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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第一幕 ボヘミア・プロテスタント独立戦争(1618〜1621)
8/63

白山《WeißenBerg》


 一六二〇年一一月六日――


 首府プラハ防衛のための「転進」を決定し、前日の夜になってから行軍を開始したボヘミア・プロテスタント軍と、叛乱新教徒鎮圧を任とするハプスブルク・カトリック軍は、互いに目視できる程度の距離を空けて並走していた。


 急速に深まりつつある秋の冷気と湿気が山野に霧を立ちこめさせており、両軍ともに敵のはっきりとした姿を見ることは少なかったが、万を超える人馬の気配は隠しようもなく、つぎに陣を張るのは決戦のとき以外になかろうという緊張感が、将兵の区別なく背筋を震わせていた。


 だが、残る目標は叛乱の中枢プラハのみとなって士気の高いカトリック軍に対し、プロテスタント軍は、ボヘミア王フリードリヒ自らが陣頭に立っているにも拘らず意気軒昂とはいかなかった。将兵への支払いは長らく滞っており、契約自体も切れていた。


 給金未払いに対しては不服従と略奪で応えるのがこの時代の傭兵軍の悪癖であったが、強大な鎮圧軍が眼前にいるために、彼らは行動を起こしかねていた。海千山千のマンスフェルトは絶妙なタイミングでフリードリヒを見切っていたが、徴集された農民やプロテスタント同盟ウニオンに属する諸侯が数合わせで送ってきただけの兵員も少なくないボヘミア軍の大半は、逃げ出す時機を逸してしまっていた。ガブリエル・ベートレンが寄越してきたトランシルヴァニア騎兵隊だけは無節操な略奪を繰り返していたが、ベートレンにとって戦争とは最初からそういうもので、麾下もその流儀に倣っているだけのことであった。


 とはいえ、トゥルン伯を始め、カトリックへの敵愾心とプロテスタントの信仰のために、真の闘志を燃やしている者も決して少なくはなかった。彼らがいなければ、プロテスタント軍はとっくに四散して、単なる武装強盗団が複数誕生していただろう。この劣悪な条件下で形だけでも一軍の体を保っていられるというのは、これでも当時の水準からすれば軍紀に恵まれているほうであった。


 プラハを目指す両軍の――プロテスタント軍は防衛のため、カトリック軍は攻略のため――並走行軍は三六時間に渡って続いたが、本街道を占めていたプロテスタント側が次第にカトリック軍を引き離し、七日夕刻、プラハの城壁前に到達した。


 フリードリヒは軍資金の支出を議会にはかるためプラハ市中へ入った。トランシルヴァニア騎兵隊はさっそく周囲の農村を略奪しに出かけたが、残余のプロテスタント軍にそこまでの元気は残っていなかった。フリードリヒの名で全権を預けられた官房長アンハルトは、周囲でもっとも高い場所を本営に定め、陽が沈んでから夜半にかけて全隊を移動させた。石灰岩を多く含み、白く見えることから「白山」と呼ばれている小高い丘だ。実際に、石灰の採掘も行われていた。


 山というには大げさな、やや広めの丘程度のものであるが、小高いその頂上部は平坦に広がっていて、周囲をよく見渡すことができた。土地を選ぶ判断力でまるきりの無能ではなかったことを示したアンハルトだったが、高所を占めたことで安堵したのか、麾下に充分な防御陣の構築や哨戒の指示を下さず、休息を許してしまった。トランシルヴァニア兵と違い満足に食うこともできないまま不眠不休の行軍をしてきたボヘミア兵たちは、そのまま泥のように眠り込んだ。


 アンハルトはカトリック軍が追いついてきて、さらに攻撃準備を整えるにはまだ時間がかかると踏んでいたが、規律の面でも士気の面でも、そもそもの兵員の質と量の面でも、すべてに渡ってプロテスタント側を上回るカトリック軍は、八日の未明には白山を指呼の距離に望む位置に布陣していた。


 明け方になってようやく、周辺の略奪に興じていたトランシルヴァニア騎兵隊が戻ってきて、白山の北の端にある、星宮と呼ばれる庭園つきの邸宅のかたわらで休み始めたが、そのころ既にカトリック側は前哨部隊を繰り出しており、申し訳ばかりに配置されていたボヘミア軍守備隊を追い散らして、山の麓を流れる小川にかかっていた橋を確保していた。もっとも、橋などなくとも、ふくらはぎまで浸かる程度で渡れるささやかな流れであったが。


 八日の早朝七時、大公マクシミリアンを総司令に戴き、名将ティリーが実戦指揮を執るバイエルン軍は、ハプスブルク帝国軍本隊に先んじて渡河し、プロテスタント軍の大砲から死角となる白山の急斜面の下を目指して前進を開始した。


 敵が前進し始めたことを察したトゥルン伯は砲撃を主張したが、幕僚のひとりホーヘンローエは、距離が遠い上に霧が晴れておらず、弾薬の浪費のわりに効果が期待できないとして反対し、アンハルトもホーヘンローエに同調したために火砲は使用されなかった。バイエルン軍が無事に渡河したのを見て、帝国軍本隊も川を渡り、白山の麓、プロテスタント軍の前線から四分の一マイルほどの地点にカトリック側は陣を整えた。カトリック連盟軍の陣容は、ティリー指揮のバイエルン軍が左翼、ブクォイを主将とするハプスブルク帝国軍が右翼である。


 それに対し、士気に問題を抱えていたプロテスタント同盟軍は、徴集兵の戦列のあいだに逃走阻止用の職業軍人の隊が混ぜられているという配置になっていた。アンハルトの本陣には、黄色地に緑の十字架のフリードリヒの旗がはためき「我に敵する者を知らず(Diverti Nescio)」と勇ましい文句が縫い取りされていた。


 兵力は、カトリック側はバイエルン軍が約一万、ハプスブルク帝国軍が約一万五〇〇〇の総勢二万五〇〇〇ほど。プロテスタント側はおよそ一万五〇〇〇であった。


 なおも霧は山野にわだかまっており、アンハルトはカトリック軍が斜面を登ってくることはできないだろうと予想していた。道が切り開かれていない地帯は木々が多く、霧の中をまとまった部隊が進むことは不可能である。もちろん道に沿ってのこのこと登ってこようものなら、ひらけた頂上部に差しかかったところで大砲の餌食だ。アンハルトは半ば以上本気で、敵は無理攻めをあきらめ、大回りでプラハを目指すだろうと考えていた。


 その見解は必ずしも的外れのものではなく、帝国軍の指揮官であるブクォイ将軍は、白山の脇を抜けてプラハをうかがう様子を見せつけ、それによってプロテスタント軍に堅陣を放棄させて平野に引きずり下ろすという作戦を提案していた。老練の戦巧者がいかにも考えそうな策であったが、先日のロキツァンでのにらみ合いのときにもブクォイは同様の作戦を敢行し、そのさいに負傷して、いまは直接指揮を振るうことのできなくなっている有様であった。


 この局面で婉曲な老兵の小手先芸は迂遠であると見たマクシミリアンは、ティリーに敵の意志がどの程度か計るよう指示を発し、ティリーは攻撃地点に、星宮の周囲にプロテスタント側が急ごしらえしていた胸壁を選んだ。即席の壁といっても白山の中でもっとも急な斜面を上がってすぐのところに設えられており、非常に攻めにくい場所であったが、斜面と壁がほとんど接しているために、プロテスタント軍は大砲を使いにくいであろうとティリーは判断した。カトリック軍が斜面にへばりついているあいだは死角にあってうまく砲撃できず、壁の前で戦い始めたところを撃てば、わずかに狙いが逸れるだけで味方の防塁のほうを壊してしまう。


 午前中のうちにティリーは威力偵察部隊を選定し、霧の中へ送り出した。星宮の前で小競り合いが起こり、案の定トランシルヴァニア兵はまったく働かなかったが、配置されていたほかのプロテスタント軍守備隊は陣地を保持してよく戦い、「敵の士気低からず」の報を持ってバイエルン軍は後退した。


 結果を知って、カトリック軍本陣にて帝国軍の幕僚たちは主将の見解を支持する意気を強くしたが、マクシミリアンはこの場でプロテスタント軍を粉砕するという持論を曲げなかった。バイエルン大公は軍人ではなかったが、敵正規戦力の撃滅と敵首府攻略こそが戦争をもっとも早く終結させる、という正しい戦略感覚を持っていた。それでも昼ごろまで帝国軍側の幕僚団はブクォイの主張を繰り返し、簡単には譲ろうとしなかった。陽が高くなるにつれ、霧は急速に晴れつつあった。


 結果論ではあるが、このカトリック側のいざこざが、プロテスタント軍のゆるみを誘った。緒戦で退けられたカトリック軍の動きが停滞したことで、アンハルトは敵が現在の陣地を放棄し、旋回運動によってプラハ突入を狙う作戦に移行するだろうと確信した。持ち場を離れてよいと許しが出たわけではなかったが、今日の戦いはなかろうという安堵感がプロテスタント軍の全陣営の中に徐々に広まっていった。


 そんな空気の漂い出した正午のわずかに前、カトリック軍は「マリアよ救いたまえ(Salve Regina)」の鬨とともに前進を開始し、直後に大砲が火を噴いた。完全にプロテスタントたちは虚を衝かれた。もちろん直接見えない位置からの間接砲撃であり、しかもプロテスタント軍の陣容を眺められる地点にカトリック側の観測兵はいない。最初の射撃に威嚇以上の効果は一切なかったが、プロテスタントたちがほどけかけていた緊迫感を張り直す間に、ティリーは敵の側面を突くべく騎兵隊を一度戦場の外側へ向けて繰り出した。しかしその効果が出るのは今しばらく先のことであり、さすがに眼前に敵の姿が現れればプロテスタント側の気のゆるみも消える。


 正面から突撃したバイエルン軍は、ボヘミア軍の予想以上の抵抗によって苦戦を余儀なくされた。とくにアンハルトの子息が率いる騎兵隊は働きが目覚ましく、敵をほとんど斜面の下へ突き落とし、さらに敵陣へ逆突入しようかというほどの勢いであった。帝国軍と交戦を開始したプロテスタント側左翼では、トゥルン伯率いる歩兵隊と伯の息子が指揮する騎兵隊が、激突するなり敵を一気に押し込んだ。


 両翼では優勢に立ったプロテスタント軍であったが、肝心な中央では敵の浸透を許していた。カトリック側ではバイエルン軍よりも帝国軍のほうが数が多かったため、中央の攻撃は帝国軍の受け持ちであったが、相対したホーヘンローエの隊はそもそも指揮官が消極的であったこともあり、ほとんど無気力に敵が通過していくのを見るばかりであった。帝国軍のほうも士気の低い敵を無視してさらに前進し、数は多いが調練不足のボヘミア徴集兵部隊と、配置されているだけで戦意希薄のトランシルヴァニア騎兵隊――あまつさえ全隊の三割以上はいまだ星宮の壁の脇で休んだままなのである――へ襲いかかった。


 中央突破の危機と、なにより自身の安全を脅かされたアンハルトは軍陣の再編成を叫んだが、優位な両翼のプロテスタント部隊は持ち場を離れて前進しており、その声の届きようはなかった。


 開戦から一時間ほど経過したところで、開戦初期は有利であった両翼のプロテスタント軍も、徐々に中央と同じ運命を辿り始めていた。右翼で勇戦していたアンハルトの子息は、傷をふたつ受けて倒れた。星宮の壁際でとぐろを巻いていたトランシルヴァニア騎兵隊のうちでもとくに救い難い怠け者たちは、ティリーが開戦初期に放った騎兵隊によってすっかり追い払われていた。数では遥かに勝っていたにも拘らず、トランシルヴァニア騎兵隊はほとんど抵抗することなく、なけなしの略奪品を抱えて逃げ出したのであった。


 左翼では、驀進を続けていたトゥルン親子が敵中に入り込みすぎていた。友軍の危機を察知しながらもそれを囮に使うティリーの非情で冷静な判断によって、トゥルン親子は帝国軍を押しまくりながらバイエルン軍に脇腹を晒すことになり、ティリーの号令一下、的確な側面攻撃によって部隊は壊滅した。トゥルン伯は退却に成功したが、息子のほうは捕虜となった。


 ティリーが手柄をあげるのを黙って見ていられなくなったのかもしれないが、重傷の床から起き上がったブクォイ将軍が自ら予備部隊を率いて敵軍の左翼へ決定的な一撃を加えたのは、プロテスタント側の攻勢が限界点を越え、後退に転じてから間もなくのことであった。プロテスタント側の最左翼を守っていた騎兵隊を粉砕し、さらに陣形の立て直しを図る途中だったトゥルン伯の隊を潰乱せしめて、伯がつかみ得たかも知れない再逆転の芽を摘み取ったのである。


 伊達でハプスブルク帝国軍の主将を務めていたわけではなく、戦局の潮目を見極める眼力を確かにブクォイは持っていた。だが、白山の勝将という名誉と引き換えに、ブクォイはこの無理がたたって落命することになる。そしてブクォイがトゥルン伯の粘り腰を未発で終わらせてくれたおかげで、アンハルトは「真っ先に逃げ出した総指揮官」という不名誉からは救われることになった。星宮などのごくわずかな例外をのぞいて、プロテスタント側は両翼も中央もなく、ほぼときを同じくして潰走に陥ったからである。


 総崩れとなったボヘミア軍は、国王フリードリヒの大旗を始め、およそ一〇〇本の軍旗をカトリック側に奪われ、一〇門の大砲もすべて鹵獲された。



 ボヘミア最後の守りが最後の戦いを繰り広げていたころ、国王フリードリヒと王妃エリーザベトはイングランドの使節と午餐の席を供にしていた。義父の使いを迎えて、フリードリヒは、間もなく侵略者たちはオーストリアへ逃げ帰るであろうと豪語していた。


 ロキツァンでも、それ以前の対峙でも、ボヘミア・プロテスタント軍主力と向かい合ったさいのハプスブルク・バイエルン連合軍は小競り合い以上の戦闘をしかけてこなかったので、フリードリヒはすっかり敵を過小評価するようになっていた。本格的戦端を開かずじまいでこうして首府直前まで押されてきたことが危機であるとは考えなかったのだ。


 議会が本当に軍資金を支出してくれるかはまだわかっていなかったにもかかわらず、本拠地を背後に得たボヘミア・プロテスタント護民軍は消耗から回復し、反抗の気も消え失せるであろうと、フリードリヒは勝手に楽観視していた。プラハの城壁と力を増した防衛軍の前に、カトリックは為すすべなく撤退を余儀なくされるのだと信じ込んでいた。


 ときおり自らの言に酔う癖のあるフリードリヒは、この無根拠な明るい見通しを麾下に語って聞かせ、「国王万歳」の歓呼の声が聴きたいと思い立った。昼食を終え、ふたりの大使と取り巻きたちを伴って、郊外へ向け、宮殿を出て郊外のほうへと歩き始めた。


 浮ついた上機嫌のフリードリヒが城外の雰囲気のおかしいことに気づいたのは、市門にたどり着こうかというところであった。隊伍も組まず、バラバラに駆けってくるのは、確かにプロテスタント軍の兵士たちであり、下士官であり、将校であった。なにごとがあったのか訊ねようとするフリードリヒに目もくれず、将兵たちは自らの一身の安全のみを求めて走り去っていった。


 困惑するばかりのフリードリヒであったが、華美な高級武官衣を煤と泥まみれにし、髪も乱れたアンハルトが城門の口に姿を見せたことで、ようやく事態が尋常ならざることを察した。


 フリードリヒのひざ元に駆け寄ってきたときは息も切れ切れで意味のある言葉を発することもできなかったアンハルトだが、水を一杯飲んでひと息ついてからは、普段の自信屋の饒舌さを取り戻した。急遽催された御前会議でまずアンハルトが強調したのは、負け戦の責は彼にはなく、諸将の不服従と、なによりも味方の三倍を超える、五万に迫る数のカトリック軍によって多勢に無勢の仕儀と相成ったのであり、もしアンハルトが指揮官でなかったら、こんな会議を開く暇すらなくプラハは陥落していたであろう、などということであった。


 確かにカトリック勢のほうが数は多かったが、アンハルトは敵を二倍に過大評価していた。ティリーとブクォイの巧みな指揮がなければ、プロテスタントは今日のうちは白山を守りきることができたであろう。アンハルトにもっと軍事的な才能があれば、たとえ兵力で勝る戦巧者のティリーとブクォイを向こうに回していたとしても、地勢の有利に拠って、もっと長時間粘ることができたはずであったが。


 責任逃れをした上ではあるが、アンハルトは現状を正しく捉えており、国王夫妻は亡命しなければならないと進言した。プロテスタント同盟に属するドイツ諸侯の元かあるいはオランダ連合、王妃の実家であるイギリス、場合によってはデンマークやスウェーデンを頼らなければならないかもしれないと述べ立てた。


 だが、フリードリヒのほうにはあまり危機感がなかった。自らの存在の合法性を信じていたフリードリヒは、逃げなければならないとは考えなかったのだ。ミュールハウゼンにおいて、カトリック側はボヘミア王冠と神聖ローマ皇帝冠は不可分のものであると宣言していたが、三代前の国王にして皇帝であるルドルフがボヘミアに与えた〈国王(Majestäts)勅書(Brief)〉は未だ有効であった。つまりフェルディナントを廃位した等族会議の決定は完全に合法であり、そのあとにボヘミア王冠を戴く者として選挙されたフリードリヒの立場もまた合法である。


 ボヘミア問題において自身と対等の立場にあるのは、皇帝としてではなくオーストリア大公としてのフェルディナントであり、ましてやバイエルン大公マクシミリアンに差し出口を挟まれる謂れはない、というのがフリードリヒの大義であった。


 その論法に基づき、フリードリヒは城壁の寸前に迫った「無法な侵略者」に対し、寛大にも二四時間の休戦を許すと打診したが、マクシミリアンは鼻で笑い、八時間の猶予をくれてやろうといって使者を追い返した。この高圧的な回答によって、さすがのフリードリヒもカトリック側は法より剣の力に訴える気満々でいることを悟ったのである。


 結果的には、マクシミリアンはフリードリヒを助けることになった。もし要求通りに二四時間の休戦を得られていたら、フリードリヒはすっかり落ち着いて逃亡する気をなくし、フラドシン宮にてマクシミリアンと和平協議をするつもりになっていただろうからだ。その場合は、防衛軍の惨敗を知ったプラハ市民によってフリードリヒは捕らえられ、勝者に売り渡されていたであろうこと疑いない。


 開城に応じず防衛戦に臨み、そして敗れた都市は、攻略軍の将兵によって略奪されるのが通例である。短くて三日、長ければ半月ものあいだ勝者の軍靴によって蹂躙されることを思えば、国王を犠牲にして侵略者の入城を免れうるのなら安いものであろう。



 八日の陽が落ちるなり、フリードリヒらはプラハを抜け出し、モルダウ河を渡って北方へと落ち延びた。慌しい脱出劇だったため、フリードリヒは物質的なボヘミア冠である聖ヴァーツラフの王冠を忘れ、アンハルトは機密書類を持っていくことができず、エリーザベトは暇つぶしに読んでいた当世通俗小説を置いていった。そのほかにも、荷馬車八台分におよぶボヘミア王・ファルツ選帝侯の財宝が取り残されたのであった。

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