スペインの牙《Gihtzahn von Spanien》
北ネーデルラント・オランダ共和国の成立は、一六世紀に巻き起こった一連の宗教改革における、プロテスタント最大の勝利のひとつであった。
現指導者オラニエン公マウリッツの父、沈黙公ウィレムは最後まで全ネーデルラントの統一をあきらめていなかったが、その大望を阻んだのは、スペインの強力な政府と軍備というよりは、尖鋭さを増すカルヴァン派過激分子とカトリック原理主義の衝突であった。終生寛容の人であったウィレムにとって狂信者は理解できない存在だったが、その寛容のゆえに公は最後まで狂信者へ弾圧を加えることはできなかった。
一五八四年七月にウィレムは暗殺され、ネーデルラント完全独立の可能性は潰えた。とはいえ結果としては、オランダ連合は保持しうる限界にほぼ等しい版図を持って一六〇九年にスペイン側と一二年間の休戦を締結するにいたった。ネーデルラント全体をスペインの軛から解放するなどという大事業は、ウィレムの寿命が無限でもないかぎりは不可能であったろう。
沈黙公ウィレムは不世出の天才であり、かつ生まれるのが早すぎた開明思想家であったが、マウリッツも充分に才幹があり、とくに軍事面において突出していた。
マウリッツと向かい合うスペイン領南ネーデルラントの執政は、スペインの先王フェリーペ二世の娘インファンタ・イサベラの夫であるアルベルト大公であった。その結婚は子に恵まれなかったため、夫妻の没後にネーデルラントはスペイン王家の元に復すると決まっていたが、大公夫妻の統治は土地の人々に不人気ではなく、スペインの圧政に苦しむ無辜の民草、という図式ではなかった。
それ以前の執政たちの、ひいてはフェリーペ二世のネーデルラント政策が拙いものであったゆえに、一時期は全土が叛乱に立ち上がりかけ、北部の離脱を招いたのではあるが、さしあたって南ネーデルラントの状況は落ち着いていた。
軍務においては父を凌ぐオラニエン公マウリッツと互角の戦いを展開したのが、スペイン軍駐留ネーデルラント司令アンブロージオ・スピノーラであった。
スピノーラはジェノヴァ共和国の貴族の家に生まれ、権力闘争の過程で、当時共和国を事実上保護領としていたスペインに軍人として奉公する道を選んだ。スピノーラは私財を投じて軍を編成し、マウリッツ率いる叛乱ネーデルラント軍と戦い、名声を得た。歴戦の将軍であり、年齢も五〇に差しかかったばかりで、脂の乗り切った壮年であった。
大公夫妻の信任も篤いスピノーラは対オランダ政策に深く関与しており、ドイツのごたごたはスピノーラにとってはあくまでもついでであった。北ネーデルラントの再征服こそがスピノーラの終着点であり、その過程においては踏みやすい途を往くだけのことだ。そしてフェルディナントに対するフリードリヒの叛逆は、この上ない機会をスペインに与えてしまっていたのだった。
スペインがネーデルラントの再征服を重視しているのには、もちろん応分の理由がある。
大陸の隅にあったスペインを一躍世界帝国たらしめたのは、一六世紀前半の中南米征服によってもたらされた莫大な金銀であったが、スペイン宮廷はその富をすさまじい勢いで蕩尽してしまい、一世紀足らずして貴金属の山をほとんど使い切ってしまっていた。
当時は貨幣とはそれすなわち金銀であったから、外部から流入した大量の資金はヨーロッパ世界の近代化を大いに促進することとなった。ところが、資金を持ち込んだ当のスペインは、手工業や商業、貿易の発達を国家としてあまり奨励せず、経済発展から取り残されてしまったのである。産業の基盤が不充分な状態では、価値の実体としての金銀が途切れた時点で繁栄の終焉が訪れてしまう。
対してネーデルラントでは、その立地と国土の狭さゆえに商業と貿易に活路を見出さざるをえず、結果として生産性の高い、略奪経済から脱却しきれないスペインとは正反対の発展を遂げていた。叛乱後も南ネーデルラントはハプスブルク治下に残ったが、北ネーデルラントの港湾封鎖によって満足な海運取引きができなくなっている。
南北ネーデルラントの再統一とスペイン統治下への復帰が、マドリード政府にとって政治、経済、軍事の最重要課題となっていた。黄昏を迎えてなお巨人であるスペインが、日の出の勢いとはいえまだまだ小さく、国体の統一も完成されていない北ネーデルラントを食らうことで若さを取り戻そうとしているのであった。
一六二〇年三月――
皇帝フェルディナントはミュールハウゼンにて会議を招集した。フリードリヒによって催された前年のニュルンベルク会合はプロテスタント諸侯の不統一を露呈していたが、ミュールハウゼンにはカトリック諸侯のみならず、プロテスタント側の重鎮であるザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクも代表を送った。
ボヘミア王国は神聖ローマ帝国の一地方ではなく、フェルディナントの帝冠と王冠は別個のものであり、ボヘミア王冠のみを奪ったフリードリヒは帝国への叛逆者ではない――というフリードリヒの論法は、ミュールハウゼンにおいて否定された。出席した諸侯は一致してボヘミアは帝国の不可分の一部であると宣言し、フリードリヒは大逆罪に問われることとなったのである。
四月三〇日――
帝国会議の裏打ちを受けた皇帝フェルディナントは、フリードリヒに対し、最後通牒を発した。六月初日までにボヘミアから退去しないのならば、それは皇帝に対する宣戦布告と看做されるであろう、と。フリードリヒは無論それにしたがわなかった。
カトリック連盟の領袖バイエルン大公マクシミリアンは、ミュールハウゼンでの議決とフェルディナントとのあいだに結んだ密約に基づいて、さっそく大軍を派遣した。指揮官は名将として評価を確立していた、ティリー伯ヨハン・セルクラエスである。六一歳という老齢に差しかかっていたティリーだが、本当は神父になりたかったというほど敬虔なカトリックであり、修道僧のような生活は彼を老いから守っていた。
対するプロテスタント同盟の諸侯もそれぞれの手勢を引き連れてはきたが、彼らの士気は低かった。フリードリヒのために戦って死ぬ覚悟がなかったのだ。ドナウ河を挟んで双方にらみ合いになりはしたが、六月になると同時に開戦とはならなかった。マクシミリアンは同盟の弱気を見通しており、敵陣から脱落者が出るのを待っていた。
両者の交渉を仲介したのは、なぜかここにきて首を突っ込んできたフランスであった。カトリック連盟とプロテスタント同盟はお互いの領地を侵犯しないと保証する――すなわち、今回の戦いにおける帝国の敵はボヘミア僭王フリードリヒであり、プロテスタントそのものではない、というのがフランスの提示した和解案の論法である。
スペインの勢力に東西から圧迫を受けたくないフランスは、プロテスタント同盟にラインを守らせようと考えたのだ。カトリック連盟はボヘミアを好きに料理してくれて構わない、プロテスタント同盟はフリードリヒの味方をする必要はないが、ライン河を保持しスピノーラの侵入を防いで欲しい――なんとも都合のよい考えだが、フランスにとってはリスクが低く、うまくいったさいのメリットは大きい策であるように思われた。
この「都合のよい話」に、同盟も連盟も飛びついた。七月三日、ドナウ河畔の都市ウルムで条約が調印され、プロテスタント同盟は撤退し、同盟諸領を侵攻しないと約束したカトリック連盟軍は両ファルツ領をにらんでいたウルムの対岸から離れボヘミア方面へ向かった。
しかしマクシミリアンは即座にボヘミア攻略には移らず、七月二三日にオーストリア大公国へと侵入した。オーストリアのうちボヘミアに近い地方では、プロテスタントの地主たちがフリードリヒをあてにしてウィーンのカトリック政府に背を向けていたからである。
フリードリヒ追討にあたって、バイエルン軍はその征服地を戦費の精算がすむまで質物として仮領有できる――皇帝フェルディナントに認めさせたこの特約を、マクシミリアンは存分に行使するつもりでいた。八月四日に、オーストリア北西の要衝リンツは制圧され、オーストリアにおけるプロテスタントの組織的叛乱は終熄した。
一方、スペイン領ネーデルラント南部、フランドルを進発したスピノーラ率いるスペイン・ハプスブルク軍は、八月の末にライン・ファルツへと侵入し、次々と都市を占領していった。バイエルン軍の脅威からは解放されたはずのプロテスタント同盟軍は、真実外国からの侵略者であるスペイン軍に対してなんらの行動も起こさなかった。
プロテスタント諸侯は、ウルム条約を、ドイツ臣民同士の争いを回避してスペインに備えるための和解とは受け取らなかったのである。ただ責任逃れをし、フリードリヒを見捨てる口実として使ったのだ。ウルム条約をもたらしたフランスの目論みはさっそくひとつ外れたが、これはまだほんの序章にすぎないのであった。
九月二六日――
バイエルン軍は、ボヘミア叛乱の初期から編成されていたブクォイ将軍率いるハプスブルク帝国軍と合流し、オーストリアからボヘミアへ進攻した。一〇月に入ると、ボヘミアの北方向からは、プロテスタントであるはずのザクセン軍による攻撃が始まった。マクシミリアンがボヘミア攻略の総指揮権を譲らなかったため、ザクセン軍はボヘミア領への直接攻撃はしなかったものの、フェルディナントとの密約に基づいてラウジッツを襲った。
南から侵攻したカトリック連盟軍は、ボヘミア王国をほぼ東西に二分するモルダウ河の西側を攻略していったが、首府プラハとフリードリヒの根拠地であるファルツ領の連絡を絶つ、戦略的意義に沿う進路であった。ザクセン侯がラウジッツの首府バウツェンを降伏させたころ、連盟軍はピルゼンに迫っていた。この城市は先年からボヘミア守備軍の一翼を担うマンスフェルトが宿営地にしていたが、サヴォワ大公が資金供与を停止して以降、軍には賃金がろくに支払われていなかった。
フリードリヒからピルゼン死守の厳命が飛び、マンスフェルトはマクシミリアンに都市を明け渡すことなく防衛を続けたが、戦線の伸びきった連盟軍の後背を攪乱するために討って出ることもなかった。装備も資金も不足しており、支払いのない仕事をするほどマンスフェルトは無能な傭兵隊長ではなかったのである。
一〇月の末――
プラハの西四〇マイルにある小都市ロキツァンにて、フリードリヒ率いるボヘミア・プロテスタント護民軍の本隊は陣を張っていた。マンスフェルトの活動の停止によりピルゼンが戦略的に意味のない単なる置物となったことで、ボヘミアを守ることができるのは、調練不足の徴集兵と素行の悪い傭兵からなるこの一軍のみであった。
それにもかかわらず、迫りくる連盟軍を前にして、指揮権を巡ってフリードリヒの官房長アンハルトと護民軍司令トゥルン伯が仲違いをしていた。アンハルトから見ればトゥルンは農民に毛がはえただけの田舎貴族であり、トゥルンにいわせればアンハルトは軽薄な政治屋で軍事は素人のくせにフリードリヒの寵を嵩に着る無能者であった。
フリードリヒは仲裁に務めたが、いがみ合う両者を納得させることはできなかった。このまま会戦となれば指揮系統の乱れきったボヘミア軍は全滅し、フリードリヒ自身も捕らえられていたに違いない。だが、そこへ現れたのはマンスフェルトであった。
そして、厳かな口調でこう告げたのである。
「フリードリヒ陛下、小官の請け負いました契約は先日で満了しております。引き続き小官を陛下の帷幕に留めおいていただけましょうや?」
……と。無論、金を持っていないフリードリヒはマンスフェルトに暇を許すほかなく、アンハルトとトゥルンは、数で優り練度も高いカトリック連盟軍の相手を自分たちだけでしなければならないのだと悟ったのであった。
マンスフェルトとしては最後の奉公のつもりだったのかもしれない。
一一月五日――
プラハまで退いて防御を固めるほかなし、という方針でアンハルトとトゥルンは合意にいたり、ボヘミア軍は転進を開始した。




