!明日は、ゆっくり寝てたいんだって!」
ダリルは即座に叫んだ。
その言葉に、部屋の中に笑い声が広がる。
「まあな。だが、お前らのおかげで、以降の連携はかなり取りやすくなるはずだ。上の連中も、そりゃ喜んでるだろうよ」
オズワルは肩をすくめる。
その一言に、全員がそろって苦笑した。
余計な言葉を飾らず、事実だけを言う――いかにもオズワルらしい。
「とはいえだ。これで、あとはレナードを待つだけだ。お前らも、少しはゆっくりできるんじゃねぇか?」
その言葉に、嬉しさが込み上げる一方で、どこか引っかかるものもあった。
自分たちが休んでいる間も、オズワルとロランは動き続けるのだから。
そんな気配を察したのか、オズワルはエドリックを見て言った。
「エドリック。別に手伝いなんていらねぇぞ?」
きっぱりとした口調だった。
「こっちは本職だ。素人に教えながらやるほうが、よっぽど時間がかかる」
「そうだな。慣れていない者が近くにいると、獲物はすぐ気配を察する。結果的に、成果が落ちる。お前たちは休んでいろ」
ロランも静かにうなずく。
言い方は少し乱暴だが、気遣ってくれているのははっきり分かる。
それを受けて、トマが静かに口を開いた。
「……そうだね。漁と狩りは二人に任せて、俺たちは午前中はゆっくりさせてもらおう」
穏やかな声だった。
その言葉で、場が落ち着くかと思った――が。
「そうだな!明日は寝るぞ!水汲みも頼んだ!どっちでもいいぜ!」
ダリルが勢いよく頷いた。
一瞬、部屋の空気が止まった。
「……調子に乗ってんな、お前」
オズワルが、低い声で言う。
「……そうだな」
ロランも同意しながら、拳を軽く鳴らした。
二人は笑顔のまま、じりじりとダリルに近づく。
その表情が、逆に怖い。
「じょ、冗談だって!」
ダリルは慌てて手を振った。
「水汲みは任せてくれ!二人よりも早く起きて、ちゃんとやっとくからさ!」
「おう。頼んだぞ。俺が起きたときに寝てたら、たたき起こすからな」
オズワルは満足そうに頷く。
そして、ちらりとロランを見る。
「良かったな。明日はダリルが当番だ」
「ああ。助かる。ダリルお前のおかげで少し長く寝れそうだ」
その瞬間、ダリル以外の全員が笑った。
ダリルだけが、「やっちまった……」という顔で頭を抱えている。
部屋には、久しぶりに気負いのない笑い声が満ちていた。明日のことを思えば、また忙しくなるのは分かっている。それでも今夜だけは、終わった仕事の余韻に浸っていてもいい。
そんな空気の中で、夜はゆっくりと更けていった。




