第55話 影は次へ
ヒュッ――。
曇天の下で放たれた矢は、鋭い音を残して一直線に飛び、寸分の狂いもなく大柄な盗賊の右目へ突き刺さった。男の身体がわずかに跳ね、その表情に驚愕が浮かぶ。
しかし声をあげる間もなく――わずかに漏れた「ガッ」という濁音を最後に、膝から崩れ落ちていく。
倒れる衝撃とともに、折れた矢がバキリと鈍い音を立てた。男は微動だにしない。矢が深く頭を貫いたその惨状が、言葉より先に「即死」を証明していた。
(……一撃だ)
誰もが緊張を解かぬまま、しかし確かな成果としてその状況を認識する。
レナードがわずかに顎を動かしてロランへ静かな肯定を返した、そのほんの一瞬後――
ヒュン――。
再び短い風切り音が走り、さらに遠くからドサリと肉の落ちる気配が響いた。視線を向けるまでもなく、ロランが二人目を仕留めたのだと全員が理解する。
(……すごい)
心の中だけで呟いた言葉は、感嘆と現実味の薄い驚きが混ざっていた。ロランの腕前を知っているつもりでも、それでもなお今の精度は常識を越えていた。
レナードは横目でその成果を確認しながら、苦笑をひとつ漏らし、トマへ短いサインを送る。オズワルも同じように、俺へ「行くぞ」と指示を示した。
声は一切ない。ただ、目と指先だけで十分に意図が伝わる。
俺たちは互いに頷き合い、動き出す。
落ち葉一枚すら鳴らさない歩幅で、四人は影のように廃村へ向かって進む。地面は湿って柔らかく、足跡を残しやすい状態だったが、経験のある仲間たちは土を踏む角度や圧を調整し、痕跡すら最小限に抑えていた。
曇り空は相変わらず低く垂れ込み、光を遮っている。その暗さは視界を奪うものではなく、むしろ我々が動くには都合が良い色だった。
近づくにつれ、廃村の残る木壁や割れた窓枠、苔むした石の匂いが強くなる。乾いた風すら吹かず、音のない世界が広がっていた。
だが、その沈黙は静寂ではなく――戦の前の呼吸だ。
(……ここからが始まりだ)
手に握る手斧の冷たさが、現実と任務を強く意識させる。
仲間が後ろで支えてくれている。ロランが射線を維持し、ダリルが洞窟側を警戒している。俺の後ろにはオズワルがいて、前にはレナードとトマがいる。
一人で動いているわけじゃない。
だから心臓が速くなっても……動きは迷わない。
***
俺とオズワルは距離と足場を確かめながら、廃村の奥へゆっくり進んでいく。割れた木柵、崩れた壁、黒く湿った土──どれも足音を吸い込み、こちらに味方してくれる。
すると、オズワルの腕がわずかに伸び、止まれのサインが出た。
俺は即座にしゃがみ、息を浅くする。
耳だけが研ぎ澄まされ、世界が音だけで存在しているように変わる。
――ガリ、ガサ……。
乾いた靴底が瓦礫を踏む音。すぐ近く。
そして、低い声。
「……どこにもいねぇぞ?あいつらどこで寝てやがんだ?」
声は近い。建物ひとつ隔てた位置。
息を吸う音すら慎重になる距離だった。
オズワルが俺の方へわずかに視線を向け、指で指示を送る。
――俺が行く。お前は投げで援護だ。
俺は短く頷き、物陰の影へ体を滑り込ませた。
手斧ではなく、指にかけた投げナイフの重みだけが心を支えている。
足音がさらに近づく。
砂を踏む音が止まり、盗賊が独り言のように呟いた。
「……ん?なんだこの足跡」
相手に気づかれた。
距離は――近い。ほとんど正面だ。
次の瞬間だった。
オズワルが影のように、音もなく前へ出た。
(――えっ!?)
驚きと感嘆が胸を走るが、体は動かさない。動かせない。
ここから先は、ほんの数秒で終わる。
盗賊の視界がオズワルを捉えた瞬間、短い声が漏れた。
「えっ――」
その言葉すら終わらないうちに、
短槍が一直線に盗賊の喉を貫いた。
湿った音。
押し殺した息。
そして倒れる音。
俺は物陰から姿を出し、状況を確認する。
盗賊は驚愕の表情のまま動かず、倒れた地面に血が染み広がっていく。
オズワルは短槍を引き抜きながら、小さく息を吐いた。
「……終わりだ。援護はいらなかったな」
そう言う口調には、余裕も自慢もない。
ただ事実だけを言い、次の戦いに向かう戦士の声だった。
俺は頷きながら、喉の奥で小さく息を整える。
その時高台の方角から――
ピィッ、ピィッ。
短く鋭い二度の口笛が森に響いた。
その音が空気を裂いた瞬間、オズワルも俺も反射で身を低くする。
胸の奥が緊張で固まり、思考より先に身体が戦闘の感覚へ戻る。
(二回……援軍接近の合図だ)
オズワルが俺を見た。言葉はいらない。
互いにきつく頷き合い、廃村内の探索を切り上げ、洞窟側の入口へ向かう。
足音は土に溶け、風すら邪魔をしない。
瓦礫の影、崩れた壁、濡れた草を縫うように進む。
途中、視界の先――廃屋の向こうにレナードとトマの影が見えた。
二人もこちらに気づき、すぐに視線と指先で意思を交わす。
無言のまま、ハンドサインだけが行き交った。
――一人、片付けた。
――こっちも一人終わった。
短い合図で十分だった。
四つの影が消えたこと。残る可能性。
次に向かうべき場所――
すべて理解できた。
俺たちは合流し、息をそろえて洞窟側の入口へ向かう。
倒れた木柵の向こう――そこで、三つの影が横たわっていた。
一人は頭部の一部が陥没しており、血と泥が地面に広がっている。
もう一人は喉に矢が深々と刺さり、顔は空を向いたまま動かない。
最後の一人は仰向けに倒れ、胸が弱く上下していた。
――生きている。
濁った湿り気と鉄の匂いが、曇り空の下に重く漂っていた。
オズワルとトマが遺体を軽く動かし、生死と武器の有無を確認したあと、レナードへ視線を送る。
低い声で、しかし迷いのない問いだった。
「……どうする?仕留めるか?それとも――情報を引き出すか?」
レナードはすぐには答えなかった。
ほんの数秒。しかし、その沈黙には重みがあった。
心臓が速く打つ。それが「恐怖」か「準備」か、自分でも分からない。
俺は呼吸を浅く整えながら、レナードの次の言葉を待った。
レナードは短く目を細め、倒れている盗賊を見ており決断した。
「……仕留める」
その声音は迷いを含まず、だが軽さもなかった。
「情報は欲しい。だが俺たちは尋問のやり方を深く理解していない。それに、尋問中に大声を上げられでもしたら面倒だ。もし他の奴らが近くにいるなら……それだけで状況がひっくり返る」
静かな説明だったが、言葉のどこかに疲れと現実が滲んでいた。
オズワルは短く鼻で息を吐き、無駄な感情を挟まない声で返す。
「……了解だ。お前が決めたなら文句はねぇ」
次の瞬間、オズワルは迷いなく倒れた盗賊へ歩み寄り、短槍を振り上げる。
ドン――。
肉と骨が潰れる鈍い音が響き、盗賊の身体が一瞬だけ跳ねた。
しかしすぐ、完全に静止する。
もう息はない。
レナードが息をひとつだけ吐き、小さく呟く。
「……すまない、オズワル」
「気にするな」
オズワルは首だけで振り返った。
「それより急ぐぞ。いつ援軍が来るかわからん」
オズワルの言葉に、全員が無言で頷く。判断の速さと共有速度は、訓練と経験の賜物だ。
レナードが手短に続ける。
「……トマ、エドリック。二人はこのまま洞窟側の小道を警戒だ。森に紛れ、敵が来たなら――可能な限り静かに仕留めろ」
俺とトマは静かに頷く。
「俺とオズワルはこの三人の遺体処理をする。処理が終わったら――オズワル、お前はダリルとロランの元へ行き状況を伝えろ。廃村の中の遺体処理はその後だ」
再び、全員の短い頷きが返る。誰も質問しない。必要がない。
レナードは腰の手斧を外し、トマへ差し出した。
斧頭には、まだ乾ききらない血痕が黒く残っている。
「投擲用だ。二人で確実に倒せると判断した時だけ使え」
「了解」
トマが静かに受け取り、俺と視線を合わせる。
「……行こう、エドリック。あっちに隠れられる場所がある」
「わかった」
俺たちは息を同調させ、影を踏むように廃村の外側――洞窟へ続く小道へと動き出した。
足音は土に吸われ、気配は森に溶ける。
まだ終わってはいない。これからが始まりだ。




