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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第二部 鐘が響く前に
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第74話 森を切り開く音と任務の声

朝の冷気が、寝台の毛布越しにもじんわりと肌に刺さってくる。

(……さむ……)


目を開けると、薄い朝焼けが窓の隙間から漏れ込み、室内の埃を金色に浮かび上がらせていた。冬の終わりから春に向かっているとはいえ、朝の空気はまだ鋭い。寝台から起き上がって背中を丸めていると、すぐ隣の寝台からダリルの声が飛んできた。


「おはよう。……って、今日は早いな?」


「そんなことはないよ。ただ……今日は薪割りをしたくなくて、自然と早く目が覚めたのかもしれない」

俺は肩をすくめながら、足を床につけた。


「どういうことだよ、それ」

ダリルは笑いながら毛布を投げ飛ばし、腕を伸ばして背中を鳴らしていた。俺も支度に取りかかろうと腰を上げる。そのタイミングで、外から戻ってきた気配とともにドアが開いた。


「おう、起きたか」

オズワルが水桶を片手に入ってくる。


「汲んできたぞ。明日はお前が当番だからな、エドリック」


「わかったよ。……明日は早く起きるように頑張る」


「寝てたら蹴り起こすからな」

オズワルはわざとらしく笑い、桶を床に置く。


そこへ、トマがパンの入った布袋を抱えて入ってきた。

「おはよう。朝ごはん持ってきたよ」


「ありがと」

ダリルが手を伸ばし、


「おう」

オズワルもすでにパンを掴んで食べ始めている。


「そこに置いといて。準備してから食べる」

俺が言うと、トマは笑って袋を置き、腰に手を当てた。


「早く準備しなよ。……あれ、オズワルはもう出るのかい?漁の日みたいに」


「いや」

オズワルはパンを半分かじりながら首をふる。


「今日はお前らと同じくらいに出れば十分だ。漁と違って、どの班も作業開始が同じだし、訓練開始時間も同じだからな」


たしかに、拠点内の作業は基本的に朝の鐘ひとつで動き出す。

漁は夜明け前に動く必要があるが、今日は訓練兵への指導。工作班と開始時間は同じだ。


オズワルは食べ終わるのがやたら早い。トマとダリルももうすぐ手を止めそうだ。

俺は着替えを終え、ようやくパンをかじり始めた。


こんな慌ただしい朝だけど、――今日の作業が薪割りじゃないとは限らない。

そこが、なんとも言えない不安材料だ。


班割りは現場に行ってからその日の上官が決める。

だから希望もあれば、覚悟もしておかなきゃならない。


(……頼むから、今日は薪割りじゃありませんように……)


そんな願いが、パンの味より先に胸の中でじんわり広がっていった。


***


森に入った瞬間、冬の名残の冷気が肌に触れた。

道の中央はすでに雪が溶けて泥が顔を出しているが、兵たちが何度も掻き出し、固め、脇に寄せた雪が白い堤のように並んでいる。

冬から春へ――そんな季節がちょうど入り混じった空気だった。


今日は割り振りで俺だけが伐採班。

トマとダリルは防壁設置班に回った。

「じゃあな!」と手を挙げて別れた二人の姿が遠くの木々に消える頃、伐採班の指揮役が大声を張った。


「――全員聞け!今日は予定区間の二倍だ!連絡路を通すルートが確定したから、一気に幅を出すぞ!一班は伐採!二班、枝落とし!三班、運搬は道幅の確認も並行だ、絶対に逸れるなよ!」


伐採は砦の生活のためだけじゃない。

近くの拠点とこの砦をつなぐ連絡路――軍用道路の整備が目的だ。

連合の動きが激しくなってくるであろう春までに、拠点同士の行き来が遅れれば、それだけ全滅の危険が高まる。


だから今日の作業は、いつもの薪集めよりも一段階重く、広い視点を持った仕事だった。


三十人という大人数で森に踏み込み、各班が決められた位置へ散らばっていく。

雪解けの森は静かで、息をするたび湿り気を帯びた空気が肺に入り込む。

針葉樹の匂いが、まだ冷たい風と混じり合い、どこか清潔な香りが漂っていた。


俺の班が担当するのは、まっすぐ南東へ伸びる一本のライン。モミやトウヒが多いが、いずれも背丈が高い。切り倒した木は薪にも防壁用の材木にも使えるだけでなく、雪が少し残る道に運搬することで、荷が滑りやすくなって運びやすい。


斧を握り、幹に手を当てると、冷たさと湿り気が指に伝わる。班長が杭の位置を確認しながら叫んだ。


「ここの列だ!道幅は馬二頭が並べるくらいは必要だぞ!」


「了解!」


俺たちは一斉に木へ取りついた。


――トンッ

――ガンッ、ガンッ、ガンッ


斧が幹に食い込む音が、冬木立に鋭く響く。

離れた場所からも、同じ響きがリズムのように返ってくる。


春が近づいているとはいえ、針葉樹の皮は冷たく湿っていて、斧を引き抜くたびに手首へじんとした反動が走る。

幹の中心部に近づくと、白く湿った木粉がふわっと舞い、鼻をくすぐった。


十分な切れ込みが入ると、班長の怒号が響いた。


「倒れるぞー!後ろに下がれ!!」


俺たちは瞬時に距離を取り、緊張しながら木の傾きを見る。


――ギギ……ッ

――バキィィン!!


幹が裂ける音が空気を震わせ、巨木が軋みながら横倒しになった。雪解け水が跳ね、地面が大きく揺れる。倒れた瞬間、森の奥まで光が差し込み、白い靄がふわっと舞った。


すぐに二班が駆け寄り、枝落としに取りかかる。


――パスッ、パスッ!


硬い枝が次々切り落とされ、淡い緑の針葉が雨のように落ちる。

太い主幹は俺たち伐採班が粗く切り分け、運搬班がそれを抱えていく。


切り倒された一本の木から、枝、根元の太い部分、中くらいの幹、薪材になる細い部分まで、次々に分解されていく様子は、まるで巨大な生き物の解体作業のようだった。


運搬班は合計十名。

大柄な者は一人で、普通の兵は二人一組で丸太を担ぎ上げる。


「滑るぞ、足元気をつけろ!」

「こっちの雪道の方が運びやすいな!」

「杭の位置は合ってるかー?確認しろー!」


声が四方から飛び交う。


俺たちが新しい木を倒す一方で、少し後方――数日前に伐採した区画では伐根班の十人が作業を続けていた。彼らが相手にしているのは今日の倒木ではなく、すでに幹も枝も運び出された後に残った切り株だ。


根元の土は冬の間に締まって固くなっており、まず周囲をぐるりと掘り下げて根の張り具合を確かめている。俺にはその見極め方はよくわからないが、経験のある兵士たちは木槌で根を叩いて響きを聞き、弱い箇所を探るらしい。


やがて数本の太根をツルハシで断ち割り、切り株がぐらつき始めると、縄を巻きつけた兵士たちが「せーの!」と声を合わせ、一気に横へ引き倒す。

重い地響きと共に切り株が転がり、土が大きくめくれ上がった。


その様子は、森が道へと形を変えていくための地道な仕上げ作業のように見えた。


春の光がだんだん強くなり、森の奥まで白く差し込む。

切り株が等間隔に並び始め、そこにまっすぐな一本の帯――道の原型が見えてきた。


(……この調子なら、今日の予定地点までは行けそうだな)


俺は斧を地面に突き立て、額の汗をぬぐった。

空気はまだ冷たいのに、体はすでに熱を帯びていた。


班長が広い視野で全体を眺め、声を上げる。


「よし!午前はここまでだ!一度集まれー!」


三十名が集まると、そこには息を白くしながらも達成感のある表情が並んでいた。

防壁班の方向を見ると、遠くで杭を打ち込む甲高い音が響き、トマやダリルの声も混ざって聞こえてくる。


(あいつらも、向こうで頑張ってるんだな)


雪を踏む音が、乾いた木の匂いと混ざり合う。

季節の変わり目独特の柔らかい冷気が、疲れた体に心地よかった。


***


午後作業の前に昼食を取ろうと、伐採班の連中と広場へ向かっていたときだった。


――その瞬間、訓練場の方から怒号が響いてきた。


「もたもたしてんじゃねぇ! 走れ走れ!!」

「お前が遅れると隊全員に迷惑がかかるんだぞ!!」


続けざまにもう一つ、よく通る怒声が飛ぶ。


「そこ!隊列が乱れているぞ!やり直し!!」


オズワルと……ガレスだ。


普段のオズワルは親しみやすい兄貴分で、軽口も叩くし、笑えばどこか頼もしさを感じる。だが――訓練教官になると話は別だ。


目の前に立たれたら、俺たちでも背筋が勝手に伸びるほどの迫力がある。

その怒号を聞くだけで、体が反射的に固まるぐらいだ。


(……ひさびさに聞いたけど、やっぱり怖ぇな)


ガレスも容赦がない。

隊列、足並み、武器の構え、どれか一つ崩れただけで即やり直し。

あの訓練を毎日のように受け続けていたと思うと、今さらながら背中が寒くなる。


「今日はオズワル副隊長の日だったのか……」「……今日工作班でよかった……」


周りの伐採班の連中も小声で漏らしていた。

その顔は全員、心の底からの安堵と、どこか同情が混ざった表情だ。


(よく、俺……あの訓練を乗り越えてきたな……)


思わずそんな感想が胸の中に浮かぶ。


怒号が響くたびに、訓練場の空気が震えているようだった。

木々を倒して汗だくになった俺たちでさえ、あの声には首をすくめたくなる。


(……訓練兵、大丈夫か? いや、俺たちも昔ああだったか……)


広場へ向かう足は自然と速くなる。

腹が減っているというより、あの怒声から距離を取りたいという気持ちの方が強かった。


***


昼食後、再び斧を手にした頃には、空気は朝より少しだけ暖かくなっている。

森の中の影が短くなり、枝から落ちる水滴がきらりと光る。


午後は午前よりも広い範囲の伐採に取りかかった。道の中心線を基準に、左右にもう一本ずつ木を倒していく。これで荷車も往来しやすくなり、馬も横並びで進める。


優先して倒す木、残す木、支柱に転用する木――

指揮役はそれらを瞬時に判断し、三十名に次々指示を送る。


「そっちは残す!風除けに使う!」

「その幹は材木だ、折るなよ!」

「この列は全部倒す!道幅が足りねぇ!」

「運搬班、次の束を雪道へ滑らせろ!」


指揮の声に合わせ、三班がまるで同じ歯車の一部のように動き続ける。


斧を振るうたび、肩と腰に重い衝撃が走る。

倒木の地響きが足裏から伝わり、雪解けの土が震える。


夕方が近づく頃には、森の一角が大きく開け、遠くまで見通せる光の道が現れていた。

白い息が春の気配と混ざり、木屑と針葉の匂いが風に乗る。


班長が周囲を見渡し、深くうなずいた。


「よし!今日の分は十分だ。明日には測量班も入って、道の形が見えてくるだろう」


俺は斧を握り直し、開けた空間を見渡した。


(……これで、戦の時も俺たちはすぐ隣の拠点と助け合える。どこの誰の命に繋がるかわからないけど――確かに意味のある仕事だ)


胸に落ち着いた熱が残ったまま、俺は夕焼けに染まる森の奥へ目を向けた。

今日倒した木の数は、たぶん二十本以上。三十人以上で一日中動けば、森の様子は一日で大きく変わる。


雪解けの水がきらめく泥道を踏みしめながら、俺は思った。


(……トマやダリルの防壁作業も、きっと同じくらい大変なんだろうな)


空気には汗と木の匂いが混じり、夕方特有の柔らかな冷気が流れ込んでくる。


肩の重みは確かにある。

だが、それ以上に――胸の中には満ち足りた感覚があった。


***


伐採を終えて広場に戻ると、まだ防壁設置班と薪割り班は作業を続けているらしく、姿が見えなかった。

昼間よりも風は冷たく、雪解け水が足元を湿らせている。それでも、広場の大鍋から漂う肉と香草のにおいが空腹を刺激した。


(……今日は、さすがにあいつらのほうが遅いな)


配給係からパンと肉を受け取り、いつもの端の方に腰を下ろす。

汗の乾いた服に冷気がしみる。木屑の匂いがまだ指先にこびりついていた。


肉に手を伸ばそうとしたとき――


「おう。お疲れ」


低いけれど聞き慣れた声が、広場の入り口から響いた。


レナードだった。

砦の方角から戻ってきたらしく、肩には雪解けの泥が少し跳ねている。だが表情は変わらず落ち着いていた。


「レナード。お疲れ。……ご飯食べたの?」


「いや、まだだ。オズワルたちはまだ仕事中か?」

レナードは周囲を見渡しながら続けた。


「まだ工作や訓練中だと思うよ。ただ訓練はもう終わるんじゃないかな?悲鳴が聞こえないし」

俺は訓練場の方角に目を向ける。


レナードはふっと苦笑した。

「オズワルとガレス、二人そろって教官の日は一段と厳しくなるからな」


その様子を思い浮かべただけで、背中にうすい寒気が走る。

だがレナードの目が次の瞬間、ほんのわずかに真剣な色を帯びた。


「……まあ、それはいい。エドリック」


「うん?」


「今日、大切な話がある。後で家で伝える。――独立奇襲小隊の任務だ」


その言葉が落ちた瞬間、周囲のざわめきが遠のいたように感じた。

胸の奥で何かがひとつ跳ね、そして静かに沈んでいく。


(……ついに、任務か)


喉がひりつくような感覚があった。


「……わかった。食事を早く済ませて、先に家で待ってるよ」

俺はパンを握りしめたまま、ゆっくり答える。


「頼む」

レナードは短く返し、すぐに背を向ける。

「俺はこれからオズワルとガレスに会いに行く。……ガレスにも伝えなきゃならないしな」


「了解」


ガレスは独立奇襲小隊のメンバーではない。

だが、俺たちが任務に出ている間、この拠点の防衛指揮を任されることになっている。


レナードの背中が訓練場の方へ消えていくのを、俺はしばらく黙って見送った。


……どうなるんだろうか。


いつもの広場はざわつき、疲れた兵士たちが笑いながら食事をしている。

しかし俺の耳には、その声がどこか遠く感じられた。


肉を口に運ぶ。味はするが――いつもよりもずっと早く飲み込んでしまっていた。


これからレナードが何を伝えるのか。いつ出るのか。どんな任務なのか。


その一つひとつが、胸の内で静かに重く積み重なっていく。


(……ついに来るんだな)


食べ終えた皿を片付けながら、俺は深く息を吐いた。


そして、家へ向けて歩き出した。


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