平和、そして、それから――《Frieden und Dann》
一六一八年の五月に始まり、一六四八年の一〇月まで続いた戦争がついに終わった。もっとも、フランスはオーストリア・ハプスブルクと和平を結んだだけで、スペインとの戦争はまだ続くのであるが。それを措いても、神聖ローマ帝国全土が平和の喜びに沸いているかといえば、必ずしもそうではなかった。
あまりにも長く続きすぎた戦争は、少なからぬ人々にとって、日常生活そのものとなっていたのである。
軍の駐屯地では、物心ついてから戦争しか知らない若い兵士だけではなく、彼らを相手に生業をしてきた多くの従軍商人や娼婦たちが呆然と座り込んでいた。この先どうなるのか、どうやって生きていくのか、まるで見当がつかなかったのだ。
モラヴィアのオルシュミッツ、スウェーデン軍のキャンプ地でひとりの女が歎いている。
「わたしは、戦争の中で生まれた。家も持たず、土地もなく、友もいない。戦争は、わたしの富のすべてだった。いま、わたしはどこへ行ったらいいのだろう……」
もちろん、直接戦争に従事する兵士であった、男たちのほうの困惑はひときわ大きいものであった。スウェーデン軍とフランス軍にはおおよそ一〇万ずつ、帝国軍には二〇万もの将兵と従軍者がいたが、今後も兵隊家業の口があるのは、スペインとの戦争が続くフランス軍だけであった。そしてフランス軍は、戦闘より略奪が得意な、スレて素行の悪い兵士を受け入れなくても継戦できるだけの地盤を既に築いていた。帝国軍も平時の守備隊以外、ほとんどの兵士がお払い箱であり、スウェーデン軍の大半はドイツ各地出身の傭兵で、北欧へ帰る者はほんの一部だった。
一六四八年から翌四九年までは、解散のための資金がまだ集まらないため、事実上前年までと同様の冬営であった。戦争の最後の最後でスウェーデン軍総司令となったカール・グスターヴはリエージュ司教区へほとんど占領さながらに進駐し、人々は戦争がまだ終わっていなかったのかと勘違いしかけるほどだった。
各地に布告された軍隊解散のための賦課金は莫大であったが、人々はスイス人やユダヤ人から借り入れをして納付した。これで兵隊たちと金輪際別れられるのならばと、皆ためらわずに手切れ金を捻出したのである。マールブルク市などは、複数の勢力に代わる代わるに占領されての焼き払い免除金の支払いも重なり、戦争中に負った債務を二〇〇年後も返済し続けることになった。
金銭が支払われて解散となった部隊はバラバラにされ、多くの男たちと決して少なくない女たちが追い散らされたが、全体では巨額の解散金も、もちろんひとり頭となれば充分とはいえなかった。
当然ながら、はした金と引き換えに武器を手放すことを拒み、都市や農村を支配し続けようとする者は頻出した。ピッコローミニやウランゲルはそうした居直り軍隊を討伐したが、山野に散って野盗となる者もあとを絶たなかった。皮肉なことに、軍隊崩れの武装強盗団から町や商隊を守るため、一定の兵士の需要も生まれた。
それでもなおあまりにあまった兵士たちは、東のロシアやトルコ方面、西のオランダやスペイン方面、さらに海を越えてイギリスへ、あるいは南のイタリア半島方面へと流れていった。しかしイギリスの内戦は議会派の勝利で幕を閉じ、一六四九年に国王チャールズが処刑された。傭兵市場における需要の低下と供給過多は明らかで、雇い賃の低下は深刻だった。少なからぬ元兵士たちにとって、生活は戦争終結後のほうが苦しいものとなったのである。
一六五〇年七月一四日――
動員解除のため各種調整を行ってきた交渉団の、最後の会合が開かれた。主催はピッコローミニであり、ウランゲルら各軍の代表者も出席した。
宴のたけなわで、ピッコローミニは花火をしかけた紙細工の要塞を空へ向け打ち上げ、戦時の備えはもう必要なくなったことを象徴的に表現した。市中には穏やかな顔をしてオリーブの枝をくわえたライオン像が設置され、その口からは市民のためにワインが尽きることなく流れ続けた。
動員解除と解散金の問題が片づいたあとも、各勢力が政治上、領土上の要求が叶えられるまで要所に留め置いた軍隊は一六五四年まで居残っていた。同年五月にフェヒタからスウェーデン駐留部隊が退去し、ようやく神聖ローマ帝国全土が、束の間ながら完全な平和の裡に戻ったのである。
ドイツは一時的とはいえ平和になったが、フランスを覆う戦雲はその濃さを増していった――
東部戦線の片がつき、あとは弱ったスペインを倒せばヨーロッパにおけるフランスの覇権は確固たるものとなるはずであったが、三十年戦争の幕切れとほぼ時を同じくして勃発したのは内乱であった。
その「フロンドの乱」において、コンデ公は弟コンティ公の軽率な行動や、宰相マザランとの感情的な対立などが相まって、最終的には叛乱者として決起する羽目に陥ってしまった。フロンドの乱終結後にはスペインの客将として祖国に弓引く立場となり、かつての僚将テュレンヌと鎬を削ることになる。
弁明すれば叛乱にまではいたる必要のない誤解であったはずだが、コンデ公は状況に流されるまま剣を把ることを選んだ。どうも、テュレンヌと戦ってみたかったのではないかと思わせるような節もある。戦争終結後は叛乱の罪を不問とされフランスへ戻り、豪放磊落のコンデ公を裏切り者だと思う人はおらず、晩年まで人気を博した。
テュレンヌのほうはあくまで軍人として振る舞い、一六七五年にライン地方のザスバッハで重砲の直撃によって戦死するまで、置かれた立場にしたがって忠実に軍務を続けた。コンデ公は軍務を退き、一六八六年まで生きた。
コンデ公とテュレンヌの軍歴終盤、ふたりのライバルとして立ち塞がったのはモンテクッコーリであった。三十年戦争では将帥として駆け出しであったモンテクッコーリだが、フランス史上屈指の名将二本柱と渡り合えるまでに成長していく。
この長きに渡った戦争の全期間を通して生き残った者は数が少なく、中でも政治的に重要な地位にいたのは、バイエルンのマクシミリアンとザクセンのヨハン・ゲオルクくらいである。
マクシミリアンはドイツにおけるカトリック党の、ヨハン・ゲオルクはプロテスタント党の代表者と目されており、多分において自認もしていた。この両者が一致結束していれば、皇帝フェルディナント二世の野心と熱意を制動し、戦争の期間を短くすることができていたはずである。
しかし不幸なことに、ファルツ選帝侯にしてボヘミア冬王フリードリヒの存在が、マクシミリアンとヨハン・ゲオルクの判断を曇らせてしまった。マクシミリアンは選帝侯の位とファルツ領を得ようとしてフェルディナント二世の宗教的熱狂に手を貸し、ルター派であったヨハン・ゲオルクはカルヴァン派であるフリードリヒを擁護しようとしなかった。
戦争を終わらせるにあたり、ヨハン・ゲオルクは新旧両宗派の領域画定の基準年を一六二四年とすることでプロテスタント諸侯の一致を取り持って貢献できたが、マクシミリアンが寄与したのは、フランスへアルザスを差し出すという国体の分断であった。
現代二一世紀の日本にあって、アルザスはチーズとワインの名産地であり、フランスの一地方である、という認識以上のものを持っている人は多くはないであろう。しかしアルザスは歴史的にはドイツ文明圏であった時期のほうが長く、いまだに住民はドイツ系が多く、言葉もフランス語よりはドイツ語話者のほうが多い――フランス化政策が長く続いた関係でかなりフランス語を主に話す人も増えたが――のである。
マクシミリアンによるアルザス売国は遺恨が深く、三十年戦争後いくどにも渡り愛国主義を掲げたドイツ支配者はアルザス奪還を掲げてフランスへ侵攻した。そしてフランスの側でも、黎明期からの固有領土でないアルザスは軽視され、被害担当地域として捨て石にされることが一切ではなかった。
地方領主としてのマクシミリアンは利己的で有能だったが、ドイツ君侯の代表者としては資質に欠けていた、と断じられてもやむをえないところではなかろうか。
戦争終結を見届け、マクシミリアンは一六五一年に、ヨハン・ゲオルクはその三年後、五四年に世を去った。
統計資料の存在しない時代のことであり、三十年戦争の被害をはっきりとした数値で掲げることは不可能である。
戦争被害を強調する伝説では、一六一〇年代終盤に一六〇〇万であった神聖ローマ帝国の人口は、一六四八年には四〇〇万にまで落ち込んだ、と主張する。人口が四分の一になったというのはあきらかに誇張されていよう。
ある程度実際の記録に基づいている資料は、一七世紀初頭に二一〇〇万であった人口が、一六四八年には一三五〇万になっていた、と記述している。これは徴税録、あるいは兵員登録名簿にあたった数値に係数を乗じて求めたもので、焼け出された避難民が、課税や徴兵の対象になることを避けるため、あえて除籍したまま、または焼失した登記簿に再登録せず戦争中を過ごした、という可能性は大いにあるだろう。
それでも、最少に見積もったとして二〇〇万、おそらくは四〇〇万以上の人口減少があったのである。当時の比較的多い出生数を差し引いての純減であるから、すさまじい被害であったことに変わりはない。
経済的損失もまた、大きかったことは疑いの余地もないが、しかしやはり確定的なことはわからない。
耕地の荒廃、都市や城塞の破壊といった不動産の毀損は発生したぶんが額面通りの被害になるが、動産に関しては、略奪された地域からべつの地域へ運ばれて、そのまま経済サイクルの一部となっていただろうからだ。交戦地帯に隣接し、かつ直接戦闘に巻き込まれずにすんだ都市では戦争景気が白熱した。目端の利く者は大いに儲けることができたのである。
実数としては、ザクセン選帝侯国で一六三〇年から一六五〇年のあいだに鋳造されたターラー貨幣は額面にして二五〇万であり、これは一六世紀最後の二〇年間の半分ほどであった。ライプツィヒのビヤホールの売上は四分の一以下にまで落ち込み、ザクセンにおいては経済活動が確実に低迷していた。
一方、激戦地域から離れており、交通の便にも恵まれていたハンブルクは交易都市として勃興し、三十年戦争のあいだにドイツ一どころかヨーロッパで最も美しい都市のひとつにまでなっている。
慢性的な人口減少は消費者と労働者双方の不足を必然として伴い、物価は下落する反面、賃金は上昇していった。戦火に巻き込まれずにすみ、手に職のある人々にとっては、のちの産業革命以後よりよほど生活のしやすい時代がしばし流れることとなったが、その対価が数百万の犠牲者というのは、決して釣り合った取引きではなかっただろう。
そして混乱期が過ぎ、各地で権勢を取り戻した封建領主は、農民が自治権や免税権を持つ都市へ流入することを望まず、手工業者と化していた彼らから生産道具を奪い取って農地に縛りつけ直していくことになる。その政策は、安価な労働力で手強い競争相手となっていた元農民を嫌う手工業ギルド側の訴えあってのことでもあった。
結局、ドイツで芽生えつつあった工業・商業発展の流れは、封建主義の継続によって妨げられてしまうのである。
三十年戦争はドイツの文明を破壊し、二〇〇年間停滞させた――のちに民族主義者はそう誇張し、輝かしい覇権国家となるはずだったドイツは、フランスとスウェーデンの暴力、オーストリア・ハプスブルクの裏切りによって不具にされた、と憤ってみせた。
しかし近世を通じ、戦争はフランスもスペインもイタリアもイギリスもオランダもポーランドも痛めつけており、同時に技術的競争によって生まれた新たな発明が文明の発展に寄与していた。
ドイツが植民地帝国になれなかったのはオランダとスウェーデンによる北部海岸線封鎖のせいだ、という論議も世界大戦の以前には主張されたというが、実際に海外植民地のおかげで大戦に勝ったといえるのはイギリスのみであり、ドイツの海外進出が早期に起こっていたとしても、スペインやポルトガルのように後発国に奪い取られたり、あるいは現地独立運動によって世界大戦の時代となる前に喪失していた可能性もあっただろう。
グスターヴが、あるいはヴァレンシュタインが死ぬことなく最終的勝利者となっていたなら歴史がどうなっていたのか、それがわからないのと同様に、三十年戦争のなかった、あるいは早期終結した神聖ローマ帝国が、ドイツがどうなっていくのか、より栄光を博したか、あるいは実際の歴史より悲惨な途をたどることになるのか、知る術はないのである。
ついに終戦です。ここまでおつきあいいただき、本当にありがとうございました。
蛇足と参考資料がまだ残っております。明日予定のファイナル更新は一気にまとめていきます。




