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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第五幕 帝国解体戦争(1635〜1648)
59/63

朱色に記されし平和《Frieden wurde in Scharlachrot Buchstaben geschrieben》


 一六四八年五月――


 ドイツ南部を西から東へと向かうドナウ河には、無数の支流が南北から流れ込んでいく。南側で大きなものはレッヒ川であるが、多くの小河川がレッヒと並行して走っており、神聖ローマ帝国・バイエルン連合軍は要衝であるアウクスブルクの西側に、ドナウ支流を利用して複数の哨戒線を敷いていた。


 総司令はメランダー、帝国軍の補将はイタリア人のモンテクッコーリ、バイエルン軍の補将はジョスト・マクシミリアン・フォン・ブロンクホルスト・グローンスフェルトという伯爵であった。いずれも、ヴァレンシュタインが健在であれば将軍には取り立てなかったであろう、二線級の将校である。


 同月一三日――


 テュレンヌとウランゲル率いるフランス・スウェーデン同盟軍は、ウルムの東一五マイルにあるギュンツブルク近郊で北から南へドナウを渡り、支流ミンデル川沿いのブルクアウでメランダーの哨戒線をひとつ破った。


 敵の来襲を知ったメランダーは、部隊を集合させて決戦を挑むか、支流ごとの防衛線で敵を漸減させるか選択したいと考えた。ところが、グローンスフェルト伯爵は、地位を嵩に着たのか、自分に総司令の権限を寄越すように迫り、帝国・バイエルン双方の司令権を持つメランダーが拒否すると、麾下の軍勢をアウクスブルクに近いシュムター川まで後退させてしまった。


 兵力が半減してしまったメランダーは、フランス・スウェーデン同盟軍が迫ってくる中、アウクスブルクで体勢を整えようと全軍に東進を命じた。しかし、シュムター川から西に一本離れたツーザム川沿い、ツースマルスハウゼン近傍で、帝国軍はフランス・スウェーデン軍に追いつかれた。


 一七日早朝――


 フランス・スウェーデン同盟軍は総兵力二万五〇〇〇以上、対して帝国・バイエルン連合軍は総勢でこそ敵に劣らぬ数がいたが、グローンスフェルトの離脱で半減し、しかも移動中であるため隊伍が伸びていた。


 午前七時――


 メランダーはモンテクッコーリに二五〇〇ほどの兵を預けて殿軍を任せ、どうにかアウクスブルクへ逃げ込もうと交通整理に苦心した。しかし周辺は川と沼が散在する悪路が続いており、荷馬車の多い帝国軍の逃げ足は遅かった。数少ない足元のしっかりした平地に砲とマスケット隊を展開したモンテクッコーリはうまく敵を食い止められるかと思えたが、テュレンヌは大胆にも騎馬隊を分割して隘路を疾駆させ、敵殿軍を迂回して追撃を続行すると同時に、モンテクッコーリの部隊を包囲しようと企図する機動を行った。


 午前一一時前――


 メランダーは追撃をあきらめない敵を阻止し、モンテクッコーリを救援するために一〇〇〇に満たない兵を率いて自ら第二陣を張った。フランス・スウェーデン軍が東へ進むためには避けて通れない、川と沼に挟まれた狭小地を抑えて侵攻を止め、二門だけだが引っ張ってきた軽野砲でモンテクッコーリの背後を脅かすフランス兵へ弾丸をお見舞いする算段であった。


 正午ごろ――


 西から東へ移動しながらの戦いが停滞し、乱戦気味となってきたところで、メランダーに二発の銃弾が命中した。流れ弾であったのか、二発続けてとなると狙撃であろうか。いずれにせよメランダーは人事不省となり、騎兵大佐のひとりが倒れた総司令を救助し、アウクスブルクへと連れて行った。メランダーはアウクスブルクの城内で死亡が確認される。


 総司令の被弾によって帝国軍の士気は下がり、ツーザム川の防衛線は完全に決壊した。メランダーの犠牲は無駄にはならず、モンテクッコーリは沼に身を浸しながらも死地から脱出することができた。


 午後二時――


 シュムター川に退がっていたグローンスフェルトが退却してくる帝国軍を収容し、麾下のバイエルン軍を使って追撃してくるフランス・スウェーデン軍を食い止めた。グローンスフェルトがあらかじめ二本目の防衛線に布陣していたから悪路の中で帝国・バイエルン連合軍が全滅しないですんだと考えるか、最初から全軍でツーザム防衛線を構築していればそもそも負けなかったのか、どちらが正しかったのかを判断するのは難しい。

 結果として敵の阻止に成功したといっても、グローンスフェルトの独断専行が軍規に反していることは間違いなかった。


 夕刻――


 戦闘が展開された地域の北側の、大きな街道を通ってフランス・スウェーデン同盟軍の歩兵部隊がシュムター川までやってきた。率いてきたのはウランゲルである。日が落ちるまでシュムター川を挟んで銃火と砲撃が交わされ、夜間になってからグローンスフェルトは全軍をアウクスブルクへ退却させた。


 こうしてツースマルスハウゼンの戦いは終わり、アウクスブルクこそ陥落しなかったが、レッヒ川以西はフランス・スウェーデン同盟の手に落ちた。バイエルン選帝侯マクシミリアンは六月四日にグローンスフェルトを命令違反の容疑で逮捕し、インゴルシュタットの牢獄に放り込んだ。


 メランダーの戦死により、ただでさえ乏しい帝国・バイエルン連合軍の人的資源は完全に枯渇した。やむなくピッコローミニが南ネーデルラントから召還されたが、最後に残っていた一級将軍を引き抜かれた大公レオポルトは双肩にかかる重みに耐えかねることとなる。



 六月一四日――


 ケルンの北西二〇マイル、ヴェヴェリングホーフェンにおいて、帝国軍とヘッセン・カッセル地方伯軍が会戦におよんだ。帝国軍の指揮官は以前ハッツフェルトの部下であったランボーイだったが、兵力で二倍近い優位であったにもかかわらず敗走するという失態を演じてしまった。


 カトリックとプロテスタントのあいだの係争地のひとつであるユーリヒ・ベルクがヘッセン・カッセルによって占拠されることになり、皇帝フェルディナントにとってかなりの打撃となった。


 ツースマルスハウゼンでの勝利ののち、ウランゲルは自らはマクシミリアンへスウェーデンとバイエルンの個別和平を結ぶよう圧力をかける一方、ボヘミアへ向けスウェーデン軍を分派した。指揮するのは、継承ファルツ選帝侯カール・ルートヴィヒのためにかつて働いたことのあるケーニヒスマルクである。


 七月二五日――


 防衛できる戦力がもはや残っていないボヘミアを突っ切り、ケーニヒスマルク率いるスウェーデン軍はプラハの城門前に達した。


 翌二六日、ケーヒスマルクはモルダウ河の西側、宮殿とその周辺区画の占領に成功した。さらに東岸の旧市街を目指したが、モルダウ河に架かるカレル橋で市民と守備隊の連合軍に阻まれた。


 再カトリック化から一世代を経て、市民はハプスブルク家とカトリックへの忠誠心を育まれていたのである。かつてシュリック伯以下ボヘミア・プロテスタント政府の首脳陣一二名の首が晒され、ひそかに市民たちが涙したカレル橋で、今度はハプスブルクとカトリックを称える声をあげながら民衆がバリケードを築き、帝国軍守備兵と肩を組んでプロテスタント()()()を拒絶するのであった。



 八月二〇日――


 フランドル地方の中心部ランスの近傍で、南ネーデルラント軍とフランス軍が会戦に突入した。南ネーデルラント軍は大公レオポルトが指揮を執り騎兵と歩兵がほぼ同数の一万八〇〇〇に三八門の大砲、一六四六年に父が亡くなり家督を継ぎついにコンデ公となったアンギャン公ルイが指揮するフランス軍は、やや騎兵が多い一万五〇〇〇前後と一八門の大砲であった。


 大公レオポルトは、ロクロワの敗戦後に奪われていた要塞都市をいくらか奪還し、つぎなる獲物にランスを選んで進出していた。コンデ公はランスを救出し、あわよくば大公レオポルトの軍を撃破しようと考えていた。


 午前五時――


 丘陵の上にいる南ネーデルラント軍を平地に引きずり出すため、コンデ公は大砲を撃ち込んでから全軍を後退させた。大公レオポルトは敵に逃げるつもりはなく、陽動だと気づいたが、ロクロワの復讐戦を望む南ネーデルラント軍は総大将の制止を振り切って丘から駆け下りていった。その勢いは想像以上で、反転のタイミングを指示するため後列に残っていたコンデ公自身、あやうく捕虜になるところだったという。


 午前八時すぎ――


 全戦列で衝突が発生した。中央はスペイン(スパニッシュ)方陣テルシオを擁する南ネーデルラント軍が有利であった。両翼の騎兵隊は、南ネーデルラント側のワロン人騎兵が一番優秀で、つぎにフランス騎兵が強く、スペイン騎兵は装備と戦術の面で時代遅れになっていた。

 フランス軍の右翼を自ら率いたコンデ公は、強力なワロン騎兵隊を相手に苦戦したが、大砲の射程に敵を引き込んで撃破した。フランス軍左翼は数で劣っていたが、相手が戦闘力では下回るスペイン騎兵であったため、損害は大きかったものの敵を退けることができた。


 午前九時――


 フランス軍中央は質と量でともに上回る南ネーデルラント軍に歩兵隊の三割を撃破される大損害を被ったが、両翼で勝利を収めた味方騎兵隊の来着によって戦況は逆転した。ロクロワのときとは異なり、取り残された南ネーデルラント軍の中央部隊は投降を選んだ。


 昼前までに追撃戦も終わり、ランスの戦いはフランス軍の完勝で終わった。南ネーデルラント軍の戦死者は三〇〇〇ほど、負傷者は二〇〇〇、六〇〇〇弱が捕虜となった。フランス軍の戦死と重傷者は合わせて二〇〇〇強であった。


 フランス軍の指揮官がのちの大コンデ公でなければ、あるいは、ピッコローミニが残っていれば、勝てなかったにせよレオポルト大公はいましばらく戦線を支えることができただろう。運も、能力も、時流も、すべてが大公に味方しなかった。レオポルトより無能でありながら栄光を博したハプスブルク君公はいくらでもいるだけに、なぜ彼が一族のツケを支払うことになったのか、運命のいたずらに想いを馳せずにはいられない。


 そして、弟の敗北は、兄に父の宗教的熱狂のツケを支払う覚悟を固めさせることになった。プラハの危機、ランスでの敗北を報らされ、皇帝フェルディナントはついにヴェストファーレン条約への署名に同意した。


 早馬がミュンスターへと駆けったが、暗号を復調するための鍵が途中で紛失してしまっており、最初はなんと書かれているやらわからなかった。その問題がどうにか解決され、皇帝の御意が間違いなく和平締結にあると確認されると、今度は署名の順番について、いつもの下らない諍いが勃発した。


 そんなことをしているあいだに、プラハではまた人がひとり倒れ、都市は陥落へと近づいていたのである。次期スウェーデン王カール・グスターヴがケーニヒスマルクから攻略の指揮を引き継ぎ、幕切れ前に最後の獲物を得ようと攻撃が続いていたのだ。


 一〇月五日――


 ミュンスターではいまだ署名順を巡って各国の代表が序列争いをしているころ、ミュンヘンの北西ダッハウ近郊で帝国軍がスウェーデン軍を強襲した。帝国軍はピッコローミニが総指揮を執り、ヴェルトとモンテクッコーリが両翼を固めるという、最後のオールスター体勢であった。


 対するスウェーデン軍はウランゲルが指揮をしていたが、数は六〇〇ほどの少勢で、しかも猟犬を連れていた。どうやら大規模な狩りをしていたらしい。戦争はもう終わると思って遊興でやっていたのか、あるいは歩兵の主な仕事が畑に種を蒔き小麦を収穫することになっているほど食糧事情が逼迫していたので、真剣な補給作業だったのかは不明である。


 当然ながら戦闘らしい戦闘にもならず、一〇〇名ほどが捕虜にされ、ウランゲルはダッハウの町へ逃げ帰った。事実上、これが三十年戦争における神聖ローマ帝国側最後の勝利である。


 一〇月二四日土曜日――


 とうとう平和条約への署名式が開かれた。午前九時から始まった署名の列は午後になっても片づかず、あとのほうの順番になった弱小諸邦の代表者は、二時に出直すようにと伝えられる始末であった。しかし陽のあるうちにすべては終わり、七〇門のカノン砲が三連斉射を轟かせて、戦争の集結を高らかに告げた。


 もちろん、電信のない時代であり、早馬が各所に報せをもたらすまで、二四日以降も戦闘は散発的に続いていた。プラハでの攻防戦が終結し、スウェーデン軍が撤退したのは一一月二日になってからであった。


 平和の到来を知ったプラハ市民たちはマスケットといわず大砲といわず空へ向けて射ち放ち、教会の鐘を打ち鳴らし、賛美歌を唄って、自分たちが帝国の精神的首府を守り通したことを神へとアピールしたという。

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