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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第二幕 ファルツ接収戦争(1622〜1624)
12/63

不幸な辺境伯《Unglück Markgruf》


 ハイデルベルク防衛、そしてバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍との合流という、ふたつの必要性はあったが、実質上プロテスタント同盟軍の本隊であるマンスフェルト軍はライン河を東へ渡るべきではなかった。


 北方から多量の財宝を抱えてのんびりやってくるブラウンシュヴァイク大公クリスティアンと合流するのに、ラインの西岸を進んでいけば、渡渉の問題が生じる大きな河川は当のラインのみであり、マインツ付近で渡ることができればそれですんだのである。ところが、かなり上流の地点でラインの東へ渡ってしまったプロテスタント軍の進路には、ネカー河とマイン河という、二本のライン支流が障害となって行く手をさえぎる恰好になったのだった。


 もちろん、支流と合して流れの厚みを増す中流域ライン河を渡るのが、上流側でより細いままの河を二度渡ることよりも本当にたやすいのか、という問いに一概に答えることはできない。加えて、カトリック選帝侯の主城であるマインツの近傍をプロテスタント軍が通行するという事態への政治的な影響も軽視はできない。しかし危険というものは、その規模よりも回数を重ねることのほうが致命的結果を生じる途により近くはなかろうか。


 マンスフェルトは、敵方であるカトリック軍の指揮系統がスペインのコルドバとバイエルンのティリーにわかれており、先年から対プロテスタント戦に従事し自負のあるティリーと、偉大なるスピノーラから指揮権を預かっている以上やはり主導権を譲れないコルドバとが、仲違いをするのではないかと期待していた。


 一六二二年五月四日――


 ネカー河を渡ったマンスフェルトは、ミンゴルスハイムの戦勝に驕っているかのように見せかける動きで、敵を誘い出そうと試みた。だが、ティリーは一度小競り合いに負けた程度で逆上するような人物ではなく、コルドバとの連携を途切れさせずにネカー河沿いを遡っていった。


 そちらの方向には、まだカトリック軍と同じ側の岸に残っているバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍が陣を敷いているヴィンペンの町があった。渡河したマンスフェルトをカトリック側が全軍あげて迎撃しないよう、牽制のためにライン・ネカー間のくさびとなるのがバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍に割りあてられた役目であったが、プロテスタント側の陽動作戦の狙いと欠陥を看破したティリーは小うるさく蠢動するマンスフェルトを完全に無視した。結果として、自ら孤立した恰好となったバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍は、二万に迫るスペイン・バイエルン連合軍に襲われることとなってしまった。


 カトリック軍は五月五日の午後にヴィンペン近郊へ現われ、その動きの速さは、ティリーとコルドバがほとんど迷わなかったことを意味していた。動員限界より数の少ない、二万弱の兵力であるという点も、カトリック方が巧遅より拙速を尊んだことを物語っていた。マンスフェルトの陽動は、敵に寸秒の考慮をさせる効果すらなかったのである。おかげで、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍は河を渡って戦闘を回避する暇も与えられないまま敵軍と対峙することを余儀なくされた。カトリック勢の来襲は予期されないものではなかったため、バーデン・ドゥルラッハ軍の兵士たちは防御陣地を組んでいるところであったが、どっちつかずの態度でいるよりは、哨戒を密にしておき、敵を感知すると同時に逃げ出すべきであったかもしれない。


 辺境伯自らを始め、バーデン・ドゥルラッハ軍の兵員は戦闘経験のない新兵ばかりであった。辺境伯が自軍を編成するにあたって帷幕へ迎えた中級将校には、これまで他国で傭兵などの実績を積んできた者がそれなりにいたようである。


 バーデン・ドゥルラッハ軍の戦闘要員は一万三〇〇〇。数に優る戦巧者に迫られた辺境伯とその臣下たちの危機はあきらかだったが、制圧の完了していない敵地で補給が思うに任せないカトリック側に比べ、本拠地からまだ遠く離れていないバーデン・ドゥルラッハ軍は精気充分で、事前の調査怠りなく土地の起伏を味方につけており、未完成ではあったが陣地もあった。カトリック軍が補給を切らす、あるいはマンスフェルトが再度ネカー河を渡って救援にくるまで耐えることができれば、逆に王手チェックをかけることができよう。


 五月六日――


 前日の夕刻から戦闘配置のままにらみ合っていた両軍は、朝食をすませてから、挨拶代わりの砲撃を交わし始めた。バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍は、初の実戦という厳しい条件にもかかわらず、地形の有利と即席の防御陣の守りの甲斐もあって、三時間以上にも渡った砲弾の落下の中で戦列を保ち続けた。一方のスペイン・バイエルン連合軍のほうは、戦馴れした練達の士気によって防御の不備を補い、やはり降り注ぐ砲弾の中で浮き足立つことなく持ち場を守り抜いた。この時代の重火器は発展途上で破壊力が少なく、数も微々たるものであった。両軍ともに、装備している砲は一〇門以下であり、火砲が会戦の勝敗を決するようになるのはまだまだ先の時代の話である。


 陽が高くなってくるにつれ、敵に対する評価を改める必要に迫られたのはカトリック側のティリーとコルドバのほうであった。素人集団だろうと高を括っていたが、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍の陣地は堅固で逃走兵が出る気配もなく、砲撃では追い払えそうもなかった。損害覚悟で、本格的な野戦に訴えなければ排除できそうにない。マンスフェルトが河の向こうにいることを考えれば、安定した補給の見込めない現時点で戦力の損耗は避けたいというのがカトリック軍の本音だったのである。


 老練だが同時に小狡いマンスフェルトの性格からすれば、友軍を救援するなどという動機でヴィンペンにはやってこないだろう。だが、バーデン・ドゥルラッハ軍が思いのほか健闘するとなれば、哀れな辺境伯とその臣下たちが討ち死にを遂げたそのあとで、疲れ切ったスペイン・バイエルン連合軍に引導を渡すべく連戦をしかけてくる可能性は充分考えられた。ティリーとコルドバという、カトリック屈指の二将軍を破ったとなれば、マンスフェルトの驍名はスピノーラに並び、あるいは凌ぐものとなる。


 とにかく目の前の敵は始末しなければならないが、マンスフェルトにつけ入る隙を与えるわけにはいかない。ならばこそ、初陣としては破格の統制を見せるバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍にこれ以上の経験を積ませる機会を与えず、この一戦において烏有に帰する――それが、ティリーとコルドバの達した結論であった。


 午前にカトリック側は歩兵部隊の一部を前進させ、敵軍前衛の備えを計らせたが、得られた結果はマスケットの一斉射による手厳しい迎撃であった。本格攻勢を命じられたものではなかったため、スペインとバイエルンの士官たちは相手の反応を確かめてから後退命令を下し、そのさいにプロテスタントが追撃してこなかったことを発見した。バーデン・ドゥルラッハ軍は馬車に楯と格子を取りつけ、後ろから槍を突き出せるようにした、騎馬返しの柵を可動式にしたような物で最前線を守っていたが、積極的にその防壁の前へは出てこなかったのだ。


 強固だが柔軟性に欠ける敵の陣形の特性を知り、ティリーとコルドバは昼食を摂りながら新たな策を練った。両軍の兵士たちもにらみ合いながら交代で糧食を口にし、ときおり大砲が弾丸を吐き出すほかには動きのない、朝と同じような光景がしばらく続いた。


 正面突破が難しいとなれば、自然と両翼が争点となる。バーデン・ドゥルラッハ辺境伯はネカー河を東に見て、そこへ流れ込む小川を背に北側へ向けて陣地を敷いていた。対するカトリック側は、コルドバ率いるスペイン軍が右翼、ティリー率いるバイエルン軍が左翼に布陣していた。スペイン・バイエルン連合軍にとって有利な地形となる丘陵と森は存在したが、バーデン・ドゥルラッハ軍陣を攻めるためには、そこを放棄して、あえて窪地から登っていかなければならなかった。当時の銃器の射程では、そうしなければ戦えなかったのである。辺境伯はかなり兵法を勉強しており、布陣に意を用いたことがうかがわれた。


 ネカー河の岸辺に広がる湿地帯では、騎馬と大砲がまったく身動きできない。したがって、バイエルン軍は側面攻撃を望み難かった。戦場の西側には、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍の戦列の左端に森があり、午後になってから陣取り合戦が始まった。


 コルドバは抜け目ない指揮官であり、バーデン・ドゥルラッハ軍の守備隊が昼食を摂る隙をついて一度は森を占拠したが、左翼端の防御の重要さを知悉していたバーデン・ドゥルラッハ軍の士官は森を遮蔽に取ったスペイン軍が側面展開の準備を完了する前に再奪回を果たした。兵卒に経験はなかったが、各部隊の指揮には確かな戦術眼をそなえた人材が充てられており、辺境伯は布陣のみならず編成・人事に関しても遺漏がなく、総司令としてすぐれた資質を持っていることを事実によって示していた。


 初戦であたった敵将がティリーとコルドバでさえなかったなら、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯はプロテスタントの救世主になれていたかもしれない。彼の不幸は、あまりにも相手が悪いことにあった。


 ティリーは馬車防壁を突破しようと部隊の再編成を図っていたが、その企図が完了するより先に辺境伯自らが騎兵部隊を指揮して突撃を敢行し、一時はバイエルン軍を背後の丘陵際にまで追いつめた。並の将軍が率いる並の軍隊であれば、窪地の中で丘と騎兵に挟まれてカトリック側左翼は壊滅していただろう。だが歴戦のティリーに率いられた錬磨のバイエルン軍は素早い後退で傾斜を味方に変え、適切な対騎馬防陣を組んでバーデン・ドゥラッハ軍の猛攻を耐え切った。狙いを絞った辺境伯の判断は決して誤ってはいなかったが、火砲の射線と騎兵がバイエルン軍へ集中したことで、スペイン軍はマスケットの射程だけを気にしていればよい状況となり、コルドバは歩兵部隊を重厚な方陣テルシオに組んで前進を開始した。


 方陣テルシオはまさに兵士の肉体で織り上げられた移動する城壁であり、この時代の火力で崩すことは容易ではなかった。方陣に対抗するには、同じ戦形で挑むか、あるいは密集しているところへ大砲を撃ち込み、散らした上で騎兵部隊をぶつけて叩き割るしかない。現時点のバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍左翼にはどちらも不可能だった。方陣同士での戦いは練度の差が露骨に出てしまうため、初陣の彼らでは、練達の、しかも本場スペイン式(スパニッシュ)方陣テルシオへ挑むことなど到底できない相談だ。


 バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍の大砲と騎兵はことごとくバイエルン軍攻撃に投じられていたが、仮に倍の備えがあり、左翼に余力が残っていたとしてもスペイン軍を壊滅させることはできなかっただろう。破壊力不足の上に装填間隔の長いこの時代の大砲では、いくら撃ち込んでも崩れた歩兵陣が再編されるまでの時間のほうが早く、撃破し切ることはできない。そのかぎられた時間内に敵陣へ騎兵を突入させる――早すぎても遅すぎても返り討ちに遭う――ことは、ごく一部の天才でなければこなすことのできない業であった。その天才が海を渡ってドイツへやってくるのは、まだ八年も先の話なのである。


 結果として、マスケットの射程分だけを挟んで、スペイン軍とバーデン・ドゥルラッハ軍左翼とのあいだの戦線は完全に膠着した。馬車防壁のおかげでどうにか蹂躙されずにはすんだが、バーデン・ドゥルラッハ軍はもはや左翼側からまったく動きが起こせなくなってしまった。


 戦場の半分で動きがすっかり滞り、瞬発力はあれど持続に欠ける騎兵隊の働きが鈍ってくるにつれて、バーデン・ドゥルラッハ軍の旗色はあきらかに悪くなっていった。後背地の丘を巧く使って体勢を立て直したティリーは、騎兵と歩兵を断続的に繰り出して逆襲に転じた。攻勢の限界をすぎたバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍は馬車防壁まで押し返され、それでも堅固な陣地に頼って戦列を維持しようと最後の努力をかたむけていた。


 バイエルン軍は一度進出してきた敵を追い払うさいに、後退についていけなかったバーデン・ドゥルラッハ軍の砲を複数鹵獲していた。それも加えて、強化された火力で敵陣へ砲撃を浴びせる中、ついに一弾がバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍の弾薬輸送馬車に直撃した。猛爆が防御陣の一角を吹き飛ばし、さらに大音響と黒色火薬特有の濃煙が辺境伯軍の将兵の少なからぬ数を人事不省に陥れた。


 この機会を逃すティリーとコルドバではない。カトリック側は全軍こぞっての総攻撃に移り、とうとう馬車防壁は突破された。通信機のような文明の利器は存在しない時代であるが、真にすぐれた指揮官であるティリーとコルドバ、そして戦闘経験豊富なスペイン・バイエルン軍の士官たちは効率よくバーデン・ドゥルラッハ軍を分断し、挟撃、あるいは包囲した。


 それぞれが孤立してしまった辺境伯とその臣下たちは、逃げ出せる者は逃げ出し、そうでない者は四方から迫る敵を相手に絶望的な抵抗をし、気力の尽きた者は降伏した。会戦の帰趨は陽が沈む前に定まったが、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍の最後の一連隊が投降したのは夕餉の時刻もとうにすぎてからで、その一点だけでも、彼らが初陣の軍であったとは到底信じられないほどのあっぱれな武勇を振るったことを証明していた。


 ……こうして、ヴィンペンの戦いはカトリック側の勝利で幕を降ろした。バーデン・ドゥルラッハ辺境伯ゲオルク・フリードリヒと彼の臣下たちで構成されていたプロテスタント軍は、二〇〇〇名ほどの戦死、重傷者を出し、一〇門の重・軽砲を含むほとんどの軍需物資を失った。辺境伯は数人の護衛のみを連れ、翌七日に戦場の南三〇マイルほどにあるシュトットガルトへと退却した。


 敗残兵の多くはマンスフェルト軍によって収容され、戦場の狂躁に厭気が差さなかった者は、再編が完了したのちもマンスフェルトの指揮下に残ってカトリックとの「聖戦」のために命を張ることとなる。だが基本的には、バーデン・ドゥルラッハ辺境伯とその臣下たちの戦いは初陣で終わりを迎えた。老辺境伯は敗戦によって権威を失い、カトリック派に迫られて退位を承諾してしまうのである。


 一方、勝利を収めはしたもののカトリック側の損害も決して軽いものではなかった。とくに酷使された騎馬の消耗が激しく、掃討作戦を遂行できないほどであった。おかげで敗残兵の多くは命を拾ったが、マンスフェルトは弱った敵軍へ迫って連戦を強要することはせず、逃れてきた、敗れはしたものの堂々たる戦いぶりを見せた新たなプロテスタント勇士たちを迎え入れ、彼らの働きを慰撫して自軍へ編入させることに時間を費やした。ティリーがそこまで深読みした上で、マンスフェルト軍を放置してバーデン・ドゥルラッハ軍討伐を優先したのかどうかは、さすがにわからない。


 カトリック軍が戦闘の疲れを癒し、また抵抗を放棄した辺境伯の領土へ事後処置を講ずるのに、ほぼ五月一杯を要した。その間マンスフェルトは自軍の拡充に努め、ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンは略奪行脚を続けながら徐々に南下していた。フリードリヒお気に入りの、ファルツ首府であり、同時にネカー河制圧の要石であるハイデルベルクをカトリックに渡すわけにはいかない以上、クリスティアンが充分に近寄ってきてくれないことには、プロテスタント側はなかなか合流しにくいのだ。


 マンスフェルトとティリー・コルドバによる、ネカー河からマイン河への競争は六月になってから再開されたが、戦略運動に関してはあきらかに上手であるティリーとコルドバが今回も勝利を収めた。


 マンスフェルトの迎えを待ちながら、マイン河を渡るための臨時架橋の準備をしていたクリスティアンの前にスペイン・バイエルン連合軍が現われたのは、六月二〇日のことである。

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