英雄王の死《Tod des Heldenkönigs》
人間の生命に価値の差はない――この観点に立つのなら、スウェーデン王グスターヴの死も、この戦争で数えることもできないほど喪われた、百何十万か、二百何万人目かにすぎない。
だが、現実にグスターヴの死は、その報を聴いたすべての人々に特別なものとして受け止められた。皇帝フェルディナントですら、強大で危険な敵の死に安堵するとともに、偉大なる王が喪われたことに哀悼の涙を禁じえなかったという。
スウェーデン軍の総指揮権を受け継いだベルンハルトは、厳重に情報を管理し、リュッツェン会戦に参加した将官にすら、王の死が公式に伝達されたのは翌一七日になってから――もっとも将兵は全員察していたが――だった。
宰相ウクセンシェルナは二一日に確報を受け取り、どんな状況でも決まった時間眠ることができるという、その激務をこなすために天が彼に与えた才能が、生涯初めて機能を止め、ひと晩中憂いに囚われてすごした。王妃マリア・エレオノーラはスウェーデンへの帰国途上で訃報を知らされ、悲歎の嵐の中に沈んだ。
グスターヴは身につけていた高価な装身具を略奪され、粗衣だけの半裸で遺棄されていた。その遺体には、左腕、背中、脇腹、こめかみに銃創があり、槍か剣による刺し傷もいくらか認められた。
致命傷となったのは右こめかみへの騎兵用短銃による射撃で、これはおそらく至近距離、ほとんど押しつけられて放たれたものであったが、問題は背中の、グスターヴが鞍から落ちる直接の原因となった銃創にあった。
王は後ろから撃たれた、裏切り者がいた、これは謀殺ではないのか――憶測はグスターヴの死後、即座にささやかれるようになった。暗殺の黒幕はフランスのリシュリューだという、陰謀論めいた荒唐無稽な噂もあった。
スウェーデン人たちが真っ先に疑ったのは、グスターヴの護衛のひとりであり、危機を報せる連絡役として送り出されたというフランツ・アルブレヒト・フォン・ザクセン・ローエンブルクであった。アルブレヒトは以前帝国軍に仕えており、ヴァレンシュタインとも個人的に顔なじみであったがゆえに、あやしまれたのである。
だが、これは転向者でありながら王に取り立てられた、如才ない彼に対するスウェーデン人たちのやっかみが混じっていよう。アルブレヒトは、本当は救援を呼んでくるよういわれたわけではなく、怖気づいて逃げていたのかもしれないが、王を後ろから撃ったりはしていないようだ。一命の危険を感じたアルブレヒトは、スウェーデンの幕舎を逃れ、アルニムのザクセン軍に籍を変えている。
グスターヴの背を撃ったのは、帝国騎馬隊の士官であった、モーリッツ・フォン・ファルケンベルクだというのが有力らしい。その名が示す通り、スウェーデンのためにマクデブルクで玉砕したディートリヒ・フォン・ファルケンベルクの親戚であり、ふたりのファルケンベルクが、ひとりはスウェーデン王のために生命を捧げ、もうひとりはその生命を奪う一弾を放ったというのは、運命の皮肉を感じさせる。
もっとも、そういう意味でこの話もできすぎである。モーリッツ・ファルケンベルクは直後にグスターヴの護衛ヴォルフ・ジグムント・フォン・リューカウに殺されており、証言はなにも残していない。リューカウはその後ベルンハルトの部下となっている。もしリューカウが嘘をついているとしたら、グスターヴ謀殺の黒幕はベルンハルトということになってしまい、話が複雑にこじれすぎる。
スウェーデン王を殺した男として報酬を受け取ったという、ヨハン・シュネーベルクなる名が残っているが、彼は火事場泥棒でグスターヴの服飾品を盗んできただけの疑いが濃い。
奪われたグスターヴの服飾品のうち、主だったものは二〇世紀になってからオーストリアよりスウェーデンへ返還された。
一六三二年一一月二九日――
もうひとりのプロテスタント王がその生涯を閉じた。領地と選帝侯位はバイエルンのマクシミリアンに奪われ、ボヘミアの王冠を自らが関与しないうちに受け取らされ、すぐに皇帝フェルディナントに召し上げられた、亡命王フリードリヒである。
グスターヴの政治的な動機によって保護され、また、政治的な人質でもあった彼は、かつて自分の領地であったライン流域を視察している途中で疫病に――おそらくペスト――に冒され、スウェーデンの占領地になっていたマインツで、スウェーデン王戦死の報せを受けてから間もなく息を引き取った。
戦争の初期から関与している数少ない生き残りであったが、まだ三六歳の若さでの死である。その棺は移送の途中で行方不明となり、いまだ所在がわかっていない。
フリードリヒこそが、ドイツのプロテスタントの解放者となり、英雄王となるにふさわしい最適の資質を具えている男であった。イギリス王女を妻に持ち、オランダのオラニエン家とも、ドイツ内の各有力家とも、グスターヴ以上に縁が深かったフリードリヒは、フェルディナントと同等の対立候補として、神聖ローマ帝国の主権を争うことができる可能性を秘めていた。
もし一六一九年の時点で、フリードリヒが皇帝選挙の無効を唱え、自らにボヘミア王とファルツ選帝侯として二票の権利があることを強調してプロテスタント勢力の結集を訴えていたなら、時代の流れは変わっていたのかもしれないのである。
だが、フリードリヒには激越な覇気がなく、机上の陰謀家アンハルトにそそのかされただけだった。そして、覇気ならば充分なグスターヴがやってきたときには、既に一〇年以上の歳月が経過しており、フェルディナントの皇帝としての権威は揺るぎないものとなっていた。加えて、グスターヴはドイツ諸侯の中に、ブランデンブルク選帝侯しか目立った縁がなく――フリードリヒとも姻戚ではあるが――、バイエルンとすら親類であったフリードリヒならば望みえた門閥の結成を図る土台がなかった。
フリードリヒにグスターヴ並の覇気と軍事的才能があったなら、東ヨーロッパのハプスブルクは、オーストリアのみを領有する地方勢力に成り下がっていただろう。年齢としてこのふたりは二歳離れておらず、二〇歳のときのグスターヴは既にスウェーデンの統治者として働いていた。
もちろん、フリードリヒに早熟の才能がなかったことを責めるのは理不尽な話であり、官房長アンハルトに、ウクセンシェルナやリシュリュー並の智謀を要求するほうがまだ現実的であろうが。しかしアンハルトはビジョンこそ正しい方向性で描いていたものの、野心過多で、実行力がなかった。
いずれにせよ、英雄王になるためにドイツ征服に乗り出し死によって実際に英雄王とされた男と、真の英雄王の資格を持ちながらその自覚を持たないまま運命に翻弄されて死んだ男、ふたりはともに歴史の舞台から退場した。
まさか、戦争がこの先、これまでの倍の期間続くとは思ってもいなかったろう。
戦闘に敗れはしたものの、もっとも危険な敵将を討ち取ったヴァレンシュタインだったが、リュッツェンののちに彼が採った行動は、ボヘミアへと帰還することだった。
ザクセン選帝侯国を劫掠することでヨハン・ゲオルクを屈服させるという当初の計画を、ヴァレンシュタインは棚上げしていた。グスターヴがいなくなったスウェーデン軍は、もはや大した敵ではないと判断したのである。
ヨハン・ゲオルクへ、圧力ではなく融和姿勢を見せることで和平に含みも持たせつつ、ヴァレンシュタインはプラハで一六三二年から三三年の冬を過ごした。
だが、ヴァレンシュタインのこの行動は関係者の感銘を一切呼ばなかった。ヨハン・ゲオルクは、古臭い偏見に凝り固まったまま、成り上がり者の軍人風情と交渉する気はなく、和睦の相手は皇帝フェルディナントと想定していた。そして、ボヘミアは事実上ヴァレンシュタインの庭と化してはいたが、名目上は皇帝の息子フェルディナントが王であり、いまだハプスブルクの所領であった。
最強の敵グスターヴに対処するための緊急避難として、ヴァレンシュタインのボヘミア使用はやむをえないものと考えられていたが、危機が去ったにもかかわらず当然のようにボヘミアを占拠し続ける将軍の態度は、ウィーンの宮廷に疑念を募らせ始めていた。
一六三二年の冬、スペイン領南ネーデルラントの首府ブリュッセルでは、オランダ連合との講和のための会議が開かれていた。大公妃イサベラは平和を望んでいた。また、オランダのオラニエン公フレデリック・ヘンドリックも、矛を収める頃合いだと考え始めていた。
オランダがフランスと結んだ同盟によれば、ブリュッセルは陥落させられ、南ネーデルラントはオランダとフランスによって分割されることになっていた。だが、明敏なフレデリック・ヘンドリックは、グスターヴ同様に、フランスと直に国境を接することの危険を察するようになっていた。
ドイツが二分されればスウェーデンとフランスによる最終戦争が始まるように、南ネーデルラントの消滅はオランダとフランスによる覇権闘争の開幕を意味する。有利な状況で、緩衝地帯としての南ネーデルラントを残す講和が、オランダにとって賢明な落としどころなのだ。
しかし、和平を阻止しようとする勢力は多く、その影響力は強かった。スウェーデンからすれば、グスターヴ亡きいまオランダの同盟離脱は避けたいものであり、フランスからすれば、対ハプスブルク戦略はまだ道半ばで、敵にここで立ち止まる暇を与えて体力を回復してもらうわけにはいかなかった。そしてスペインは、これまで費やした人的資源と莫大な金銭を損切りできるものではなかった。座して待てば確実に崩壊するのだ。
夫アルベルト亡きあとずっと南ネーデルラントの舵取りをしてきた大公妃イサベラは、自らに残された時間が少ないことを悟っており、可能なかぎり有能な人物にあとを託さなければならないと頭を悩ませていた。スペインには使える人材がほとんどいなかったのだ。女だてらに名君であるイサベラから見れば、端的にいって、彼らは馬鹿者の群れである。
イサベラはおそらく消去法で、フェリーペ四世と、次期神聖ローマ皇帝フェルディナント三世妃インファンタ・マリアの弟である、インファンテ・フェルディナントを後継総督として指名した。父フェリーペ三世の意向によってカトリック教会に入り、トレドの大司教として枢機卿の地位を持っていたインファンテ・フェルディナントだったが、フランスのリシュリュー同様、天界の信仰生活より俗界の政治を好んでいた。
ほかの馬鹿殿にやらせるよりはマシだろう、という程度の理由で選ばれたインファンテだったが、彼自身はまだ二〇歳の若さであることもあり、野心家で、好戦的だった。
枢機卿インファンテの次期総督内定を受け、南ネーデルラント側の和平の機運はしぼんでしまった。イサベラ自身はあきらめなかったが、フェリーペ四世と宰相オリヴァーレスはもはや交渉に注意を払うことはなくなっていた。
連合諸州側では、フランスのリシュリューが送り込んできた外交官エルキュール・ド・シャルナセが好戦的空気の醸成に成功し、最終的にはオラニエン公自身も説得されて平和への道は断たれた。ただし、フレデリック・ヘンドリックは、南ネーデルラントを武力によって完全に平定するという最終計画を、無言のうちに放棄していた。
ヨーロッパの西で平和の芽を摘み取ったリシュリューは、東に向けてもフーキエール侯爵マナセ・ド・パを送り出し、フランスの国益に沿うように会合へくちばしを突っ込ませた。オランダと違い、ドイツにはウクセンシェルナがいたため、和平が結ばれる可能性は高くなかったが、グスターヴに軍資金を搾り取られ、にもかかわらずその行動をまったく制御できなかったリシュリューは、今度こそスウェーデンの首に鈴をつけようと決意していた。
フーキエールはフランス外交得意の多段舌で、関係者を別個に籠絡して回った。
ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムに対しては、スウェーデンがポンメルンを要求しているが、あれはブランデンブルクの取りぶんだとフランスは理解している、とささやいた。
ザクセン選帝侯ヨハン・ゲオルクに対しては、講和の準備をしていることは知っているが、ベアヴァルデ条約によっても、ザクセンとスウェーデンが個別に結んだ条約によっても、禁止されており、この件についてフランスはスウェーデンの肩を持つ、と釘を刺した。
ウクセンシェルナに対しては、グスターヴの死によって急遽即位した幼い女王クリスティーナと、ルイ一三世の息子を結婚させる準備があると吹き込んだ。もっとも、フランス国王夫妻は不仲で知られており、ルイ一四世となる王子が誕生するのは一六三八年のことで、ウクセンシェルナはこの空手形をまともに受け取りはしなかっただろう。
一六三三年三月一八日――
ウクセンシェルナは、ハイルブロンに同盟者を招いて会議を開催した。
ヨハン・ゲオルクは代表者を出席させず、サボタージュした。また、デンマーク王クリスティアンが和平の仲介を申し出ており、ウクセンシェルナはプロテスタント諸侯がウィーン政府と和平を結びに流れないよう気を使わねばならなかった。各勢力の代表者が上座下座で争わないよう、ウクセンシェルナは立ったままで話し合いを続けさせたという。
五週間に渡った会議は「ハイルブロン同盟」の結成という一定の成果を見たが、リシュリューの外交はスウェーデンを確実に鎖で縛ることになった。
第一に、ウクセンシェルナが準備していた人事案にフーキエールが反対し、同盟軍の総司令にはスウェーデン軍のホルンではなく、ザクセン・ヴァイマールのベルンハルトが選出された。
第二に、ベアヴァルデ条約もハイルブロン同盟締結によって更新されたが、フランスが提供する軍事費は、スウェーデンに対してではなく「同盟」に支払われることになった。
グスターヴが健在のころのベルンハルトは従順であったが、その忠誠心は王個人に向けられていた。いまとなってはベルンハルトは自分こそがプロテスタント軍の主将だと自負しており、スウェーデンは今後、フランスの資金を間接的にしか得られなくなり、日増しに盟主面を強めるベルンハルトの顔色をうかがわなければならなくなった。
ひとつだけウクセンシェルナが譲らなかったのは、バイエルンのマクシミリアンに関する問題であった。フーキエールもこれまでのフランス外交官と同じく、バイエルンはフランスの友人であり、マクシミリアンの中立は保証されなければならないと論じたが、ウクセンシェルナはグスターヴにおさおさ劣らぬ烈気で突っぱねた。すべてはマクシミリアン次第であり、彼が敵対行動に出ないのであれば、こちらから攻撃することはこれまでなかったし、これからもないだろうとだけ応じ、無条件中立を拒否したのである。
冬期休戦は明けており、ハイルブロンでプロテスタントたちが会議をしているあいだにも軍は動いていた。現に、この会議にしても、最初はウルムで開かれる予定であったが、帝国軍の将アルドリンガーがバイエルンからドナウ上流側の様子を見に出てきたため、西のハイルブロンに変更されていたのである。
北ドイツのヴェストファーレン地方では、デンマーク王クリスティアン四世の敗退以降帝国軍が駐留していたが、そもそもはプロテスタントの多い土地でもあり、グスターヴの介入によって戦闘が再燃していた。
ブライテンフェルト戦で敗れたのちに、ティリーと別れたパッペンハイムが任地としていたのもこの地方であった。勇猛かつ兵からの人気が高かったパッペンハイムがリュッツェンで戦死したことにより、帝国軍は勢いを失っていた。ブラウンシュヴァイク・リューネブルク大公ゲオルクが中心となって、ヘッセン・カッセル地方伯の軍と、スウェーデンの援軍を合わせ、残りの帝国軍を掃討する作戦が行われていた。
自らはボヘミアに引っ込み、春になっても出撃しなかったヴァレンシュタインだが、このまま座視していれば各地の帝国軍が個別に撃破されてしまうことは明白だった。
ヴァレンシュタインが目をつけたのは、手駒として動かす味方の軍ではなく、ハイルブロン会議をサボタージュすることで、逆にプロテスタント諸侯から無視されていたヨハン・ゲオルクと、形の上ではいまだにザクセン軍の主将であるアルニムであった。
ヨハン・ゲオルクに対しては、剣による脅迫から撤兵という中立に態度を和らげていたので、ここで一段と軟化するのは足元を見られるであろうと考え、ヴァレンシュタインはアルニムを重点的に籠絡した。六年前にヴォルガストでデンマーク王を追い出したときのように、再び轡を並べて戦おうではないか、グスターヴ亡きスウェーデン軍は、もはや敵ではない、と。
アルニムはヴァレンシュタインの誘いは実行可能だと計算した。だが、その上で断った。彼はもう戦いに倦んでおり、平和のために働きたかった。そのため、ヴァレンシュタインに対しても、中立を守ることだけは秘密裏に承諾している。
つまり、ヴァレンシュタインは口上を誤ったのだった。和平を結びたいので協力しないかと持ちかけていれば、もしかしたらアルニムもうなずいたかもしれない。
ただ、アルニムはヴァレンシュタインが信用に値しない男だということを、単に事実として知っていた可能性もある。
二月二四日に、ヴァレンシュタインは一三名の将校と五人の兵卒をプラハで処刑していたのだ。罪状は敵前逃亡や命令不服従、敵への内通であった。リュッツェンでの敗戦の憂さを晴らし、責任を転嫁する破廉恥な振舞いといえよう。
英雄王を戦死させた男は、自らが英雄、救世主たりうる資質を失っていた。




