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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第二部 鐘が響く前に

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第79話 人の手と獣の力

目を開けたとき、部屋の中は静まり返っていた。まだ身体は寝床の温もりを引きずっていて、頭も完全には覚めきっていない。天井を見上げたまま、少しだけ瞬きをする。ロランとオズワルの寝床が、空いていることに気づいた。


(早いな……)


そう思いながら、身体を起こした。漁師や狩人は朝が早い。理屈ではわかっているが、こうして実感すると、あらためて感心してしまう。


喉の奥で小さくあくびを噛み殺し、当番のことを思い出した。


今日は水汲みだ。


布を羽織り、静かに身支度を整える。

横を見ると、トマとダリルはまだ寝ていた。二人とも毛布を引き寄せたまま、規則正しい寝息を立てている。


起こさないよう、足音を殺して外へ出た。


外気に触れた瞬間、息が白くなる。まだ寒さは残っている。だが、地面の端に積まれていた雪は、以前よりも確実に減っていた。踏みしめた土は柔らかく、凍りついた冬の朝とは違う感触がある。


(……春が近いな)


外に置いてある桶を手に取り、水場へ向かう。拠点の中を歩くうち、少しずつ人の気配が増えていった。井戸の周りには、すでに何人かが集まっていた。順番に桶を下ろし、縄を引き上げ、溜めた水を別の容器へ移している。


列の最後に並んだとき、背後から声をかけられた。


「おはようございます。エドリックさん」


振り返ると、ナッシュが立っていた。

相変わらず背筋が伸びていて、朝からやけに元気そうだ。


「……ああ。おはよう、ナッシュ。朝から元気だな」


「元気だけが取り柄なんで。それにしても、水汲みなんて珍しいですね」

そう言って、にっと笑う。


「昨日寝坊してな。今日から三日間連続でやれって、オズワルに言われた」


ナッシュは一瞬だけ目を逸らし、すぐに同情するようにうなずいた。

「……それは、きついですね」


話しているうちに、順番が回ってくる。


桶を井戸の縁に置き、縄を掴んで下ろす。暗い穴の奥で、水音が小さく響いた。


しばらくして、重みが伝わってくる。

縄を引き上げると、桶の中で水面が揺れ、朝の光を反射した。


(冷たそうだ……)


桶を満たし、縁に置いてから息を整える。


「じゃあ、また後でな。訓練、がんばれよ」


「はい!了解です!」


軽快な返事を背に、エドリックは桶を持ち上げた。腕と肩にじわりと負荷がかかる。


家へ戻る頃には、眠気はすっかり消えていた。

ただ――


(あと二日か……)


さすがに、毎朝これは堪える。これからは、絶対に寝坊しないように気をつけよう。そう心に決めながら、エドリックは静かな朝の拠点を歩いていった。


***


「せーの!!」


掛け声と同時に、何人もの兵士が一斉に身体を後ろへ倒すように力を込めた。太いロープが張り詰め、指先にまで重みが伝わってくる。エドリックもダリルも、その列の中にいた。足を踏ん張り、肩に食い込む縄を歯を食いしばって引く。


――ミシ……ミシミシ……


鈍く、嫌な音が地面の奥から響く。

だが、切り株はわずかに揺れただけで、すぐに動きを止めた。


「……くそっ!」


誰かが短く吐き捨てる。


「もう一度だ!」

声を張り上げたのはレナードだった。


伐根班の先頭に立ち、太いロープを握りしめたまま、振り返る。

その顔には疲労の色が浮かんでいたが、視線はまっすぐだった。


「一度じゃ抜けねぇ!何度もやるぞ!」


誰からともなく短い返事が返る。


「行くぞ……せーの!!」


再び、全員が力を合わせて引いた。


――ミシミシッ!!


今度は音が違った。

地面の奥で、何かが引き裂かれるような感触が、ロープ越しに伝わってくる。


「……動いたぞ!」


誰かの声に、さらに力が込められる。


二十人以上が、号令に合わせて何度も何度もロープを引く。

引いては踏み直し、息を整え、また引く。


土が盛り上がり、切り株の周囲にひびが走った。

黒ずんだ根が、土の中から少しずつ姿を現す。


「見えた!根が出てきたぞ!」「もう一息だ!!」


泥にまみれ、息を荒げながら、それでも誰一人手を離さない。

最後の力を振り絞るように、全員が身体を後ろへ倒した。


――バキィッ!!


乾いた音とともに、太い根が裂ける。


切り株が大きく傾き、土を引きずりながら、ついに地面から引き抜かれた。


「……抜けた……」

一瞬の静寂のあと、誰かが大きく息を吐いた。


レナードはロープを放し、切り株を見下ろす。泥と根に覆われたそれを見て、小さくうなずいた。


「よし。次だ。まだ終わりじゃねぇぞ。お前たちは先に行ってロープをかけてくれ。それ以外は埋め戻してからだ」


その声に、数人は疲れた身体を引きずりながらも、再びロープを掴み、他の切り株に向かっていく。


エドリックは荒い息を整えながら、土に残った大きな穴を見つめる。

人の手だけで、大地を引き剥がした跡だった。


伐り株が抜けた場所には、ぽっかりとした穴が残った。

だが、感慨に浸る暇はない。


「埋め戻すぞ。根の欠片、残すなよ」


レナードの声に、残った兵士たちはすぐ動いた。鍬とシャベルで掘り返した土を戻し、絡みついていた細い根や石を拾って脇へ放る。盛り上がった部分は軽く削り、へこんだ場所へ押し込む。完璧な仕上げではない。だが、人が通るには十分だった。


何人かが並び、足で踏み固める。

泥が靴裏にまとわりつくたび、地面は少しずつ締まり、形を取り戻していった。


「……よし、こんなもんでいい。次だ」


レナードが短く告げる。

抜けた根の跡は、ほどなく見えなくなるだろう。


そうやって、森は少しずつ削られ、均され、通れる場所へと変わっていく。


エドリックは一度だけ振り返り、ならされた地面を踏みしめた。

柔らかいが、確かに足を受け止める感触がある。


(……道になってきてる)


そう思い、彼もまた次の切り株へ向かった。

作業は、まだ続く。


***


昼食は、伐根班用に設けられた簡易の休憩所で取っていた。倒木を並べただけの腰掛けに座り、湯気の立つ椀を手にする。エドリックの向かいにはトマとダリル、少し離れた位置にレナードが腰を下ろしていた。全員、土と泥にまみれたままだが、今はそれを気にする余裕もない。


「なあ、レナード。今日はあと何本ぐらい、伐根やる予定なんだ?」

ダリルが椀を傾けながら声をかける。


レナードは一口食べてから、短く息を吐いた。

「ああ……できれば今日だけで、あと合計で五、六本は抜きたいな。だから午後も、正直きついぞ」


その返事に、エドリックとトマ、ダリルの三人はそろって顔をしかめた。


「……本気かよ。午後も大変だな……」

エドリックが思わず呟く。


「そうだね。……でも、それって牛も入れて、だよね?」

トマも苦笑する。


レナードはうなずいた。

「ああ、もちろんだ。人力だけで抜くのは多くても二、三本が限界だろう。一日で四本も抜ければ上出来だ」


その言葉に、ダリルが少し身を乗り出した。

「やっぱ、牛ってすげぇよな」


「すごいなんてもんじゃない。人間が二十人がかりで引いて、やっと動く根でも、牛が入れば話が変わる。縄をかけて、合図を出せば、一気に持っていかれることもある」

レナードはそう言って、椀を置いた。


エドリックは、午前中に見た光景を思い出していた。土を盛り上がり、根を引き裂き、大地ごと剥がすように抜かれていく切り株。あれを、人ではなく牛が引いていく姿。


その時、トマが少し考え込むようにして口を開いた。

「……正直、ここまで役に立つとは思ってなかったよ」


三人の視線が、トマに向く。

「俺、徴募される前は牛飼いだっただろ?畜産の牛だからさ。力は強いけど、基本は歩かせて、耕して、荷を引かせるくらいだった」


「じゃあ、伐根は?」

ダリルが聞く。


「やらないし、もし誰かに言われたとしても断っていたよ。危ないからね。根っこに足を取られて、ケガでもさせたら一大事だ。無理をさせる仕事じゃないって教えられてた」

トマは即答した。


一瞬の間。


トマは視線を落とし、スープを軽くかき混ぜる。

「でも……こうしてちゃんと根を削って、人が準備して、引く方向も決めてやれば……牛の力は、まるで別物になるんだなって」


レナードが小さくうなずいた。

「使い方次第、ってことだな」


トマは静かに肯定する。

「力はもともと持ってる。ただ、それをどう使うかを知らないと、宝の持ち腐れだ。」


ダリルが感心したように息を吐く。

「なるほどな……牛も、俺たちと一緒か」


「そうかもしれないね」

トマは少しだけ笑った。


エドリックは、そのやり取りを聞きながら思った。

人の力、獣の力、そして経験。それぞれが噛み合って、ようやく道が前に伸びていく。


「とはいえな。牛任せにできるわけじゃない。根を削るのは人だし、絡んだ部分を切るのも人だ。牛は最後の一押しをしてくれるだけだ」


「なるほど……だから、人力と並行してやってるんだね」

トマが小さくうなずく。


「そういうことだ。人が準備して、牛が引く。どっちが欠けても、効率は一気に落ちる」

レナードは軽く笑った。


ダリルは椀を空にしながら、感心したように言った。

「俺たち、知らないうちにずいぶん贅沢な現場で働いてるんだな」


「贅沢、か」

エドリックはそう呟き、森の方角へ目を向けた。

伐根された跡、ならされた地面、その先に続く道。


人の力と、獣の力。どちらも使って、ようやく前に進める。


「……でもさ。それだけ急いでるってことだよな」

エドリックは椀を置き、静かに言った。


レナードは否定しなかった。

「ああ。春は待ってくれない。道がつながれば、次が始まる」


その「次」が何を指すのか、誰も聞かなかった。

聞かなくても、全員わかっていたからだ。


遠くで、伐採班に休憩を知らせる声が上がる。

午後の作業まで、残された時間はわずかだった。


エドリックは立ち上がり、軽く背を伸ばした。


「おっ?エドリック、やる気満々だな」

レナードが食事を止め、エドリックを見る。


軽く、からかうような笑いだった。


エドリックは肩をすくめるようにして、苦笑する。

「そうかもね。早く作業を終わらせて、任務の前に少しはゆっくりしたいよ」


それを聞いた瞬間、ダリルが目を見開いた。

「えっ!?工作が早く終われば、少しは休めるのか!?」

本気で驚いた声だった。


トマが、くすっと笑う。

「そんなことはないと思うよ。早く終わったら……たぶん、訓練だね」


「……まじかぁ……それなら、ちょっとゆっくりやったほうが……」

ダリルは一気に肩を落とした。


言い切る前に、エドリック、トマ、レナードの三人が同時に笑った。


レナードは笑いを収め、器を置く。

「さて……そろそろ作業に戻るぞ。まだまだ根っこは山ほど残ってる」


その言葉に、一同は自然と表情を引き締めた。


(休みは……全部終わってからだな)

誰も文句は言わない。それぞれが、午後の作業を思い描いていた。


その時、拠点の方角から低く澄んだ音が響く。

午後の作業開始を告げる鐘だった。


一同は顔を見合わせ、無言でうなずく。

こうして、昼のひとときは終わり、再び、森と根と土に向き合う時間が始まった。


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