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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
55/69

第55話 影は次へ

ヒュッ――。


曇天の下で放たれた矢は、鋭い音を残して一直線に飛び、寸分の狂いもなく大柄な盗賊の右目へ突き刺さった。男の身体がわずかに跳ね、その表情に驚愕が浮かぶ。


しかし声をあげる間もなく――わずかに漏れた「ガッ」という濁音を最後に、膝から崩れ落ちていく。


倒れる衝撃とともに、折れた矢がバキリと鈍い音を立てた。男は微動だにしない。矢が深く頭を貫いたその惨状が、言葉より先に「即死」を証明していた。


(……一撃だ)


誰もが緊張を解かぬまま、しかし確かな成果としてその状況を認識する。


レナードがわずかに顎を動かしてロランへ静かな肯定を返した、そのほんの一瞬後――


ヒュン――。


再び短い風切り音が走り、さらに遠くからドサリと肉の落ちる気配が響いた。視線を向けるまでもなく、ロランが二人目を仕留めたのだと全員が理解する。


(……すごい)


心の中だけで呟いた言葉は、感嘆と現実味の薄い驚きが混ざっていた。ロランの腕前を知っているつもりでも、それでもなお今の精度は常識を越えていた。


レナードは横目でその成果を確認しながら、苦笑をひとつ漏らし、トマへ短いサインを送る。オズワルも同じように、俺へ「行くぞ」と指示を示した。


声は一切ない。ただ、目と指先だけで十分に意図が伝わる。


俺たちは互いに頷き合い、動き出す。


落ち葉一枚すら鳴らさない歩幅で、四人は影のように廃村へ向かって進む。地面は湿って柔らかく、足跡を残しやすい状態だったが、経験のある仲間たちは土を踏む角度や圧を調整し、痕跡すら最小限に抑えていた。


曇り空は相変わらず低く垂れ込み、光を遮っている。その暗さは視界を奪うものではなく、むしろ我々が動くには都合が良い色だった。


近づくにつれ、廃村の残る木壁や割れた窓枠、苔むした石の匂いが強くなる。乾いた風すら吹かず、音のない世界が広がっていた。


だが、その沈黙は静寂ではなく――戦の前の呼吸だ。


(……ここからが始まりだ)


手に握る手斧の冷たさが、現実と任務を強く意識させる。


仲間が後ろで支えてくれている。ロランが射線を維持し、ダリルが洞窟側を警戒している。俺の後ろにはオズワルがいて、前にはレナードとトマがいる。


一人で動いているわけじゃない。

だから心臓が速くなっても……動きは迷わない。


***


俺とオズワルは距離と足場を確かめながら、廃村の奥へゆっくり進んでいく。割れた木柵、崩れた壁、黒く湿った土──どれも足音を吸い込み、こちらに味方してくれる。


すると、オズワルの腕がわずかに伸び、止まれのサインが出た。


俺は即座にしゃがみ、息を浅くする。

耳だけが研ぎ澄まされ、世界が音だけで存在しているように変わる。


――ガリ、ガサ……。


乾いた靴底が瓦礫を踏む音。すぐ近く。


そして、低い声。


「……どこにもいねぇぞ?あいつらどこで寝てやがんだ?」


声は近い。建物ひとつ隔てた位置。

息を吸う音すら慎重になる距離だった。


オズワルが俺の方へわずかに視線を向け、指で指示を送る。


――俺が行く。お前は投げで援護だ。


俺は短く頷き、物陰の影へ体を滑り込ませた。

手斧ではなく、指にかけた投げナイフの重みだけが心を支えている。


足音がさらに近づく。

砂を踏む音が止まり、盗賊が独り言のように呟いた。


「……ん?なんだこの足跡」


相手に気づかれた。

距離は――近い。ほとんど正面だ。


次の瞬間だった。


オズワルが影のように、音もなく前へ出た。


(――えっ!?)


驚きと感嘆が胸を走るが、体は動かさない。動かせない。

ここから先は、ほんの数秒で終わる。


盗賊の視界がオズワルを捉えた瞬間、短い声が漏れた。


「えっ――」


その言葉すら終わらないうちに、

短槍が一直線に盗賊の喉を貫いた。


湿った音。

押し殺した息。

そして倒れる音。


俺は物陰から姿を出し、状況を確認する。


盗賊は驚愕の表情のまま動かず、倒れた地面に血が染み広がっていく。


オズワルは短槍を引き抜きながら、小さく息を吐いた。


「……終わりだ。援護はいらなかったな」


そう言う口調には、余裕も自慢もない。

ただ事実だけを言い、次の戦いに向かう戦士の声だった。


俺は頷きながら、喉の奥で小さく息を整える。


その時高台の方角から――


ピィッ、ピィッ。


短く鋭い二度の口笛が森に響いた。


その音が空気を裂いた瞬間、オズワルも俺も反射で身を低くする。

胸の奥が緊張で固まり、思考より先に身体が戦闘の感覚へ戻る。


(二回……援軍接近の合図だ)


オズワルが俺を見た。言葉はいらない。

互いにきつく頷き合い、廃村内の探索を切り上げ、洞窟側の入口へ向かう。


足音は土に溶け、風すら邪魔をしない。

瓦礫の影、崩れた壁、濡れた草を縫うように進む。


途中、視界の先――廃屋の向こうにレナードとトマの影が見えた。

二人もこちらに気づき、すぐに視線と指先で意思を交わす。


無言のまま、ハンドサインだけが行き交った。


 ――一人、片付けた。


 ――こっちも一人終わった。


短い合図で十分だった。


四つの影が消えたこと。残る可能性。

次に向かうべき場所――


すべて理解できた。


俺たちは合流し、息をそろえて洞窟側の入口へ向かう。

倒れた木柵の向こう――そこで、三つの影が横たわっていた。


一人は頭部の一部が陥没しており、血と泥が地面に広がっている。

もう一人は喉に矢が深々と刺さり、顔は空を向いたまま動かない。


最後の一人は仰向けに倒れ、胸が弱く上下していた。

――生きている。


濁った湿り気と鉄の匂いが、曇り空の下に重く漂っていた。


オズワルとトマが遺体を軽く動かし、生死と武器の有無を確認したあと、レナードへ視線を送る。


低い声で、しかし迷いのない問いだった。

「……どうする?仕留めるか?それとも――情報を引き出すか?」


レナードはすぐには答えなかった。

ほんの数秒。しかし、その沈黙には重みがあった。


心臓が速く打つ。それが「恐怖」か「準備」か、自分でも分からない。


俺は呼吸を浅く整えながら、レナードの次の言葉を待った。

レナードは短く目を細め、倒れている盗賊を見ており決断した。


「……仕留める」

その声音は迷いを含まず、だが軽さもなかった。


「情報は欲しい。だが俺たちは尋問のやり方を深く理解していない。それに、尋問中に大声を上げられでもしたら面倒だ。もし他の奴らが近くにいるなら……それだけで状況がひっくり返る」


静かな説明だったが、言葉のどこかに疲れと現実が滲んでいた。


オズワルは短く鼻で息を吐き、無駄な感情を挟まない声で返す。


「……了解だ。お前が決めたなら文句はねぇ」


次の瞬間、オズワルは迷いなく倒れた盗賊へ歩み寄り、短槍を振り上げる。


ドン――。


肉と骨が潰れる鈍い音が響き、盗賊の身体が一瞬だけ跳ねた。

しかしすぐ、完全に静止する。


もう息はない。


レナードが息をひとつだけ吐き、小さく呟く。


「……すまない、オズワル」


「気にするな」

オズワルは首だけで振り返った。


「それより急ぐぞ。いつ援軍が来るかわからん」


オズワルの言葉に、全員が無言で頷く。判断の速さと共有速度は、訓練と経験の賜物だ。


レナードが手短に続ける。

「……トマ、エドリック。二人はこのまま洞窟側の小道を警戒だ。森に紛れ、敵が来たなら――可能な限り静かに仕留めろ」


俺とトマは静かに頷く。


「俺とオズワルはこの三人の遺体処理をする。処理が終わったら――オズワル、お前はダリルとロランの元へ行き状況を伝えろ。廃村の中の遺体処理はその後だ」


再び、全員の短い頷きが返る。誰も質問しない。必要がない。


レナードは腰の手斧を外し、トマへ差し出した。

斧頭には、まだ乾ききらない血痕が黒く残っている。


「投擲用だ。二人で確実に倒せると判断した時だけ使え」


「了解」


トマが静かに受け取り、俺と視線を合わせる。


「……行こう、エドリック。あっちに隠れられる場所がある」


「わかった」


俺たちは息を同調させ、影を踏むように廃村の外側――洞窟へ続く小道へと動き出した。


足音は土に吸われ、気配は森に溶ける。

まだ終わってはいない。これからが始まりだ。


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