飢餓と疫病《Hunger und Pestilenz》
一六三三年春――
ドイツ各地でのスウェーデン・プロテスタント同盟軍と神聖ローマ帝国軍の戦線は、膠着状態に陥っていた。グスターヴ・アードルフという稀代の英主を喪ったスウェーデン側の動きが鈍るのは当然といえば当然であったが、好機であるはずにもかかわらず、帝国軍、端的には最高司令官ヴァレンシュタインはプラハに腰を据えたままでいた。
ヴァレンシュタインの無気力の原因は、第一に痛風であったが、もしかすると、パーキンソン症候群の様態を呈していた可能性もあろう。致命傷を受けるまで矍鑠と軍を指揮し続けたティリーよりヴァレンシュタインは二〇歳以上若く、単に痛風でここまで活力を奪われたのだとすれば、不摂生を指弾されても仕方のないことではないだろうか。
敬虔で禁欲的だったティリーと、皇帝以上の豪奢な暮らしを営んでいたヴァレンシュタインを比べるのは酷かもしれない。しかし、彼はなにか巨大な建設構想を抱いていた。秘密主義であり、また神秘主義者でもあったヴァレンシュタインは自分の計画に関する明確な書類を残していない。核心は、常に彼の頭の中だけにあった。窮極的に自らのみを頼りとするのであれば、その資本となる己の身体にはもっと責任を持つべきだったろう。
傲慢で強欲な享楽主義の俗物――ヴァレンシュタインは決してそのように単純な人間ではない……はずなのだが、摂生でどうにかなるようなレベルではない、もっと深刻な疾患を想定しないと、どうにもこれ以降の彼は擁護し難くなってしまうのである。
五月――
ライン方面との連絡を確保するためスウェーデン軍本隊から分派されており、そのためリュッツェンの戦いに参加できず、みすみす王を死なせてしまった自責と憤懣に突き動かされていたホルンは、春以降ベルンハルトとともにバイエルンを荒らし回っていた。
マクシミリアンはヴァレンシュタインに救援を求めたが、やってきたのは副官のホルクで、しかも軍は連れていなかった。ホルクは状況を視察し、上官へ報告書を送った。だが、ヴァレンシュタインがやったことは、「ハイルブロン同盟」軍を攻撃することではなく、彼らとの交渉であった。
捕虜交換によって、スウェーデンはトルステンソンを取り戻すことができた。負傷して捕らえられた上に薄暗く湿った牢獄に閉じ込められていたトルステンソンは自力で歩行できないほど衰弱していたが、とにかくも、王にして最強の将帥を欠いていたスウェーデンにとって、有力な将官の復帰であった。また、相変わらず講和にも寝返りにも応じなかったが、アルニムもヴァレンシュタインに対して武装中立の延長に合意した。
しかし「同盟」側はほんの一、二の城市の包囲を解いただけで、バイエルン領侵犯に対する補償や謝罪はなにもなかった。マクシミリアンとウィーン宮廷は、ヴァレンシュタインへの不信感を募らせるばかりだった。政府の不穏な気配を察していたヴァレンシュタインは、亡命ボヘミア叛徒のひとりであるキンスキーなる男を使者に立て、フランスのフーキエール侯と接触させている。
七月八日――
ヴェストファーレン地方ヘッシシュ・オルデンドルフにて、ブラウンシュヴァイク・リューネブルク大公ゲオルク率いる同盟軍が、駐留帝国軍に対して決定的な勝利を収めた。
ヨハン・ゲオルクはあてにならないと考えているスウェーデンにとって、ザクセン選帝侯国を通らずに北方へ向かうことのできる、ヴェーザー河方面の連絡線となるこの地方の確保は重要であった。
同じころ、ホルンがイタリア方面からの街道の出口にあたるブライザッハを閉鎖した。スペイン領南ネーデルラントの新総督に内定しているインファンテ・フェルディナントが、イタリアで兵を集めたと情報が入ってきており、彼のドイツ侵入を阻止するためである。
ヴァレンシュタインはこの状況でも、自らは出撃しようとしなかった。ホルクに命令を下し、今度は軍を与えたが、その行き先はバイエルンではなくザクセン選帝侯国だった。前年にグスターヴを引きずり出したように、ホルンを南ドイツから北へ誘き寄せようというのである。
だが、ホルンはスペイン街道閉鎖を解かなかった。ライプツィヒにベルンハルトがいたので、そちらに任せることにしたのである。
これは、同盟者を信用してのことではなく、むしろ逆の意味であった。そもそも春にバイエルンを荒らしていたホルンとベルンハルトがいまは別々でいるのは、もうバイエルンに略奪できる食料が残っていないからでもあるが、スウェーデン第一の将軍であるホルンと、フランスの横槍で「同盟」の主将となったベルンハルトの仲が悪いためであった。
グスターヴの後継者面をしているベルンハルトを、ホルンは心底嫌っていたのである。ベルンハルトはフランケン大公の位を要求し、ウクセンシェルナはやむなくスウェーデン女王クリスティーナの名でフランケン公に封じている。もちろん、ドイツ君侯として、神聖ローマ帝国の貴族たる正式な効力があるわけではなかった。
この月の末に、フランスのフーキエールから、ヴァレンシュタインへ返事が届いた。将軍がハプスブルクからブルボンへ乗り換えるのであれば、ボヘミアの王冠を保証する、と。
八月――
ホルク率いる帝国軍はザクセン領を劫掠しながら進んだが、夏の長雨が衛生状態を極端に悪化させていた。アルテ・フェステのときと同じように赤痢が、チフスが、そして、最悪の病魔ペストが蔓延するようになっていた。
兵士は道端や農村の納屋で倒れて死んでいき、ベルンハルトやアルニムを脅して和平条約に署名させる力を失った。無論、疫病は同盟軍の兵士も蝕んでいたが、アルニムやベルンハルトにとってザクセンは地元であった。遠征してきて定宿のないホルクが、もっとも脆弱だったのである。
九月――
ヴァレンシュタインは新鮮な食料を補給物資としてホルク軍へ送ったが、もはや手遅れであった。補給部隊を率いていったハッツフェルト大佐は将軍用の大型馬車の中でホルクを見つけ出したが、ほかの病人と一緒に詰め込まれた彼はもう廃人同様であった。
九月九日、ハインリッヒ・フォン・ホルクは危篤状態となった。ハッツフェルトは五〇〇ターラーを報酬として準備し、最期の告解を務めてくれるルター派牧師を探したが、見つけ出すことはできず、まるで敵対宗派に与した男を罰するかのように、ホルクは独りで死と向かい合うことを強いられた。
デンマークの高名な軍人の一族であるその遺体は故地へ送られ、クリスティアン四世の命で手厚く葬られたという。
ホルクの陣没は、ヴァレンシュタインにとってリュッツェンでのパッペンハイムに続き大きな痛手となった。
残っているめぼしい高級将校は、ピッコローミニがもっとも有力だが、アルドリンガーとコロレドのほかには、軍歴こそ長いが地味なガラス、義兄弟ゆえ信頼できるが有能なわけではないトルシュカ、古い友人であるイーロウ、といったところで、リューネブルク大公に敗れたベニングハウゼンやメロデのような将校に期待はできなかった。帝国軍の人材払拭は深刻な問題だったのである。ヴァレンシュタインは再び和平を呼びかけたが、敵も味方も聞く耳を持たなかった。
インファンテ・フェルディナントに協力することになったスペインのフェリア大公ゴメス・スワレスは出撃準備を整え、アルドリンガーへ迎えにくるよう手紙を寄越してきた。
ヴァレンシュタインは最高司令官復帰の条件のひとつであった、スペインは軍事政策に口出ししないという約束に反していると指摘したが、アルドリンガーのほうが上官を無視して、スペイン軍に合流すると返事をしていた。
一〇月三日――
スペイン軍が国境を越え、ブライザッハに到着した。ホルンのスウェーデン軍は、三ヶ月に渡った周辺駐留が食料難と疫病の蔓延を招いていたので、敵を迎え討つことなく転進し、ベルンハルトと合流した。だが、やはり馬が合わず、この両者はすぐにまた別れることになる。
アルドリンガーの命令無視は、ヴァレンシュタインに衝撃を与えた。己の威信が低下していると思い知ったヴァレンシュタインは、力を示す必要があると決意した。
ただ、やはり自ら出撃はせず、ガラスに三万の兵を与えてシュレージエンへと向かわせた。シュレージエンは前年にアルニムによって帝国側から奪われていたが、アルニム自身は戦争から手を引いていたため、スウェーデン軍が代わりに駐留していた。司令官は、客分でありボヘミアの叛乱者であるトゥルン伯であった。
スウェーデン軍は総数で一万二〇〇〇ほどであり、各地の守備隊をのぞけば八〇〇〇ほどしか自由に動かせる兵力はなかった。
ガラスは圧倒的に有利であったが、一〇月一一日に、シュタイナウ・アン・デア・オーデル近郊にてトゥルン率いるスウェーデン軍を包囲し、あっさりと降伏させた。
トゥルン伯は解放の条件として、スウェーデン軍が保持しているシュレージエンの城市をすべて明け渡すと提案し、ヴァレンシュタインはこれを認めて彼を放免した。
我が身が可愛いだけの司令官が明け渡しを命じようが、無視して防衛を続ける守備隊がいてもおかしくなさそうなところなのだが、話はあっさりを進んだようである。ボヘミアの名士であったトゥルン伯の名声はいまだに侮り難かったらしい。
色眼鏡なく見れば、ヴァレンシュタインは戦闘で死者を出すこともなく、シュレージエンを取り返したわけで、これは大きな功績だったはずだ。だが、ウィーン政府は激怒した。
死刑執行が定められているボヘミアの叛乱者トゥルンを釈放したとは、越権行為も甚だしい、軍司令官に恩赦の権限など存在しない、というのが政治屋たちの論法だった。ヴァレンシュタインは、あくまで軍事的措置であり、自らの管掌する範囲の問題だ、と主張したが、帝国政府の不満と不信はますます大きくなるばかりだった。
公平にいえば、確かにヴァレンシュタインは正論を唱えている。スペインに口出しをする権利がないことも、ヴァレンシュタインは軍事的な施策において専権があることも、皇帝は認めていた。しかし、正論ならどんな主張でも通るわけではない。ましてヴァレンシュタインがフェルディナントと結んだのは、秘密契約なのである。細目が伏せられているということは、後ろ暗さの証明だろうと混ぜっ返す輩は、必然として現れるに決まっていた。
シュレージエンが帝国の手に戻ろうとしているあいだに、南西方面で危機が迫っていた。一度合流したベルンハルトとホルンは別離していたが、ホルンがフェリア大公とアルドリンガーの軍とにらみ合っているうちに、ベルンハルトはレーゲンスブルクを包囲したのである。
救援を求められたヴァレンシュタインは、最初こそ「アルドリンガーが貴下らを助けるのではないかな?」と不貞腐れと皮肉の入り混じった口調で応じたが、レーゲンスブルクの重要性は熟知していたため、とうとう重い腰を上げて自ら出撃することにした。……ところが。
一一月一四日――
レーゲンスブルクはベルンハルト軍に降伏し、城門を開いた。老将ティリーが最期の言葉に遺した、ドナウ流域最大の要衝が、「同盟」軍の手に落ちたのである。
帝国軍最高司令官としてのヴァレンシュタインの名声、威信、存在価値は、決定的に失墜した。
皇帝以外の全宮廷は奸臣討つべしの機運で固まり、フェルディナント二世自身も、ヴァレンシュタインを敵に回すことはできない、という禁忌感が薄れつつあった。
一二月一日――
南ネーデルラントのイサベラ大公妃が死去した。後継者は枢機卿インファンテ・フェルディナントに定まっており、そこに波乱の余地はなかった。
ひとつ今後に関係することとして、イサベラは死の間際にオルレアンのガストンとロレーヌのシャルルを薫陶し、彼らはリシュリューへの恐怖を克服し、再び反ブルボン、親ハプスブルクとして立ち上がることとなる。
一六三三年の冬は、バイエルンの農民にとって最悪の季節となっていた。もっとも、神聖ローマ帝国のプロテスタント地域が味わってきた悪夢が、時間差で訪れたにすぎないのではあるが、それでも、個別に責任はない無辜の民には、黙って死を待つより立ち上がる権利くらいはあるだろう。
三〇〇〇人の農民が武装蜂起し、街道を閉鎖した。彼らは反軍隊を掲げ、手始めに農村に宿営していたアルドリンガーの兵士たちが血祭りにあげられた。
レーゲンスブルクにいたベルンハルトは彼らへ援軍の申し出をしたが、答えは拒絶であった。農民たちは、皇帝に逆らいたいわけでも、バイエルン大公に逆らいたいわけでもなく、ただ、軍隊の宿営と、軍税という名の略奪に嫌気が差したのである。
マクシミリアンは農民たちの叫びを受け、被害がひどかった地域を洗い出して、アルドリンガーへそこからは立ち退くよう要請をした。いちおう叛乱は収まったようだが、ベルンハルトもホルンもバイエルンを荒らしており、根本的な解決にならないことは明白であった。
ヴァレンシュタインはこの冬もボヘミアに麾下の軍を宿営させた。プラハとウィーンの政府は軍に移動を求めたが、ほかに宿営地はないとヴァレンシュタインはにべもなく拒絶した。これは、皇帝フェルディナントに決意をさせるに充分だった。
ヴァレンシュタインは裏切りの計画を持っている、仮に彼にその意図がないのだとしたら、もはや国土を食い潰すばかりの役立たずであり、吠えるだけで働かない老猟犬は始末されるべきである。
まして、グスターヴという名のおそるべき狡兎は、もはや存在していないのだから……。
一六三三年最後の日、皇帝フェルディナント二世は顧問会議を開き、ヴァレンシュタインの処分を決定した。




