第46話 血と土の匂い
森の空気が張りつめていた。
風は止み、木々のざわめきも消える。誰も動かない。矢羽がかすかに鳴り、息が胸の奥で静かに膨らんでは消えていく。
緊張が肌を刺すようだった。指先の汗が冷たく、呼吸ひとつがやけに重い。誰もが、風の音すら敵の動きに聞こえていた。
レナードの手が、わずかに上がった。
その瞬間、全員の呼吸が止まる。
ダリルがスリングを振り上げた。革紐が風を裂き、石が放たれる。
洞窟の奥で乾いた音が響いた。
「……なんだ!」
「誰か外にいやがる!」
叫びとともに、三つの影が洞窟の闇を割って現れた。
その一瞬を、ロランの弓が逃さなかった。
矢がうなりを上げ、先頭の盗賊の喉を貫く。
「な、ん——」と言いかけた声が途切れ、男の体が後ろにのけぞった。
二人目の盗賊が驚愕の表情を見せた瞬間、
――バコッ!
頭がはじけるような音を立てて砕けた。ダリルのスリングだ。中距離で放たれた石が頭蓋を打ち抜き、血飛沫が洞窟の入口を赤く染める。
三人目が慌てて叫ぶ。「敵だぁ!早くこ——いってぇ!」
言葉の途中で、ミロの放った矢がその足を射抜いた。
悲鳴が上がる。男の体が傾き、膝を折った瞬間、エドリックの投げナイフが二本、ほとんど同時に飛ぶ。
一つは腹に、もう一つは肩に突き刺さった。
「がっ!」
声にならない叫びとともに、盗賊が倒れ込む。
そこへ、ミロの二射目が放たれた。
矢が背中に突き刺さり、動きが完全に止まる。
数秒の沈黙。
洞窟の入口に、三つの影が倒れたまま動かない。
ロランは矢をつがえ直し、ダリルは新たな石を掴む。
ミロは弓を構え直しながら、耳鳴りのような静寂に耐えていた。
エドリックは距離を詰めず、倒れた盗賊の急所を狙ってもう一本のナイフを構えた。
「……念のためだ」
呟きとともに腕が閃く。だが、ナイフが放たれる直前――
洞窟の奥から、再び足音が響いた。
低い怒声が重なり、何人もの影が動き出す。
レナードが即座に声を上げる。
「次が来るぞ!備えろ!」
風が一気に吹き抜け、森の静けさが破られた。
「敵だ!仲間がやられた!ぶっ殺せぇぇっ!!」
一瞬、森が息を飲んだように静まった。
次の瞬間、地を蹴る音が一斉に爆ぜた。
怒号とともに、四人が一斉に飛び出してくる。
短剣、斧、棍棒――それぞれが武器を構え、怒りに任せて突進してきた。
その勢いに、地面の砂が舞い上がる。埃が陽光を裂き、空気が熱を帯びた。
その瞬間、二人が同時に動く。
ロランの弓弦が鳴り、一本の矢が最前の盗賊の眉間を貫く。
その直後、ダリルのスリングがうなりを上げ、もう一人の顔面を撃ち抜いた。
頭が跳ね、血が飛び散る。
「くそっ、あそこだ!木陰の中だ!」
一人が怒鳴った。矢の飛んできた方向を見抜いたらしい。
血まみれの顔を上げ、獣のように歯を剥いて走る。
「隠れてやがる!出てこい、この野郎!」
足音が地を叩き、距離が一気に詰まる。
時間が、ほんの一瞬、ゆっくり流れる。
「来る!」
エドリックが短く叫び、ナイフを構えた。
ミロも同時に短弓を引く。
放たれた矢が一人の腹に突き刺さり、エドリックの投げナイフがもう一人の肩を裂く。
だが、どちらも止まらなかった。
血を流しながら、叫びを上げて突っ込んでくる。
「まだだ!」
エドリックが次のナイフをつかみ取る――その瞬間。
手斧が飛んだ。
空気を裂いて一直線に走り、盗賊の胸に突き刺さる。
鈍い音とともに、男が前のめりに崩れた。
トマが投擲し、すでに次の武器を構えている。
もう一人の盗賊が怒号を上げて迫る。
その前に、オズワルが素早く飛び出した。短槍がまっすぐ突き出され、胸を貫く。
「がはっ!」
血を吐きながら、盗賊がその場に崩れ落ちた。
一瞬の間。
洞窟の中から、再び人影が揺れる。
ロランが素早く弓を引いた。
弦の音が鳴り、矢が放たれる。
次の瞬間、洞窟の口に現れた盗賊の頭に突き刺さり、崩れ落ちた。
血と土の匂いが入り混じる。
静けさが戻るまでに、わずか数十秒――
倒れた盗賊は、すでに八人に達していた。
***
レナードが手を上げた。
「――止まれ」
全員の動きが一瞬で凍る。
矢をつがえたままのロラン、石を握ったダリル、短槍を構えたオズワル――誰もが呼吸を潜め、耳を澄ませた。
森の静けさが、再び戻ってくる。
洞窟の奥は沈黙していた。だが、その闇の奥には、まだ何かが潜んでいるような錯覚が残っていた。熱と血の匂いが混じった空気が、気配を装って揺らいでいるだけなのに、誰も目を離せなかった。
ミロは弓を構えたまま、額から落ちる汗を拭うこともできずにいた。
心臓の鼓動が、耳の奥で鳴っている。
わずかな風が頬を撫で、血の匂いがその風に乗って漂う。倒れた盗賊たちの体から、まだ温もりが抜けきっていないのがわかる。
レナードは周囲を見渡し、低く声を発した。
「ロラン、ダリル――このまま洞窟を警戒してくれ。目を離すな」
二人は無言で頷き、再び矢と石を構える。
ロランの視線は洞窟の闇を貫くように鋭く、ダリルの指は革紐の感触を確かめるように緊張していた。
レナードは残りの面々に向き直る。
「それ以外の者は、一度集まれ」
その声には、戦闘の直後とは思えぬほどの冷静さがあった。
エドリック、トマ、オズワル、ミロが順に動き出す。
足音は抑えられ、地面を踏む音さえ慎重だ。
四人がレナードのもとに集まるころ、周囲は再び沈黙に包まれていた。
森の奥で鳥が一声鳴くが、それがかえって場の緊張を際立たせる。
レナードは倒れた盗賊たちを遠目に見渡した。一歩も近づかず、視線だけで数を確かめる。
「……八人」
低く呟き、わずかに目を細めた。
地面には血の跡が点々と続き、倒れた影が陽の光に淡く照らされている。
動く者はいない。だが、完全に死んだと断言するには早い――そんな直感があった。
風が吹くたび、衣の裾や髪がわずかに揺れ、まるで誰かがまだ息をしているように見える。
「洞窟側にいた連中は、小道で奇襲した八人を合わせて十六人だ。……おそらく全滅した」
レナードの声は低く落ち着いていたが、わずかに緊張を含んでいた。
エドリック、トマ、オズワル、ミロは静かに頷く。
それでも誰も武器を下ろさない。
洞窟の口からは冷たい空気が流れ出し、湿った匂いが漂っていた。
中は暗く、奥まで見通せない。何かが潜んでいてもおかしくはなかった。
「……だが、潜んでいる可能性はある」
レナードが言葉を継ぐ。
「このまま何もしないわけにはいかない。俺とオズワルで先に洞窟を確認する」
オズワルは短く「了解」と返し、短槍を構える。
その立ち姿には迷いがない。
「エドリック、ミロ」
レナードが二人へ目を向ける。
「確実に急所を狙える位置に移動しろ。もし洞窟内に伏兵がいて、俺たちが襲われた場合は援護を頼む」
二人は即座に頷く。
レナードが振り返りトマに声をかける。
「トマ。俺とオズワルより十歩あとに続いてこい。投擲と近距離、どちらも対応できる距離を保て」
「了解」
トマは短く答え、手斧の柄を握り直す。
その姿勢には緊張が滲むが、動きに迷いはない。
「……でも、危険すぎないか?もう少し待って、動きを見てからでも」
ミロが慎重に言葉を発する。それは仲間を心配してのものだった。
冷たい空気が肌を撫で、暗闇の奥で小石が転がる音がした。
それがただの風なのか、それとも何かの気配なのか――誰にもわからなかった。
レナードは短く息を吐き、ミロの方へ視線を向けた。
「……それが隊長と副隊長の役割だ」
淡々とした声だった。
「それに、この戦闘では俺はほとんど見ていただけだ」
言葉の端に、ほんのわずかに冗談めいた響きが混じった。
だが、誰も笑わなかった。
血の匂いと静寂が、冗談を許さない空気を作っていた。
レナードは肩をすくめ、苦笑を浮かべた。
「……笑えよ。まあいい」
そう言って剣の柄に手を添え、目を洞窟の奥に向ける。
「これから洞窟に突入する。その前に――オズワル」
「なんだ?」
短く返すオズワルの声も、普段より低い。
「倒れている死体を俺と一緒に確認するぞ。特に急所を外している奴がいるはずだ。
近づくときは気をつけろ」
その言葉に、全員の視線が同じ方向を向いた。
崩れた岩の影、血溜まりの手前――足を貫かれ、腹と肩を撃たれ、背中に追い打ちをかけられた盗賊がいた。
地面に伏して動かないが、あのときも声を上げなかった。
エドリックは、無意識に息を詰める。
(……あいつか)
思い出した瞬間、背筋に冷たいものが走った。
ミロもその方向を見た。
矢が刺さった背中は赤黒く染まり、動く気配はない。
だが、光の角度でわずかに影が揺れる。
それが風か、それとも……。
レナードが静かに言葉を継いだ。
「本当はここから止めを刺したいところだが、もし死んでいるならそれは盗賊と言えど死者への冒涜になる。だから――慎重に確認しろ」
オズワルは頷き、短槍を構え直した。
レナードは警戒を続けているロランとダリルのもとへ向かった。
三人の小声までは判然としない。
だが、身振りから見て、次の行動を確認しているのは明らかだった。
ロランは弓を構えたままわずかに頷き、ダリルもスリングを握り直す。
その緊張が距離を隔てたこちらまで伝わってくる。
レナードは短く腕を上げ、合図を送った。
オズワルが頷き、槍を構えたまま洞窟の方へ向かっていく。
金属の留め具が小さく鳴り、足元の砂を踏む音がわずかに響いた。
レナードもその背を追い、二人は血の匂い漂う空間を抜けて、洞窟の口へと近づいていく。
トマも二人の後を後方からゆっくりと追いかけだした。
その間、エドリックとミロは静かに位置を移していた。
洞窟に近い斜面の岩陰に身を潜め、互いに距離を確認する。
ミロは弓を構えたまま、視線を前へ。
エドリックは投げナイフを指に挟み、いつでも放てるようにしている。
二人の間を吹き抜ける風が、まるで合図のように一瞬止んだ。
「……」
エドリックは短く息を吐き、ナイフの刃先をわずかに傾けた。
陽光が反射し、細い光が一瞬だけ閃く。
二人の間には言葉はない。だが互いに、何かあれば即座に動くと理解していた。
遠くで、何かを小突くような音がした。
オズワルが死体を確認しているのだろう。
それでもエドリックの心拍は速くなっていく。
(……嫌な感じがする)
静けさが濃くなり、耳鳴りだけが残った。
どれだけ見つめても、洞窟の奥は黒く沈んだまま――何も見えない。
それが、何よりも不気味だった。
闇の底で、石が触れ合うような微かな音がした――気がした。




