第48話 隊長と副隊長
埋葬を終えた森には、奇妙な静けさが戻っていた。
血の匂いはまだ残っているのに、風は穏やかで、木々の葉がかすかに擦れ合っていた。
太陽は西の端に傾き、森の影が長く伸びている。
遠くで鳥の声がひとつ、そして二つと消えていった。それはまるで、戦いの終わりを告げる合図のようだった。
レナードは静かに息を吐き、周囲を見渡した。
「……よし。ミロ、ロランを呼んできてくれ」
声には疲労が混じっていたが、芯はぶれていなかった。
ミロは頷き、短弓と鎌を背にかけ直す。
「わかった」
短く返事をし、身軽な足取りで森の奥へ駆けていく。
枝葉を避け、木立の影に体を溶かすように進む姿は、いつもの彼よりもずっと静かだった。
その背が見えなくなるころには、風が止まり、森全体が息を潜めたように思えた。
残った仲間たちは、散らばった戦闘の跡を黙々と処理していた。
オズワルは槍の穂先を拭い、トマは地面に残る少しの血の跡を靴の裏で消していく。
エドリックは投げナイフを一本ずつ確認し、ダリルは耳を澄ませて周囲の気配を探る。
言葉はなかった。ただ、互いの動きが自然に噛み合っていた。
陽はさらに沈み、森の色が次第に変わっていく。空は赤から紫、そして深い群青へ。
木々の隙間からのぞく光が、武具の金具を鈍く照らした。
風が冷たくなり、湿った土の匂いが強まっていく。
やがて森の奥が黒く沈み、音の輪郭が曖昧になっていった。
小さな虫の羽音と、どこか遠くで折れる枝の音だけが、夜の訪れを告げている。
頭上では、星の瞬きがひとつ、またひとつ増えていった。
***
やがて、森の奥から二つの影が現れた。
ミロが先に姿を見せ、その後ろにはロランの姿がある。
ロランは弓を背にかけたまま、周囲を一瞥してから報告した。
「廃村側は動きなし。盗賊や連合の援軍も見えない」
その声は落ち着いていたが、疲労が隠せない。
レナードは短く頷き、地面に目を落とす。
彼の視線は地図をなぞるように森の奥を追った。
「……これで、この一帯でやるべきことはすべて終わったな」
低く呟き、腰の短剣を収める。
「洞窟を占拠し、証拠も押さえた。
だが、ここに長く留まるわけにはいかない。
次は――先任斥候が陣取っていた高台に戻る。
廃村を見渡せる場所だ。そこから再び斥候を続ける」
全員が「了解」と答え、進行方向を確認する。
レナードは全員を見回した。
誰も言葉を発さず、各自が静かに装備を整える。
鎧の金具がかすかに鳴り、革紐の音が風に混じる。
そのわずかな音さえ、この森では異様に響いて聞こえた。
レナードは全員の動きを確かめながら告げた。
「痕跡を残すな」
その言葉に、一行の表情が引き締まる。
夕闇の中、装備の金具がわずかに鳴る。
ミロは一瞬だけ洞窟の方を振り返り、何かを言いかけたが、すぐに黙った。
レナードもまた、洞窟の闇を一瞥する。
血と泥に塗れた戦場跡――そこに残るのは、ほんの数時間前の激闘の名残だけだった。
「……終わりじゃない」
レナードが低く呟く。
「まだ任務は継続中だ。ミロ、先導を頼む」
ミロは頷き、先導を始める。その後に続き、一行は闇の中へと歩み出した。
夜の森が彼らを包み込み、足音だけが静かに遠ざかっていった。
***
ミロの案内により、一行は森の中を抜けて高台へと向かった。
枝葉を避け、湿った土を踏みしめるたびに、草の匂いと冷気が肺を満たす。
夜はすでに深く、月は雲に隠れている。
それでもミロは迷いなく進んだ。地形を記憶しているのは彼だけだった。
やがて視界が開け、斜面の上に出る。先任斥候が陣取っていた高台だった。
全員が息を潜めながら登りきると、眼下には闇に沈んだ廃村が広がっている。
来たときには、家々の外に篝木がいくつも立てられ、橙の炎が夜気を照らしていた。
壁に映る影が揺れ、煙が空へと昇っていた光景を思い出す。
だが今は、それも消え、村全体が黒い影となって夜に溶け込んでいる。
風が止まれば、まるで時間そのものが動かなくなったようだった。
レナードは斜面の端にしゃがみ、闇の中を見下ろす。
「……よし。ここから斥候任務に移行する」
低い声が夜気に溶けていく。
一行の視線が彼に集まった。
「指示を出すが、その前に食事をしよう。ただし、戦闘食だけだ。火は使うな」
全員が静かに腰を下ろし、それぞれの荷を開く。
干し肉、固い黒パン、乾燥した果実。
水筒の中身はぬるくなっていたが、喉を潤すには十分だった。
湿った夜気が頬をなで、草の匂いとともに口にした食料の塩味が際立つ。
ミロが干し肉を歯で裂きながら、ほっと小さく息をつく。
その音がやけに大きく聞こえた。隣でトマが水を飲み、オズワルは無言で黒パンを噛む。
それぞれの仕草が、音のない会話のように繋がっていた。
エドリックは口の中で肉を噛みしめながら、思う。
いつもは味気なく、ただ腹を満たすだけの食事だ。だが今は、妙にうまいと感じた。
生きて、ここにいるという実感が、味に変わっているのかもしれない。
食事を終えると、皆の顔つきにわずかな落ち着きが戻っていた。
腹が満たされただけでなく、静かな時間がほんの少し、戦の重さを和らげたのだろう。
夜の風が高台を渡り、草を揺らす。
森の下からは虫の声がわずかに響き、遠くでフクロウが低く鳴いた。
その声が途切れるたび、世界の音がひとつ減っていくようだった。
頭上では薄雲の切れ間から星がのぞき、光の粒がひとつ、またひとつと瞬いている。
湿った空気の中に、土と草の匂いが混ざって漂っていた。
それは戦の焦げた匂いをようやく押し流すようでもあった。
レナードは立ち上がり、全員を見回す。
その表情には疲労が見えるが、声はいつものように落ち着いていた。
「これからの指示を出す。
ロラン、ミロ、トマ、エドリックは仮眠をとれ。
ダリルは廃村の警戒だ。ただし、ここからそれほど離れるな。
明かりがない。足場を誤れば危険だ。
……俺とオズワルはみんなの装備を整える」
一同が頷く。
誰も無駄口を叩かない。
「ミロ。お前は仮眠をとったら――洞窟で入手した盗賊と連合の証拠を持って砦へ戻れ。
その後は上官の指示を仰ぎ、行動しろ」
「わかった」
短く返す声には、疲れよりも覚悟が宿っていた。
夜風が吹き抜け、髪を揺らす。
その一瞬、彼の瞳に星の光が映った。
***
レナードは、オズワルと並んで仲間たちの装備を点検していた。
二人の前には、小さな焚き火がある。
周囲に敵影がないことを確認した後、廃村からは見えない風下に小さな火を起こした。
明かりというよりは、刃を見分けるためだけのわずかな光だった。
炎と呼ぶには頼りないほどの火で、風が吹けば今にも消えそうだった。
それでも、暗闇の中で金具を拭うには十分だった。
赤い光が槍の穂先をかすかに照らし、磨くたびに鈍く反射しては、また闇に沈む。
ダリルは廃村の方を見張っていたが、どこか落ち着いている。
「俺たちも後で交代して見張る」とレナードが伝えてあるからだ。
森の奥は深い闇に包まれ、夜風が草を揺らすたびに、火の影が地面をさざめかせた。
オズワルは短槍、短刀、矢じり、手斧――一つずつ丁寧に点検していく。
その隣でレナードも、革紐の緩みや刃こぼれを確かめていた。
横を見れば、エドリック、ミロ、ロラン、トマが静かに眠っている。
寝息が穏やかで、まるで戦の音など遠い昔のことのように感じられた。
オズワルは短槍を磨き終えると、刃先に映る弱い火を見つめたまま、
小さく息をついた。
やがて、その声が焚き火の揺らぎの中で漏れた。
「……すまなかったな」
かすれた声は弱く、夜気に溶けていくようだった。
「何がだ?」
レナードは顔を上げ、焚き火越しに彼の横顔をうかがう。
オズワルの表情は陰に沈み、目だけがかすかに光を反射していた。
「洞窟の制圧のあと、二人で盗賊の生き残りを確認しただろう。
あのとき、一人まだ息があった……覚えてるか?」
レナードは短く頷く。
炎がその頷きを照らし、揺れる光が二人の影を地面に重ねた。
焚き火がかすかに爆ぜる。
小さな火の粉が舞い、すぐに夜風に消えた。
その光が一瞬だけオズワルの頬を照らし、陰を長く落とす。
「お前は俺の代わりに情報を聞き出して……それから、あいつに止めを刺してくれた。
無抵抗の相手にだ。あいつが望んだとはいえ、俺にはできなかった」
レナードは無言で手を止めた。
磨いていた短槍の刃先に、焚き火の光が淡く揺れる。
刃を拭う指先にわずかな力がこもり、火の赤が指の節を照らした。
(……あのとき、ためらったのは俺も同じだ)
そう思ったが、言葉にはしなかった。
代わりに、レナードは低く言った。
「……気にするな。そんな役目は俺がやる」
オズワルが顔を上げる。焚き火の弱い光が、その表情を淡く照らした。
レナードは短刀を拭う手を止め、少しだけ口調を柔らげた。
「俺たちは一つの小隊だ。その中でも俺は隊長で、この中じゃ一番年上だ。
オズワル、お前いくつだ?」
「……二十一だ」
「じゃあ二十三の俺のほうが年上だな。そんな役目は年長者がやるもんだ。
エドリックとミロなんて、十五と十六のガキだぞ」
オズワルが小さく吹き出した。焚き火の火が揺れて、二人の影を揺らす。
「確かに……あの二人は生意気なガキだもんな」
レナードも口元を緩めた。
「だろ。――そんな生意気な奴らに、こんな思いはできるだけさせたくない」
オズワルは頷いた。
「……そうだな」
その声は先ほどまでの沈んだ響きとは違い、少しだけ温かかった。
しばし沈黙が続いた。焚き火の赤が弱まり、炭が小さく崩れる音だけがした。
レナードは視線を落とし、再び短刀を握り直した。
「俺たちは隊長と副隊長だ。この小隊の中ではただの役割かもしれない。
だが――汚れ役や危険な役は、できるだけ俺がやる。
お前には……俺の取りこぼしを頼む」
レナードの声は静かだったが、揺るぎなかった。
その真剣な横顔を見て、オズワルもまた真っ直ぐに答えた。
「……ああ。そうだな」
風が高台を渡り、焚き火の炎がひときわ小さく揺れた。
その光の中で、二人の影は重なり、ゆっくりと長く伸びていった。




