第51話 影を待つ者たち
朝の光が少しずつ濃くなり、霧の向こうの木々を淡く染めていた。
白い靄がゆっくりと溶けるように森へ広がり、冷たい空気の中で鳥の声がひとつ、またひとつと増えていく。
夜明け直後の静けさはまだ残っているが、森が確かに目を覚まし始めているのがわかった。
レナードとオズワルの話し合いは短かった。しかし、その短さこそが二人の判断の速さと、状況の深刻さを物語っていた。
戻ってきた二人の表情は揺るぎなく、すでに結論は固まっていると誰もが悟った。
レナードは隊員たちを見回し、静かに告げた。
「まず配置を決める。廃村に四人、洞窟に二人。これで見張りを行う」
淡々とした声だったが、置かれた状況の重さを全員が理解しているため、周囲の空気がわずかに引き締まった。
「遠距離攻撃ができるロランとダリルを二手に分ける。廃村はロラン、洞窟はダリルだ」
ロランとダリルが静かにうなずく。
二人の顔には余計な色はなく、任務に臨む兵士の覚悟だけがあった。
そのとき、トマがためらうように手を挙げた。
「洞窟の方が少ないのは……どうして?」
レナードは少し間を置いて答えた。
「洞窟側の高台は見通しが悪い。人数を増やしても動きづらくなる。
それに、ロランの扱う弓は大きくてな……洞窟方面の茂みでは引きにくい。
スリングを携帯しているダリルの方が、地形に適している」
続けて静かに言葉を重ねる。
「そして、盗賊が来るとすれば洞窟側の可能性が高い。
もし接近を確認したら、すぐ廃村側へ知らせろ。……洞窟側はまず伝達だ」
トマは強くうなずいた。
「……了解。なら、洞窟は警告を最優先ってことだな」
レナードは視線をオズワルへ移し、再び隊全体に向き直る。
「……洞窟側にもう一人必要だ」
レナードは一拍だけ間を置き、静かに名を呼んだ。
「ミロの次に足が速く、中距離攻撃もできる――エドリック。頼む」
名を呼ばれたエドリックは一瞬驚いたが、すぐに姿勢を正した。
「了解。ダリルの補助と伝令、任せてくれ」
レナードはうなずき、核心となる方針を告げた。
「廃村側も洞窟側も、基本的には迎撃はしない。あくまで監視だけだ。ただし洞窟側は、状況次第でダリルの判断を優先する。異変があれば声を上げず、合図で伝えろ。
……油断するな。敵は、いつでも動けると思え」
全員が静かにうなずく。
霧の漂う森に、兵たちの足音だけが淡く響き、それぞれの持ち場へ散っていった。
***
エドリックはダリルと並び、洞窟の方角へ進んでいた。
木々の間から差す光はまだ弱く、足元の草には夜露が残り、踏みしめるたびに靴の裏で柔らかく潰れる感触が伝わる。二人は互いの位置を確認するように目を交わしながら進み、声は出さない。
洞窟側には、俺たちが知らない道がある可能性が高い――
そう思うだけで、胸の奥にじわりと冷たい緊張が広がった。
小隊の中でもここは危険度が高い。そのため、足音を抑え、呼吸すら意識して整えながら進む。
先頭を行くダリルが、突然片手を上げた。
ハンドサイン――ストップ。
エドリックは反射的に足を止めて腰を低くし、周囲の気配を探った。
ダリルは枝の隙間から前方をじっと見据え、小声で囁く。
「……ここから監視しよう」
霧の向こうに洞窟の入口がぼんやりと姿を現す。
岩肌は暗く、獣の巣のように口を開けている。
木々の影に身を隠しながら洞窟全体を見渡せる、理想的な監視地点だった。
二人は慎重に身を下ろし、木の根へ背を預ける。
ダリルが水筒を開けて喉を湿らせた。
エドリックも水を含み、呼吸を整える。
「……視界は悪くない。ここで張る」
ダリルの声にエドリックはうなずいた。
森は静かだった。その静けさが逆に不気味で、何かを隠しているように思えた。
ダリルが低く尋ねた。
「……エドリック、もしもの時だ。ここから投擲で狙えるか?」
エドリックは距離を測るように目を細める。
「狙うだけなら可能だけど……仕留めるのは難しいと思う。この距離だと急所は当たらないと思う」
ダリルは短くうなずき、スリングに触れた。
「そうか……。じゃあ、お前は見張りを中心に頼む。俺が見落としたらすぐに伝えてくれ」
視線を洞窟に向けたまま、続ける。
「盗賊が現れても戦う必要はない…が、レナードから指示を受けている。
……危険と判断した時だけは攻撃をする。それは頭に入れておいてくれ」
エドリックは慎重にうなずいた。
「…了解。攻撃は最後の手段、だね。判断はダリルに任せるよ」
短い会話の後、二人は再び沈黙に戻った。
風に揺れる葉の音以外、世界が止まったように静かだった。
二人は洞窟の暗闇を見据えながら、いつ現れるとも知れぬ影を待ち続けた。
***
昼を過ぎ、森の色はゆっくりと黄金へと変わりつつあった。
木々の間からこぼれる陽光が地面に細かな模様を描き、伸び始めた影が風に揺れる。
エドリックとダリルは交代で仮眠を済ませ、今はどちらも目を覚ましている。
緊張は依然として胸の底に残っていたが、体の重さは抜けており、いつでも動ける状態だった。
むしろ、その準備が整っているという感覚が、二人の意識をいっそう引き締めていた。
その時である。
森の奥で、乾いた枝が一本、ぱきりと折れる音が静寂を切り裂いた。
二人は反射的に顔を上げた。
続いて、廃村側の森から微かな足音が聞こえてくる。
その踏みしめる土の重みは、獣のそれではなく――確かな“人の歩調”だった。
ダリルはすばやく立ち上がりスリングを構え、エドリックも同時にナイフを抜いて投擲の構えに移る。
風が止み、森がまるで息を潜めたかのような緊張がその場に満ちた。
足音は一定の距離で静止し、間を置いてから、小さな指笛が一つ鳴った。
警戒を解かぬまま、エドリックも短く指笛で応じる。
ダリルはなおも構えを崩さず、気配を探るように木々の影を睨み続けていた。
やがて、葉の影を押し分けるようにして人影が姿を現す。
逆光に照らされて輪郭が浮かび上がり、その鎧の形から――オズワルだとすぐにわかった。
「……ここにいたのか」
落ち着いた声が、張りつめた空気を少しずつ解いていく。
ダリルはようやくスリングを下ろし、深い呼吸で溜めていた緊張を吐き出した。
エドリックもナイフを収め、肩を軽く回して強張りを解く。
「オズワル、どうした?」
エドリックが声をかけると、オズワルは周囲へ視線を走らせながら答えた。
「レナードからの指示だ。お前らの位置を確認しておけってな。それと、もう夜が近い。
野営は廃村側の斥候地点で行うことになった」
その言葉を聞いたダリルが眉を寄せ、疑問を口にする。
「夜に盗賊が洞窟へ来たら……どうするつもりなんだ?」
「それは仕方がない、とのことだ」
オズワルは淡々としていたが、判断の重さは言葉の裏から伝わった。
「まずはお前らの安全を最優先するそうだ。暗闇じゃ目も利かねぇし、武器も満足に扱えねぇ。残っていても危険が増すだけだ」
なるほど、とダリルは息を吐き、武器を握る手をゆるめた。
「……たしかにな。夜のスリングは当てられるか怪しい。戻った方がいいか」
エドリックも頷く。
「動きもなかったし、野営地点へ戻るほうが合理的だね」
張りつめていた三人の空気が、ようやくゆっくりと緩み始める。
夕暮れの色が空を染め、雲の端には一番星がかすかに瞬いていた。
三人は森の奥へ向き直る前に、オズワルがふと足を止めた。
彼は洞窟の闇を一度だけ振り返り、静かに問いかける。
「そうだ。お前らの方はどうだった?何か動きはあったか」
夕暮れの光が揺れる中、エドリックは短く息を吸って答えた。
「まったくないよ。朝からずっと静かだった。洞窟の中も、外の影も、何ひとつ動きがない。耳を澄ませてても、獣の気配と風の音ばかりだった」
横でダリルも腕を組み、洞窟の方向を睨むように見つめた。
「鳥の鳴き声も普通だったな。もし人が近づけば、あいつらの声色が変わる。
……今日は一度もそんな気配はなかった」
「そうか」
オズワルはその言葉に、わずかな安堵を滲ませてうなずいた。
「廃村側も同じだ。ずっと静かだった。……静かすぎるくらいにな」
彼は森の奥へ目を向ける。
「昼の間ずっと見張っていたが、人影も気配もなかった。建物の影も揺れず、風が抜けるだけだ。……盗賊どころか、獣も姿を見せなかったな」
エドリックはほんの少し表情を緩めた。
洞窟も廃村も静かだったという報告が、張りつめていた胸の奥を和らげる。
「どちらも動きなし、か。それなら今夜は……少しだけ安心できるね」
「そうだな」
オズワルは夕空を仰ぎ、赤く燃える雲の端に目を細めた。
「ただ、明日以降の保証はねえ。ミロが戻るかもしれんし、盗賊が来る可能性もある。
状況が動くのは、むしろこれからだろう」
ダリルはスリングを巻きながら、落ち着いた声で応じる。
「まあ、どっちにしろ今日は引くべきだ。明かりを使うわけにもいかねぇし、ここは夜に向いてない」
エドリックは静かに頷いた。
「暗闇の洞窟を前に、二人だけで張るのは無謀だしね」
オズワルは二人を見渡し、軽く顎で帰路を示した。
「よし。戻るぞ。廃村の斥候地点で合流して、レナードへ報告だ」
三人はそれぞれ荷を整え直し、森の奥へと歩き出す。
西の空は深紅に染まり、木々の影が地面に長く伸びていた。
冷たくなり始めた風が頬を掠め、夜の気配がひっそりと森へ降りてくる。
湿り気を帯びた土を踏みしめる足音が、夕闇の奥へと消えていった。
その背を、落ちゆく陽光が静かに照らし続けていた。




