偽りの勝利《Täuschung Sieg》
ファルツ選帝侯の所領は、首府ハイデルベルクを中心とするライン・ファルツと、ボヘミア王国に隣接する飛び地、上ファルツにわかれている。プロテスタント同盟の成員としてのファルツ侯の役割は、いわゆるスペイン街道からライン河へと通う、ハプスブルクの動脈に対するくさびであった。
ボヘミア王国は、モラヴィア、シュレージエン、ラウジッツ――これら、叛乱プロテスタント三州と上ファルツを結びつける要石であり、さらに皇帝のおひざ元であるオーストリアとも隣接している。
ハンガリーのガブリエル・ベートレンはウィーン目指して進攻を続け、皇帝側の守備兵を蹴散らして要衝プレスブルクを占拠した。
プロテスタント同盟の勝利は目前に迫っており、イングランド国王の娘の配偶者であり、ファルツ選帝侯にしてボヘミア王となったフリードリヒは、全キリスト教世界の命運をその手に握ったといっても決して過言ではなかった。
ネーデルラント連合諸州、デンマーク、スウェーデンの両北方王国、そしてヴェネチア共和国が、ボヘミア国王としてのフリードリヒを承認し、新ボヘミア王は民衆の歓呼の中プラハへと入城を果たした。
ボヘミアには軍を維持する資金が残されていないこと、即座に反ハプスブルクに雪崩を打つだろうと思われた諸侯がなかなか動こうとしないこと――この二点をのぞけばフリードリヒは栄光の絶頂にあった。
一六一九年一二月一七日に王妃エリーザベトが新たな王子を出産し、フリードリヒの前途の明るさは約束されたかに見えた。苦労と挫折を知らない若き王は表面上の華々しさに目を奪われ、事態はよき方向へ転がるだろうと無邪気に信じ、座して待つことを選んでしまったのである。
フリードリヒの腹心であり事実上の計画推進者であるアンハルトは、主人よりは状況を深刻に受け止めていた。
ローテンブルクからニュルンベルクに会場を移して開かれた、この年二度目のプロテスタント諸侯の会議は欠席者が多く、殊に目立ったのが、ルター派の重鎮であるザクセン侯ヨハン・ゲオルクが代理人すら派遣してこなかったということであった。
ボヘミア王としてのフリードリヒを、プロテスタント諸侯は一致して承認、支持するものであるという、王位簒奪を正当化するためのひとつの土台であった反カトリック主義は、早くも崩れ去ってしまった。ザクセン侯は、プロテスタントとしての合同よりも、ルター派として、カルヴァン派への敵意を優先したのである。
とはいえ、ザクセン侯の頑なさは、なにも信仰上の理由だけが原因ではなかった。ファルツの権力増大を讃える太鼓持ちとなるには、ザクセンの地位は高すぎたのである。ザクセンの立場から見れば、同じ神聖ローマ帝国の有力貴族として、ファルツは同盟者である以上に競争相手であった。フリードリヒがボヘミア王をも兼ねるとなれば、選帝侯会議において二票の権利を持つことになる。元々両者の所領は近かったが、フリードリヒがボヘミア王位を得たことで、いまやザクセンとファルツは国境を接する間柄となったのだ。
強大すぎる隣人は、常に歓迎されざる存在である。ヨハン・ゲオルクとしては、いますぐにでもフェルディナントの陣営に走っていきたいところを、丁重な無視ですませているのだから、ファルツとしてはこの態度を恩義にこそ思うべきで、裏切りと捉えるなど言語道断であろう、という気分でいたのだ。
帝国内でのフリードリヒの支持基盤は頼りないものであったが、不安定な足場を補うために縋ろうにも、国外からの手も弱々しいものであった。
フリードリヒの義父であるイギリス国王ジェームズは、ボヘミア問題には関知していないし賛同する気もないと、にべもない態度をとって、むしろイングランドに住むプロテスタント教徒たちを落胆させていた。
フランスはカトリック王国であるが、反ハプスブルクという立場からフリードリヒへの支持を買い取れるのではないかと、アンハルトは期待していた。しかしボヘミア王の特使として派遣されたフリードリヒの家臣団は、パリの宮廷では終止ファルツ選帝侯の使節としてのみ取り扱われ、なんらの物質的支援も、言質も得ることはできなかった。
サヴォワ大公にいたっては利敵行為に手を染める始末であった。すなわち、大公は先だってのローテンブルク会議での脅迫を実行に移したのだ。軍資金の支払いを停止し、ボヘミア守備軍の片肺、マンスフェルトの部隊を機能不全に追い込んだのである。さらにあろうことか、スペイン軍に対し、自領の通行許可を出していた。
大公は、帝冠を用意できなかったフリードリヒが、ボヘミアの王位を自らに譲るであろうと思い込んでいたのである。その性質上、ボヘミア王冠は当事者の判断のみでは譲渡できないものなのだが、サヴォワ大公はその点について、まったく考えがいたっていなかった。ありもしないことを勝手に期待し、虚しく裏切られた、大公の自業自得なのだが、愚か者が自棄を起こすと、ときおり恐ろしいことが起こるものだ。
手に入らないドイツやボヘミアなど、すべて灰になってしまえ――さすがにサヴォワ大公がそこまで考えたかは定かでないが、しかし結果としてはそうなるのである。
ヴェネチアは最初の祝賀金以降、ろくな援助を寄越さなかった。なぜならば商売の見込みが薄くなったからで、あまり彼らを責めることはできない。商人は転がり始めた機会のあとについてくるものであって、自分から大きな動きを起こすことは滅多にないのだ。プロテスタント諸侯の動きの鈍さは、機を見るに敏な彼らを躊躇させるには充分すぎた。
オーストリアを荒し回っていたガブリエル・ベートレンは、本拠地トランシルヴァニアで擾乱が起こり、とどめを刺しかけていたウィーンの前から撤退を余儀なくされていた。フェルディナントが首府失落の危機から奇跡的に救われること、これが二度目であった。
デンマーク王は自ら動きはせず、ヨハン・ゲオルクへボヘミア支援を勧告したが、ザクセン侯の態度を変えられるだけの熱意はなかった。同じく北方の雄であるスウェーデンは、フェルディナントの重要な友邦であるポーランドを攻撃するとほのめかして側面支援を表明したが、その実は、軍資金の一部援助を請うていた。
頼りにならないどころか足を引っ張るばかりの同盟諸勢力の中で、ファルツと一蓮托生であるネーデルラント連合だけはアンハルトの意に沿うであろうと期待されたが、現実にもたらされたのはわずかばかりの資金提供と小部隊一個であった。とはいえ、ローテンブルク会議から数ヶ月しかたっていないこの段階で、微々たるものとはいえ実際に支援行動をとれたということは、オラニエン公マウリッツの優秀さを証明するものであろう。
ネーデルラントの立場からすれば、ライン・ファルツからボヘミアへ首府を移し、結果的にライン河畔の守りを薄くしたフリードリヒこそが消極的な裏切り者であったのにもかかわらず、形だけとはいえ誠意を見せたのである。
一方のフェルディナントも、一六一九年の冬は待機の季節となっていた。だが、新帝にしてフリードリヒにボヘミアを奪われた廃王にとって、この冬は苦渋に耐えながら光を待つ試練のときであった。オーストリア全土はプロテスタントにおびやかされており、フェルディナントの本領であるシュタイヤーマルクも決して盤石ではなかった。プラハでは新王子誕生に湧き立っていたクリスマス・イヴに、フェルディナントは長男を喪うことになった。
悲しみに暮れながらも、フェルディナントは行動を中断しなかった。この点が、喜びにひたるばかりでつぎの手を打つことを怠ったフリードリヒとの決定的な差となってくる。
プロテスタント同盟にフリードリヒを支える意志が希薄であると察したフェルディナントは、すかさずルター派とカルヴァン派の仲を裂きにかかった。ルター派の領袖ヨハン・ゲオルクに対し、ザクセン選帝侯国内の宗教問題に皇帝は介入しないと保証を与え、フリードリヒから距離をとるに留めていたザクセン侯を完全に自陣営へと取り込んだ。元から険悪な両派を離間させるのは、さほど難しいこともでもなかった。ハンガリーのガブリエル・ベートレンとも秘密交渉の窓口を絶やさず、オーストリアへの再侵入をしないよう釘を刺した。
サヴォワが親ファルツ陣営から離脱し、スペインへ媚を売り始めたことを知ったフェルディナントは、すかさずハプスブルクの親類たちとファルツ攻略のための協議に移った。
スペイン王フェリーペ三世は、一六二一年にひかえた、オランダ連合との休戦明けに備えて兵力を温存しようと考えていた。財政的にこれ以上の軍隊を揃える余裕のないフェルディナントがスペインの兵力にたかるつもりであることは、凋落しつつある大国の暗愚な君主であるフェリーペの目にもあきらかだったのである
しかし、ハプスブルクの藩屏としてネーデルラント連邦共和国と実際に対峙している、スペイン領南ネーデルラントの統治者アルベルト大公とその官房の意見は違った。
帝国会議においてフリードリヒが正式な叛乱者であるとされれば、その所領であるライン・ファルツは事実上無主の土地となる。ライン・ファルツを確保すれば、北ネーデルラントを側面から攻撃する重要な拠点となりうるのだ。フリードリヒが神聖ローマ帝国の臣下であり続けるかぎり、たとえ同じハプスブルク家同士といえどスペインがドイツの土地を占領することは許されない。だがフリードリヒが帝国追放の処分を受けたなら、そのかぎりではないのだ。
フェルディナントは登極時に、帝国会議の承諾なしに皇帝は国土分割を行わない、と宣誓してはいたが、現実の前には空証文でしかなくなるであろう。
一六一九年の歳末、ファルツ攻撃が正式に決定された。その任にあたるのは、スペインの宿将アンブロージオ・スピノーラである。




