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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
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第61話 代弁された覚悟

深夜。

エドリックは洞窟側へ続く小道を、夜の冷気の中じっと見張っていた。

空気は冷え、森の匂いも弱く、風はほとんど動いていない。

それなのに、胸の奥だけは静かにならなかった。


夕食をとったはずなのに、味はほとんど覚えていない。

いつもなら、トマが作るスープの温かさに心が少し軽くなるのに――今日は、喉を通っていく感覚すら曖昧だった。


(……レナードは、どんな決断をするんだ?)


森の闇の向こうを見張りながら、その疑問が何度も頭の中で巡った。

撤退するのか、それとも任務を続けるのか。

捕まえた盗賊をどうするのか。

ミロが戻る前に何が起こるのか。


考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわと落ち着かず、そのざわめきはいつの間にか怒りの熱に変わっていた。


――レナードとトマが撤退を選択肢にしていること。


理解はできる。だが、少ししたらどうしようもなく腹が立った。


(……ミロを見捨てるのかって、思ってしまったんだ)


けれど、その感情も、さっきトマと少し話して、ようやく自分の中で形を変え始めていた。


トマは無駄な強がりも飾りもなく、淡々と言っただけだった。


『撤退したほうがいい。食料と水の消費が思ったよりも激しい』


その時のトマは皮肉も言わず、ただ事実を言う兵士の目をしていた。


思い返せば――確かに、食料は底が見えてきている。

水も節約しなければ、あとどれくらい持つか怪しい。


腹を減らしたまま、喉を渇かせたまま戦い続けるのがどれほど危険か。

それはエドリック自身、訓練で身をもって知っている。


一度だけ、丸一日飲まず食わずで動き回らされた訓練があった。

あのときの恐ろしさ――

体が思うように動かなくなり、視界が揺れ、最後は足が勝手にぶるぶる震えていた。


(……そんな状態で戦ったら、全員すぐに死ぬ。砦に戻れるかもわからなくなる……)


だから、トマの言い分は正しい。

怒るのは筋違いなのだと、頭では理解していた。


しかし胸の奥では、まだ整理できない何かが渦巻いている。


洞窟側の闇は濃く、何も聞こえないのに、まるで誰かがそこに潜んでいるような気がする。


エドリックは夜の冷気に息を吐き、槍を握り直した。


***


エドリックが洞窟側の暗がりを見つめていると、背後から落ち葉を踏む微かな足音がした。その足音は近づくにつれ、重さよりも静かさが際立ってくる。


「……交代だ」


低く抑えられた声。

振り返ると、月の光に照らされたオズワルが立っていた。表情はいつも通り無駄がなく、ただ任務を告げる兵士の顔だった。


「寝て……明日に備えろ」


「……了解」


答えながら、エドリックは自分が思っているよりも長くここに立っていたことに気づく。

空はさらに暗みを増し、森の奥からは夜鳥の声が聞こえ始めていた。


(……もうこんな時間か。今日は……時間の流れが速い気がする)


見張り場所から離れようとしたとき、胸の奥でくすぶっていた疑問がふと顔を出した。

足が自然と止まり、エドリックは振り返る。


「……なあ、オズワル。ちょっといいか?」


オズワルが一瞬だけこちらを見た。その瞳は暗闇でも冷たく光っている。


「……レナードの判断のことか?」


図星だった。胸の奥がわずかに揺らぎ、エドリックは小さく息をつく。


(……やっぱり気づかれるか)


「……そうだよ」

言葉が胸の奥からこぼれるように出た。

「なんでレナードは……ミロを見捨てるかもしれない選択をしたんだって。……そう思ってる」


オズワルは何も言わず、ただ夜の冷気を受け止めるように黙って聞いていた。

沈黙が、エドリックに続けろと促しているようだった。


「オズワルは……任務を優先した」

エドリックの声は少し震えていたが、言葉は迷っていなかった。

「それは……ミロを見捨てないって選択があったからだと思う。だから……だからレナードの判断に怒りを覚えたんだ……」


夜風が吹き、二人の間に冷たい空気が流れる。

そのあと、オズワルは静かに口を開いた。


「……お前の気持ちは当然わかる」


その声音には、普段の冷静な色とは違う、どこか柔らかさがあった。


「確か……お前とミロは同郷だったな?」


エドリックは黙って頷いた。


「一緒に村から徴募されて、ここまで一緒にやってきた仲間……」

少しだけ目を細め、オズワルは続ける。

「友達か……親友だろ。そんな相手を見捨てる選択なんて、できるわけがない」


その言葉はまっすぐだった。

エドリックの胸にずしりと沈み込む。


「もし俺が、お前たちと同じ立場だったら……」

オズワルはわずかに視線を逸らし、言葉を選ぶように続けた。

「俺だってきっと……レナードに怒ってたかもしれねぇ」


エドリックは目を見開く。オズワルがそんなことを言うとは思っていなかった。


だがオズワルはすぐに言葉を区切り、「だが……」と前置きした。


「レナードは……この独立奇襲小隊の隊長だ」

声が深くなる。

「被害の大きさや、リスクとリターン。それら全部を天秤にかけて判断しなきゃいけねぇ時がある」


エドリックは息をのむ。

オズワルの言葉は感情論ではなく、兵としての現実だった。


「作戦を立てるときも同じだ。俺たちが訓練どおりに動けているのは……レナードが俺たちの実力、癖、状態をすべて見た上で配置してくれてるからだ」


その言葉に、エドリックは自然と視線を落とす。

レナードがどう部隊を見ているか、少しだけ理解できた気がした。


沈黙を挟んでから、オズワルは続ける。


「エドリック。……嫌な言い方になるが、聞いてくれ」

その声は厳しいが、どこか優しさを含んでいた。

「お前は……この廃村に来てから、作戦を一つでも提案したか?」


胸の奥が痛む。エドリックは言葉を失ったまま、ゆっくりと首を横に振る。


「もしお前が……隊長の立場だったら。ここまで的確に指揮をとれたか?」


喉が少しだけ震える。出てきた言葉は、小さくても正直だった。


「……意見は言ったけれども、提案はしていない。……あんな風に指揮なんて取れなかったと思う」


オズワルは強くも弱くもない、ただ事実を受け止めるように頷いた。


「……俺もだ」

ふっと息を吐いて続ける。

「初日に作戦の提案はしたが……それ以降はほとんどレナードに任せてる。詰所や机の上ならまだしも……現場で、こんな状況で、すぐに作戦なんざ立てられねぇ」


その言葉は自嘲ではなく、現実を語る兵士の声だった。

エドリックの胸の中で、怒りの熱が少しずつ形を変えていく。


オズワルが最後に言った言葉は、夜よりも静かでまっすぐだった。


「……レナードはな。俺たちを生かすために考えてる」


その言葉が夜に溶けるように響き、エドリックはしばらくの間、何も言えなかった。オズワルの言葉が胸に沈んでいく中、ふとエドリックの脳裏に別の声が蘇った。


『……俺は、故郷にはそれほど固執していない。親も兄弟も、もういない。

だからこそ――いま生きている仲間、お前たちを死なせないように作戦を考える方が、何より大切だ』


レナードが、あの日、自分に向けて言った言葉。

その時はただ「強い人だ」と感じただけだったが、今はその重さが違って感じられた。


オズワルはエドリックの沈黙を見て、少しだけ視線を落とす。


「……言いたいことは山ほどあるだろう」

その声音には押し付けではなく、理解の色があった。


「だがレナードは……俺たちの安全を最大限に考えて作戦を立ててる。それを忘れて、言いたいことだけぶつけちゃいけねぇ」


夜風が吹き、オズワルの短い髪を揺らした。その目は真剣で、甘さは一切なかった。


「レナードの考えを無視したまま、一方的に怒るのは違う」


エドリックは口を閉じたまま、胸の奥がじわじわと熱くなるのを感じた。

自分の中にあった怒りの矛先が、どこか曖昧になっていく。


オズワルはさらに言葉を続けた。


「盗賊から情報を引き出した時も……あいつ、悩んでた」

低い声だが、その言葉には仲間を見てきた者の実感が宿っていた。


「一人で決められねぇから、俺たちに聞いてきたんだ。それは……俺たちの意見を尊重してくれてる証拠だ」


エドリックはゆっくりと息を飲む。

オズワルは短く「だから忘れるな」と言い切り、視線を洞窟側へ向けた。


「話は終わりだ。……さっさと寝ろ」


それだけ言って、オズワルは再び森に意識を集中させた。


エドリックは小さく頷き、その背を見つめてから歩き始める。

暗い森の中を戻りながら、頭の中はぐるぐると渦巻いていた。


(……ミロのことは大切だ。でも……それ以外の仲間が大切じゃない、なんて……そんなこと、あるわけない)


ミロも大事。

レナードも、ダリルも、ロランも、トマも、オズワルも……


みんな、自分にとっては同じ重さの仲間だ。


(……隊長って、こんな気持ちなのかな)


大切な仲間全員を背負って、最適な答えを探して、一番死ぬ確率の少ない道を選ぶ。


(俺には……無理だ。作戦を考えて、みんなを守りながら戦うなんて……できない)


夜の闇は深いはずなのに、心の中の方がよほど暗く重かった。


やがて拠点に戻ると、焚き火は赤い芯を残すだけで、すでにレナードとロランが並んで眠っていた。


二人の呼吸は静かで、規則正しい。


(……レナードも、きっと……疲れてるよな)


その寝顔を見ると、先ほどまで胸にあった怒りの熱がすっかり薄れていく。


エドリックは音を立てないよう、そっと横になる。


目を閉じると、今日一日の出来事が胸の内で静かに渦を巻き――

やがてゆっくり溶けていくようだった。


(……明日。どうなるんだろう)


その問いだけが、眠りに落ちる直前の意識に浮かんでいた。


そして、森は深い静寂に包まれた。


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