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兵の風と鐘の音にさらわれた少年  作者: 炭酸水
第一部 兵の風の中で
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第50話 森を駆ける影

朝の森は静かだった。夜の冷たさがまだ地面に残り、踏むたび湿った土と苔の柔らかい感触が足裏に伝わる。木々の枝葉からこぼれた光が細い線となって差し込み、揺れるたびに森の奥へ白い斑点を散らしていた。空気は澄んでいて冷たい。呼吸をするたび胸が少し痛いほどだが、ミロは気にせず走り続けた。


足音は小さく、一定。走っているというより、影のように滑る──そんな静かさだった。


時折、鳥が木の上で鳴き、葉の影に潜んでいた小動物がミロの気配に驚いて草むらへ逃げる。その小さな生命の動きが森に確かに存在していたが、ミロの速度は揺るがなかった。耳も目も動かしながら、しかし意識は砦の方向へと一直線に向いている。


目的はひとつ。

砦まで行き、状況を伝えること。それが、仲間を生かす。


オズワルが示した罠の位置が頭の中に鮮明に浮かぶ。倒れた枝がわざと交差した地点、土が柔らかく掘り返された場所、足を滑らせるように仕込まれた丸太。


どれも命を奪うためではない。

敵の足並みを乱し、進行を少しでも遅らせるためだけの罠だ。


森に溶けるように仕掛けられているため、知らなければ必ず足を取られる。だが位置さえ理解していれば、避ける道はいくらでもある。


ミロはその境界をなぞるように走った。踏み固められた地面の変化、葉の散り方、小枝の向き――そのわずかな情報だけで進行ルートを判断していく。走りながらも視線は常に先を捉え、危険の兆しがあれば即座に経路を修正した。


(……行ける)


風向きよし。視界良好。敵影なし。

そのひとつひとつを確認しながら走るうち、呼吸も心拍も一定に落ち着き、身体そのものが任務に合わせて動くようになっていった。


(全力で行けば……今日の夕方までには砦までいけるか?)


それは焦りではなく、状況確認として自然に生まれた計算。

ミロにとって走るという行為は、すでに意志ではなく技術となっていた。


朝露の光、湿りを帯びた風、草の匂い。それらがひとつの道標のように背中を押していく。仲間たちがいる場所とは違う静けさが続いていた。だが、不思議と寂しさはなかった。


むしろ、その静けさは彼を正確に前へと進ませていた。


自分ひとりだけが砦へ向かっているわけではない。

――仲間全員を繋ぐために、自分が走っているのだ。


言葉にはしない。けれど、胸の奥にあるその意志は、呼吸よりも確かだった。


ミロは一歩、また一歩と地面を捉えながら、朝の森を抜けるように走り続けた。


***


昼と夕方の境目のような色の光が森に差し込みはじめた頃、ミロは足を止めた。耳に届くのは草を揺らす風音、そして小さく続く水の流れ。木々の隙間に反射する光が、小川がもう近いことを知らせていた。


森を抜けるように進むと、視界が開ける。

見覚えのある倒木、苔むした岩場、低い木陰――斥候として何度も通った、あの景色だった。


(……やっと着いた)


胸の奥で短く息がほどける。

ここは仲間と一度休んだ場所であり、そしてバルデ砦の斥候がよく使う水辺でもある。

砦を出た日のことが一瞬よぎり、走り続けて張り詰めていた意識がわずかに緩んだ。


ミロはしゃがみ込み、水を手ですくった。冷たさが指先から腕に染み込み、火照った体温を静かに奪っていく。喉へ流し込むたび、体の芯で固くなっていたものが解けていくのがわかった。


荷から干し肉を取り出し、噛みしめる。淡白な味だが、力が戻る確かな実感がある。


(……夕方までに砦、さすがに無理だったか。……ちょっと調子に乗ってたかも)


走り出しの勢いのままなら行けると思っていた。だが森は距離も地形も甘くはない。焦れば判断が鈍り、足も乱れる。それでは仲間の役に立てない。


水面に映る空は、ゆっくりと西へ傾きはじめている。

時間は減っていく。だが――まだ遅くはない。


ミロは荷を締め直し、軽く顔を叩いて意識を研ぎ澄ませた。


「……それでも、今日中に着く」


言葉は小さく、それでも揺るがない芯があった。

仲間はあの森で任務を続けている。

自分は、その先へ道をつなぐ役目だ。


森の静けさの中、ミロは背を低くしながら進んでいた。

さきほど飲んだ水の冷たさはもう体の奥に沈み、呼吸は再び早い移動に合わせて一定のリズムを刻む。空はまだ青白く、太陽が沈むには早いが――影が長くなり始めていた。


その時だった。


――カサ。


葉が擦れる微かな音。風ではない。


ミロの身体が反射で止まる。

手は短弓へ、視線は音の方向へ、呼吸は音すら吸い込むほど静かになる。


(……しまった!油断していた)


次の瞬間。


ピュッ――


短く鋭い口笛が森に溶けた。それは知らぬ者には鳥の声にしか聞こえない。

だがミロにはわかる。


斥候同士が使う、識別の合図。


ミロは迷わず返す。

やや低く、しかし同じテンポで。


ピュッ――


応じた後も、体勢は崩さない。

罠でも擬態でも油断すれば死ぬ――そう体が覚えている。


しばらくして、木々の影から一つの影が現れた。


歩くというより、森から形が浮き上がってくるような動き。


「……ミロか」


低い声。淡々としているのに、耳の奥に残る。


見覚えのある姿、背に矢筒、腰には短い片刃の剣。

そして気配をほとんど感じさせない歩み。


カイだった。


ミロは弓から手を離し、ほんのわずかに肩の力を抜く。


「カイ隊長……」


「お前、任務に出ていると聞いていたが――なぜここにいる?」

言葉は問いというより、状況確認。責めても驚いてもいない。ただ事実を拾う声。


ミロは息を整えながら答える。

「報告のためです。南の森で異常を確認しました。仲間は監視を続けています。僕は砦まで戻る予定で――」


カイが一歩近づき、視線で言葉を遮った。


「……走ってきたようだな」


「はい。夕方までに砦へ着けると思っていましたが、甘かったです」


その返答に、カイの口元がほんのわずか動いた。

笑ったのか、呆れたのか判別できない。だが否定ではない。


「焦るな。斥候は速さより確実だ。死んだら報告はできん」


「……わかっています」


カイは周囲に視線を走らせると、無言のまま指先で短い合図を送った。

音はない。ただ指の角度と手首の動きだけ。


それなのに――森が反応した。


気づいた瞬間、ミロの背筋に冷たいものが走る。


足元の低い茂みの影、倒木の裏、頭上に伸びた太い枝。

そこに気配があると理解したのは――姿が現れた後だった。


四人の斥候が、まるで最初から風景の一部だったかのようにミロの周囲に姿を見せた。

踏みしめる音ひとつない。呼吸すら感じさせない。


(……囲まれていた。気配すら……わからなかった。僕なんて、まだまだだ)


悔しさではない。ただ、圧倒的な差を突きつけられた実感。


カイはその反応を見ていた。しかし何も言わず、淡々と問いに移る。


「ミロ。ひとつ確認する」

声は低く、静かだが――誤魔化しを許さない響き。


「その報告は……本当に重要か?」

問いではなく、判断材料の要求。


ミロはその意図を理解し、短く息を吸った。


「重要です」

迷いなく答えた。


続けて、言葉を整える。

「独立奇襲小隊隊長であるレナードと僕は同じ判断をしています。今回の状況は、部隊長判断では足りません。砦へ戻り……上官のガレスや他の指揮官へ報告し、指示を仰ぐ必要があると考えています」


森の空気がひとつ固まったように感じた。

カイは視線を落とすことなく、ほんのわずか考える。


沈黙の数秒――だが、ただの間ではない。状況、距離、時間、戦の匂い。

すべてを天秤にかけている沈黙だった。


そして――判断は鋭く落とされた。


「……任務を少し変更する」


後ろの四人が、わずかに姿勢を正す。

「部隊を二つに分ける。俺はミロとともに砦へ戻る。早急に状況を確認する」


言いながらカイはわずかに視線を横へ流す。

「残りは予定通りの場所へ。今回は交戦も許可されている。奇襲を中心に敵を減らせ」


四人は声を発さない。しかし、頷きとわずかな身の動きだけで意志が伝わる。


カイはその反応を確認すると、淡々と続けた。


「……それと、この件は別働の暗殺部隊にも共有しておけ。その後は、暗殺部隊の指揮下に入れ」


四人は短く頷き、そのまま森の影に滑り込むように姿を消した。

まるで、存在そのものが最初からなかったかのように。


残されたのは、ミロと――カイだけ。


カイがわずかに顎を動かす。

「行くぞ。時間はもう……余裕ではない」


その言葉に、ミロは強く頷き、再び走り出した。


目的地はただひとつ。


――砦。


そしてその先に待つ、避けられない戦の未来。


ミロは息を整え、再び地面を蹴った。足音は小さく、速く、迷いがない。まるで走るよりも先に意志が進んでいるかのようだった。


仲間がいる。守るべき場所がある。伝えるべき事実がある。だから止まらない。

薄闇に沈み始めた森の中、ミロはその影よりも静かに、そして確かに駆け抜けていった。


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