女王クリスティーナ《Drottning Kristina》
一六五〇年一〇月二〇日――
ストックホルム大聖堂において、スウェーデン女王クリスティーナの戴冠式が挙行された。
しかしこれは、英雄王グスターヴ二世アードルフの直系はクリスティーナで途絶えると確定することも意味していた。クリスティーナは従兄であるカール・グスターヴと結婚して王統を継続することを拒否し、一方で彼にカール十世として次期王位を保証したのである。戴冠式では継承者の明示も行われるため、次期国王として内定はしていたカール・グスターヴは、これによって正式な継嗣となった。
生涯独身を貫くことになるクリスティーナは同性愛者であったのではないか、あるいは性同一障害だったのではないか、その推測は多くの研究者により言及されている。しかし同時に、クリスティーナが複数の男性とゴシップを振りまいて当時のスキャンダルとなっていたという事実もあり、特にのちにローマで出逢った枢機卿アゾリーノとは生涯に渡って関係を続けた。また、一九六五年に行われた発掘調査により、クリスティーナ本人の骨格から、ホルモン分泌に通常の女性の範囲から逸脱する点はないことが確認されている。最大限に見積もっても両性愛者というところでなかろうか。
戴冠式は戦争が終結してから行う――このことは議会と女王のあいだで完全に合意されていた。しかし、その先に関して、クリスティーナの考えは臣民の望みとは異なる方向へ向かっていた。彼女は早期の退位を意図していたのである。
議会としては、数人の私生児はいたが正式な結婚をしていないカール・グスターヴが王に相応しい配偶者を得て、複数の後継者が誕生するまでクリスティーナに玉座を守ってもらいたかったであろう。カールはスウェーデンに入ってからも議員の娘に私生児を産ませており、もしかするとクリスティーナは彼の浮気性を疑って結婚を肯んじえなかったのかもしれない。
「王たるものとなってしまった以上、この誇りのあまりの高さは、結婚という男性に対する従属を受け入れることができない」
――婚姻を回避するにあたって議会へ説明したこの声明は、裏読みすればカールへの不満と受け取れないこともなかろう。クリスティーナは幼少期の短くないあいだカールの母カタリナの元に預けられており、必然としてふたりのつき合いは浅からぬものであった。その関係は、一時的には愛情と呼べるものであったはずなのだが。
クリスティーナの家族関係といえば、母であるマリア・エレオノーラとは少なくとも表面上は完全な和解を果たしている。
一六五四年六月六日――
クリスティーナはウプサラで退位式に臨み、同日にカール・グスターヴがカール十世としてスウェーデン王に即位した。カール十世はこの年の一〇月にホルシュタイン・ゴットルプ公の娘ヘドヴィグと結婚し、カール十一世となる息子をもうけて議会をひと安心させることになる。
玉座を降りたクリスティーナは旅行へでかけ、まずデンマークに入り、ドイツとオランダを通って南ネーデルラントのアントワープへ入った。この旅行の真の目的はカトリックへ改宗することにあると最終的に明らかとなるが、道中のクリティーナは男装の出で立ちで、多くの名士、文化人、芸術家と交流をしながら漫遊しており、敬虔なカトリック婦人というより開放的なプロテスタントそのものであった。
一六五五年十二月二三日――
ローマ入りしていたクリスティーナは、新たな教皇であり、旧知の人物でもあるアレクサンドル七世の名において、正式なカトリックとなった。マリア・アレクサンドラという名を与えられたが、彼女自身は署名を残すさいにはクリスティーナ・アレクサンドラとしていた。
クリスティーナの改宗については、多くの議論がある。おおむね、純粋な宗教的意向があったという説と、王位にあるうちからデカルト始めとする多くの大陸思想家を宮廷に招いていたクリスティーナが、自由の身になってから文化の中心地ローマで活動するための方便であった、という説にわかれる。
在位しているときから、クリスティーナの心中にはカトリックに対する傾倒と同情があり、スウェーデンの外交政策に影響を与えていたとされる。しかしながら、クリスティーナはカトリックに改宗したあとにも、フランスに対し国内プロテスタント派であるユグノーへの弾圧をやめるよう働きかけるなどしており、開明啓蒙思想を持つ近代人としての寛容精神の発露であったのではないかとも見える。
……ここからは妄想である。
クリスティーナが、自らの王位は、父グスターヴの事業完遂までの仮の立場であったと規定していたとすれば、どうだろうか。
正当なるスウェーデン王を軽侮する帝国へ懲罰を与え、王権を承認させ、ドイツ内のプロテスタントの権利を守った――グスターヴの戦略目標は確かに達成されたのである。対価は高く、スウェーデンは払った犠牲に釣り合うだけの果実をつかみ取ることができなかった。それを主導したのはクリスティーナであり、本国での非難の声は決して小さくなかった。
だがそれすらも、クリスティーナはスウェーデンに保守できる範囲を冷徹に計算していたのかもしれない。新領土ポンメルンはすぐにドイツ側の奪回の対象となり、のちにブランデンブルクの大選帝侯フリードリヒ・ヴィルヘルムによってスウェーデンは破られてしまうが、それでもクリスティーナ存命のあいだは失落しなかった。より広大な領土を要求し、叶えられていれば、スウェーデンの最盛期はむしろ短くなっていただろう。
通常は結果論として考えられるその後の歴史だが、グスターヴの娘として、クリスティーナが先を見通していたのだとしたら……。
改宗の動機も、クリスティーナからすれば、祖国の、王朝の安定のためにあえて行った可能性もありえはしないだろうか。
グスターヴが直面した王位を巡る長き戦いを、父の事績を学ぶ過程でクリスティーナは知ったことだろう。そして父の死後に母マリア・エレオノーラの元で受けた幽閉体験と、そこで吹き込まれたであろう狂信的な洗脳教育……クリスティーナは染まることなく、グスターヴ譲りの知性を発揮させるようになった。
これらの自国の歴史への知識と自身の経験を踏まえ、もし、自分が生きているあいだに再びスウェーデンの王位を巡る争いが訪れたとき、絶対に担がれなくなる方法、看板としての己の価値を毀損させるための手段として、カトリックへの改宗を選択したのだとしたら。
……まあ、穿ちすぎであろう。
一六六〇年――
宿敵デンマークを併合するために新たな戦いを起こしていたカール十世は、激務が祟ったのか三七歳に満たずして早世する。クリスティーナは幼君カール十一世が即位したばかりのスウェーデンへ戻り、万が一の場合には再び自分が女王となると宣言したが、たちまちカトリック君主を戴くことに反対する声が噴き上がった。
仮定の話にすら即座に反発するスウェーデン国民の意気軒昂さに、彼女はひょっとすると、頼もしさを感じていたかもしれない。クリスティーナは王位への権利を完全に放棄し、ローマへ戻った。ただ、クリスティーナが案じた通り、のちに王統は再び断絶し、カールの妻の実家であるホルシュタイン・ゴットルプ系がスウェーデンの王冠を戴くことになる。
グスターヴの覇気を受け継いだのであろう、クリスティーナはその後もポーランド王位継承へ名乗りをあげるなど政治的な活動を続けた。やや話が遡るが、五七年には私信を勝手に開封した廉で家僕を処刑させるといった、父を彷彿とさせる苛烈な面も見せている。
歳を経るにつれ次第にクリスティーナは政治活動から身を退き、思想家や芸術家のパトロンとして名声を高めていき、「ローマの音楽生活の中心」と称されるまでになる。パトロン活動には多額の金銭が要り用になるため、クリスティーナはスウェーデン政府に対し元王への給付金を度々請求し、財政問題で悩むストックホルムの官吏たちに頭痛の種をひとつつけ加えた。
一六八九年四月一九日――
その早朝、クリスティーナはローマ市内の自宅で亡くなった。
彼女の望みはローマパンテオンでの簡易な葬儀だったが、結局豪壮な葬送の末、サンピエトロ大聖堂へ葬られた。サンピエトロ大聖堂で眠っている女性はクリスティーナを含めふたりだけだ。キリスト教以前の万神殿を永久の家と希望していた――このことは、やはりクリスティーナが魂の底からカトリックに傾倒したわけではなかったのではないか、と思わせられずにはいられない。
「わたしは自由に生まれ、自由に生き、そして、自由に死ぬ」
(Jag föddes fri, levde fri och ska dö frigjord.)
残されたエピグラムが、彼女の生きざまを十全に語っている。
スウェーデンの黄金期は一世紀で終焉を迎える。その後北方の覇権争奪はロシアとブランデンブルクより出でしプロイセンが主役となり、スウェーデンはいわば舞台袖へ追いやられることとなる。
ヨーロッパ全体の勢力図はいわゆる「ウェストファリア体制」――ウェストファリアは、ヴェストファーレンのラテン読みである――となり、覇権をうかがうブルボン家とそのほかの王朝間の対立がいましばらく続く。
つぎなるヨーロッパ世界の大変動は、かのナポレオンの登場によってもたらされるのであった。
そしてナポレオンは、「死んで棺に入れられたが埋葬だけされずにいた」神聖ローマ帝国へ、正式な引導を渡すことになる。
――了




