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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第一幕 ボヘミア・プロテスタント独立戦争(1618〜1621)
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始まりの終わり《Ende vom Anfang》


 一六二〇年一一月九日、午後――


 バイエルン大公マクシミリアンは、神聖ローマ皇帝フェルディナント二世の名においてプラハの降伏を受け入れた。フリードリヒ始めとするボヘミア・プロテスタント政府要人の大多数は逃げ出しており、代表としてマクシミリアンと折衝を行ったのは財務長官ロープコヴィッツであった。かつての同僚であったスラヴァータやマルティニッツほど急進的ではなかったロープコヴィッツは、プロテスタント革命後もボヘミアでの官職を続けていたのである。


 マクシミリアンの告解聴聞師は「なにごとかわからないが、大公殿下の言葉を聞いて、財務長官の目から涙が溢れる」ところを記録しているが、これは勝者の寛容に感激したというよりは、ボヘミアがカトリック政府へ復帰することを悦んでのものであろう。


 しかし現実は、カトリック教徒といえど解放を祝っている場合ではなかった。前日の攻防戦の勝敗がはっきりした時点でプラハ市はその城門を閉じており、その行動はカトリック軍の入城を防ぐためではなく、敗れたプロテスタント軍が逃げ込んでくることを拒否する姿勢のあらわれであったが、それでもプラハは決着がつくまで戦った――そう看做みなされるのが筋というものであった。


 カトリック軍も基本的には傭兵で構成されており、コサックやアイルランド人も混ざっていた。貧しさゆえに傭兵稼業に就いた彼らは、勝利に対する当然の報酬を要求し、指揮官はそれを許した。すなわち、一週間に渡る略奪の始まりであった。


 先々代の皇帝ルドルフが愛し、その治世のあいだ帝国の首府とされていたプラハは、ヨーロッパで有数の豊かな都市になっていた。文字を読むことができない者も珍しくない兵士たちは、このすばらしい獲物を前に解き放たれ、カトリックとプロテスタントの区別をつけるなどという面倒なことを考えたりはしなかった。


 フリードリヒが取り残した荷馬車八台分の財宝を始め、遺棄されたプロテスタントの資産は当然のことながら、逃げ出さなかった、あるいは逃げ出せなかった人々が現に手にしている財貨をも、兵士たちは無遠慮に奪い取っていった。


 カトリック勝利の報せはじわじわとヨーロッパ全土へ広がってゆき、一一月二三日には帝国首府ウィーンで祝砲が轟いた。皇帝フェルディナントは神への感謝を表するため無帽で聖堂に参り、出身地シュタイヤーマルクと、ローマの教会へ戦勝記念の冠を贈るよう命じた。


 カトリック軍の総司令官マクシミリアンは戦利品の一部としてフリードリヒの厩から最良の馬を取り、それにまたがってバイエルン公国の首府ミュンヘンへ凱旋した。最大の獲物であるボヘミア中央部への侵入を許されなかったザクセン選帝侯は、ボヘミアと友好条約を締結していたシュレージエンを攻めたが、バイエルン軍はバイエルン軍でフリードリヒを追って北上していった。


 勝者が歓喜に沸き美酒に酔っているころ、敗者のほうは再起や生き残りを懸けてそれぞれに落ち延びていた。


 フリードリヒはバイエルン軍とザクセン軍に追われ、シュレージエンのブレスラウへ、さらにブランデンブルクへと逃れた。先に逃がされていた侯妃エリーザベトは、そこで次男を出産しており、同盟者オラニエン公の後押しを願ってモーリッツと名づけていた。


 選帝侯会議ではフリードリヒの味方をしなかったブランデンブルク侯であったが、先代ヨハン・ジギスムントは一一月三日に息子ゲオルク・ヴィルヘルムへ位を譲ったばかりであった。ゲオルク・ヴィルヘルムの妃はフリードリヒの実妹であり、さすがに命からがら逃げてきた義兄を皇帝に引き渡すようなことはしなかった。


 ボヘミアばかりか本領であるファルツまで奪われた選帝侯夫妻は、ネーデルラントへ亡命することになる。官房長アンハルトもまた逃れ、主人とはべつの道を辿ってスウェーデンを亡命地に選んだ。もう少し先のことではあるが、自らが陰謀の主体であったにもかかわらず、罪をフリードリヒに着せて皇帝に恩赦を乞う歎願書をしたためるその態度は、厚顔無恥といわれてもやむをえないのではなかろうか。


 トゥルン伯は逃亡先をガブリエル・ベートレンのいるハンガリーに求めた。だがトゥルンはアンハルトと違い、一度敗れた程度でカトリックへの敵意を失いはしなかった。しばしの雌伏を経て、この男はプロテスタントの闘士として再びドイツの地を踏むことになる。


 逃げ損なったアンハルトとトゥルンの息子は、いずれも配下の兵とともにハプスブルクの軍門に下った。この時代、敗れた軍がそのまま勝者の隊列に加わることは珍しくもなんともなく、むしろ当然のことであった。


 敗北者たちは、逃げ延び、あるいは勝者にしたがうことを選択していったが、そんな中、ボヘミア・プロテスタント臨時政府の主席執政であったシュリック伯はどっちつかずでうろうろしていた。ロープコヴィッツとともにプラハでマクシミリアンを待ち受けるでもなく、トゥルンなどのようにドイツ外へ逃れるでもなかった。ろくに出番はなかったものの、シュリックも一部隊を率いて白山の戦いには参陣しており、さすがに無罪放免とはいかないと察したか、ボヘミアからは脱出していた。ところが、シュレージエンでそれ以上逃げるべきなのかと躊躇しているうちに、すっかりカトリック軍に包囲されてしまったのである。


 結局フリードリヒを頼る気になったのか、ブランデンブルク方面へ向かったが、その手前、フリードラントでザクセン兵に捕らえられてしまった。不幸な伯はまずドレスデンへ、それからフラドシンの地下牢へと送られることになる。


 ともかくも戦いの決着はつき、一六二〇年から二一年の冬のあいだに事後処理もすみ、それですべてはおしまいになる―そう思っていた者は多かった。少なくとも、ウルム条約でフリードリヒを見捨てたプロテスタント同盟ウニオンの諸侯はそのつもりであった。しかし、勝者にとっては、ボヘミアの再征服とフリードリヒの放逐は、ほんのきっかけにすぎなかった。


 フェルディナントはフリードリヒに向け降伏を勧告し、出頭を要求したが、もちろん敗れた王は「皇帝」に対して屈服することを拒否した。フリードリヒの論法では、そもそも彼は「皇帝」には叛いていない。フリードリヒは降伏を拒否した上で、ボヘミアの国家体制と国王勅書を保証し、無法な戦によってファルツとボヘミアが受けた損害が弁財されるのであれば、退位することを考慮してもよい、とつけ加えた。無論これは通るはずのない要求である。スペインがフェルディナントに手を貸したのは、ライン・ファルツを手に入れるためであったのだから。


 フリードリヒが降伏を拒否することは、フェルディナントにとっても予想の範囲内であっただろう。むしろ、フリードリヒがすんなり敗北を認め、ボヘミアの王位を返上すると同時にファルツ領の回復を求めてきたならば、フェルディナントはかなりの窮地に追い込まれるところであった。


 スペインはせっかく手に入れたライン・ファルツを手放すわけがなく、フェルディナントとマクシミリアンとのあいだには、バイエルン軍が占領した土地は戦費の支払い完了まで質物となる、とする約定が結ばれていた。その上、マクシミリアンは選帝侯位を要求しているのである。フリードリヒを帝国追放刑に処し、選帝侯位を剥ぎ取ってマクシミリアンへ与えなければならないフェルディナントとしては、フリードリヒに唯々諾々としたがってもらっては困るのだ。


 しかし、ボヘミア王としてのフリードリヒを見捨てることについてはあっさり同意した諸侯であったが、ファルツ選帝侯の特権を奪うとなると、まったく別問題だった。カトリック諸侯ですら、バイエルン大公以外はほとんど全員がファルツ擁護派なのである。唯一の例外であるケルン選帝侯はマクシミリアンの実弟であり、要するにバイエルン大公は身内以外に賛同者を持っていなかった。


 当然といえば当然のことで、選帝侯をすら胸先三寸で処断できるとなれば、もはや皇帝の独裁を阻むものは存在しなくなる。「ドイツの自由」という言葉に、現代世界のような民主主義的意味はないが、諸侯連合でなくなった神聖ローマ帝国はもはや「ドイツ国民の」神聖ローマ帝国ではなく、「ハプスブルクの」私物にすぎなくなる。諸侯の反対は、既得権にしがみつくという低い次元に留まっているわけではなかった。


 皇帝の私物となったドイツが向かう先は、強力な中央政府による統一ではなく、ライン・ファルツを手始めに外国勢力に切り売りされる分裂のみちであることを、諸侯は理性以外の部分で直感していたのだ。諸侯の危惧は正しかったが、しかし窮極的には、代表者ひとりによって売り渡されるか、周囲に比べて抵抗力の弱い部分が食いちぎられていくかの違いであって、神聖ローマ帝国が削られていく運命に変わるところはなかったのである。



 勝者と敗者がそれぞれの戦後処理をこなしているころ、勝ちからも負けからも同じ程度の距離を保っていた男が去就に迷っていた。


 傭兵隊長マンスフェルトである。


 ボヘミア・プロテスタント革命軍の一翼を担いながら、もっとも肝心なときに働かず、既に充分すぎるほどの不信を買っていたが、しかしマンスフェルトはフリードリヒとボヘミアを裏切ったわけではなかった。なによりもまずサヴォワ大公の資金供与停止が原因であり、サヴォワはスピノーラ率いるスペイン軍へ通行許可を出したことで完全な裏切り者となっていた。マンスフェルトのほうはフリードリヒの最後の命令は守っており、その後に契約が満了したため、表面上咎められる謂れはないのである。


 もっとも、マンスフェルトは条件次第で陣営を鞍替えする肚づもりであって、水面下でカトリック側に交渉を持ちかけていた。バイエルン軍の兵員と指揮官ティリーに不足を感じていなかったマクシミリアンのほうが買収する必要性を認めなかったために、身売り話はお流れになってはいたが。


 転身をし損ない、プロテスタント陣営の敗北で拠って立つ旗をも失ったマンスフェルトは、一六二〇年の冬を営業回りですごすことになった。いまさらの話なのだが、フリードリヒへ援助をしようという話が、イングランドとネーデルラント共和国から出たのである。


 白山戦の以前からイングランドとオランダの義勇兵たちはライン・ファルツの要所を堅めており、スピノーラの手からファルツ選帝侯国の首府ハイデルベルクを始めとする二、三の城塞を守っていたが、所詮は屁の突っ張りであって、国際プロテスタント同盟の本気の現われではなかった。ところがフリードリヒが敗れ、ボヘミアばかりか、ライン・ファルツの大半がスペインの手に落ち、オーバーファルツもいつ何時バイエルン軍によって征服されるかわからない、という状況になって、ようやく諸国の危機感が呼び醒されたのだ。


 ボヘミア・プロテスタント革命の敗北は、単なるドイツ国内における皇帝権力の勝利ではなく、汎ハプスブルク=カトリック主義確立への第一歩であったということに、遅まきながら気のつく者が出てき始めていた。


 目前に迫った休戦明けがいきなり不利な局面から再開されることになるネーデルラント連邦のみならず、ライン、エルベ、オーデルのヨーロッパ主要河川の源流域がカトリック色に染まることで、間接的に状況が悪化するということを、イングランドと、デンマーク、スウェーデンも悟った。そしてプロテスタント陣営ではないがフランスもまた、ネーデルラントが陥落するときはハプルブルクによるブルボン朝包囲網の完成するときであり、その局面がくればもはや逆転のしようがないということを認めるにいたるのであった。


 それでもなお、実際に尻に火がつくまでは動かないのが人間の性であって、ドイツのプロテスタントと己の運命が一蓮托生であるとの認識で行動するのは、当面のあいだネーデルラント連邦のみに留まることになる。


 ボヘミアとファルツを守るための戦いを展開するほうが、失われたボヘミアとファルツを取り戻すための戦いを起こすよりも遥かに楽で、金銭的にも安上がりにすんだのだが、すべては遅きに失したのであった。



 明けて一六二一年の前半までに、いくつかのできごとが生じてくる。具眼の人にとっては、もはやそれはつぎなる戦争の始まりであることが判然としていた。しかしながら、なおも大多数の人々は、事態は終熄に向かっており、今度の争いは自分たちとは関係ない、どこか遠くで起こるのだと、無邪気に信じ続けるのである。


 悲劇は未だ、その第二幕が開けようとしているところにすぎなかった。

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