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三十年戦争史《der Dreißigjähriger Krieg》  作者: 仁司方
第二幕 ファルツ接収戦争(1622〜1624)
11/63

遅れてきた騎士《Ritter ist seit spät》


 あるとき、ボヘミアの若き王妃エリーザベトがレースの手袋を落とした。それを拾い上げたのは、王妃よりもさらに若い、ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンであった。手袋を返してもらえないかと求めたエリーザベトへ、クリスティアンはこういったという。


「奥方さま、私はファルツ選帝侯国と一緒に、これを返しとう存じます」


 ……と。


 この芝居がかった挿話の日付はあきらかでない。クリスティアンは自前で軍を招集する以前に、一度オランダのマウリッツの旗下でスペイン軍相手の戦闘を経験しているので、その期間――一六二〇年の末から一六二一年の春ごろ――のいずれかであろうか。


 なんにせよ、クリスティアンは生まれてくるのが何世紀か遅かった。異国の地で出逢った人妻である貴婦人に対しプラトニックな愛を告白し、侠気のみで戦場を駆けるには、時代はあまりにも殺伐としすぎていた。


 しかしクリスティアンは己が熱意のみを恃みに突き進み、一六二一年の秋には一万を超える軍勢を編成するにいたっていたのである。クリスティアンが官職を持っていたハルバーシュタットは北ドイツに位置し、これまでの戦争の影響をさして受けていない、きな臭さに欠ける土地であった。


 若すぎるゆえにさしたる名声も実績もないクリスティアンが、戦乱の気配の薄い地でそれほどの兵力を結集しえたという事実は驚くべきものがある。生まれるときさえ間違えなければ、彼の名はもっと大々的に、燦然と欧州史に刻まれていたであろう。


 だが遅すぎた騎士は、この陰鬱とした三十年戦争の時代におけるある種の清涼剤となりえはしたものの、愉快な「痴れ者」として道化役の席次を与えられているにすぎない。


 クリスティアンは少年のころから向こう気が強く、兄に対して怒鳴り散らすのみならず、南ネーデルラントのイサベラ大公妃を「クソババァ」と罵り、親戚筋のドイツ内のプロテスタント諸侯やイングランド王すらも「コジョネス(キンタマ野郎、ほどの意の卑語)」呼ばわりするなど、およそ目につく範囲すべてに唾を吐く無頼ぶりであった。


 当然ながら、長じて世に知られるにつれ、彼には「いかれたクリスティアン」「野人公」「狂ったハルバーシュタット野郎」などといったあだが進呈されるようになった。自らも既存権威の毀損を楽しんでいた節のあるクリスティアンは、挙兵後にはカトリック教会から略奪した金銀塊を鋳潰して作った貨幣に「神の友にして、坊主の敵」と銘文を刻み、それを麾下の軍団へ給金として支払った。そんなクリスティアンであったが、エリーザベトに対しては実直で真摯な感情を告げ、後ろ暗いところのない騎士道上の愛であることを公言し、くだんの会合で拾った彼女の手袋を常に身につけていた。


 その旗幟にまで「神のため、彼女のため(Pour Dieu et pour elle)」と記し、供回りに巨人症の大男を連れていたブラウンシュヴァイクの公子は、実に幾重にも芝居がかった人物であったのだ。


 エリーザベトの夫であるボヘミア王フリードリヒが、この大時代な雰囲気をまとった同盟者のことをどう思っていたのかはよくわからない。フリードリヒも名誉的なものではあるがガーター騎士団の一員であり、その結成の発端となった故事である、貴婦人の靴下留めを拾い上げたというエドワード三世の行動をおそらくは作為的に踏襲したのであろうクリスティアンへ、表立って苦言を呈した事実はないようである。


 だが、クリスティアン自身が直接関係していたわけではないが、イングランド王女であったころのエリザベス争奪戦に名乗りを上げた婿どの候補の中に、クリスティアンの兄であるフリードリヒ・ウルリッヒは含まれていた。かつての恋敵の弟という、決して知らぬ仲ではなかったゆえに、微妙な心理の働きはあったのかもしれない。この先に再びあらわれるプロテスタント側のかけ違いがどこから生じたのか、そう考えてみると、フリードリヒの感情がまったく関与していないというのはありそうにないのである。


 もちろん、対立の当初からプロテスタント側は組織としてカトリックに比して弱体であり、その力関係はまだ当分のあいだ変わることがない。それでも、一六二一年の秋にプロテスタント勢力が旗揚げした四万の軍勢は、数としてカトリック軍に劣るものではなかった。その装備は貧弱で、訓練も行き届いておらず、集結できれば四万といえど三個の軍は離ればなれであったが、英雄的指導者に恵まれればスペインとバイエルンの軍団に伍することができたろう。


 そして、この時点でプロテスタント軍団を率いていた、マンスフェルト、ゲオルク・フリードリヒ、クリスティアンの三者のうちでは、一番若いがもっともなにもないところから一軍を糾合せしめたクリスティアンが、英雄的位置には近かったように思われるのである。


 ともかくも、一六二二年の春にプロテスタント勢力が必要としていたのは、抵抗の象徴である「正当なる」ボヘミア王フリードリヒの元に三本の軍旗を統括することであった。


 フリードリヒは変装して亡命先であったオランダ連合のハーグを出立し、四月二二日にライン・ファルツのゲルマースハイムへ入った。ゲオルク・フリードリヒの所領バーデン・ドゥルラッハにも近いこの城市で、国土を侵略されつつある選帝侯はプロテスタント軍の中核を担うマンスフェルトと合流した。


 市民と兵士が歓呼をあげて彼らの選帝侯でありボヘミア王を迎える中、マンスフェルトは内心で舌打ちをしていた。既にライン・ファルツはかなりの部分がスペインとバイエルンの手に落ちていたが、オランダ攻撃に全力を注ぎたいスペイン領南ネーデルラントのイサベラ大公妃は、密使を放って買収工作を繰り出しており、マンスフェルトも乗り気であったのだ。


 フリードリヒが向こう見ずの勇気を発揮して自ら陣頭指揮に現われたため、秘密交渉は棚晒しにされ、マンスフェルトは形式上の主上に対して自らと麾下の戦意を示すために出陣した。


 マンスフェルトはライン河の西岸に位置するゲルマースハイムから河の東側へ軍を移動させ、オーストリア方面から進んできたカトリック軍の前方に立ちふさがった。ここでマンスフェルトが臨戦態勢で待ち構えているとは予想外だったか、カトリック方はバイエルン軍とスペイン軍にわかれたままでいた。


 バイエルン軍を率いるのは先年に引き続き名将ティリー伯ヨハン・セルクラエスであったが、スペイン軍のほうは主将のスピノーラがオランダ攻略の指揮を執るためにドイツを離れており、ゴンサロ・フェルナンデス・デ・コルドバが留守を預かっていた。先立つふたつの世紀に渡って活躍した、同名の、スペイン史に燦然と刻まれた神将「エル・グラン・カピテン(輝ける大将軍)」にはおよびもないが、「小コルドバ」という程度には堅実な指揮官である。


 プロテスタント側にとって増援となるバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍も接近してきていたが、お互いに万全の状態で戦っても勝てないと踏んだのか、マンスフェルトは合流に先立って一戦を挑んだ。


 もしかするとフリードリヒの手前、積極的なところを見せたかったのかもしれないし、ただ単に好機が転がり込んできたからしかけただけの話かもしれない。だがマンスフェルトが攻撃したのはティリーのバイエルン軍であり、機会主義で挑むにはリスクの高い獲物であった。


 四月二七日に小村ミンゴルスハイム近郊で交わされた戦闘では、マンスフェルト軍の損害が数百だったのに対し、ティリー軍は二〇〇〇前後の戦死および重傷者を出した上に、指揮官であるティリー自身も負傷したと伝えられている。


 マンスフェルトが勝利できたのは、数でティリー軍に三割ほど優り、かつ地勢をく活用したからであった。しかしそれを加味しても、ティリーが交戦よりスペイン軍との合流を優先していたとはいえ、このときのマンスフェルトの冴えは不自然なほど際立っている。接近してくるカトリック二個軍団のうち、バイエルンのほうが与しやすいと素早く判断を下し、ティリーが損害を最少限に食い止めながら離脱していったのちには、コルドバ軍と合流したカトリック勢が逆撃をかけてくる可能性を見越して深追いしなかった。普段よほど手を抜いているのではないかと思わせるほどの完璧な状況分析・判断力を発揮したのである。


 実際、マンスフェルトの志向はプロテスタントの英雄として「解放者」になることではなかったようだ。恐るべき敵としてカトリック側の畏怖を買い、和を乞うための質物として所領を受け、ドイツ諸侯のひとり、帝国の封臣として遇されることがマンスフェルトの真の狙いであった。


 嫡出子でこそなかったが、ルクセンブルク知事を務めた経歴もある父を持つマンスフェルトにとって、ハプスブルク帝国は実にアンビバレントな感情を呼び起こす存在だったようだ。皇帝の犬となって立身するのはいけ好かないだけでなく、そもそも庶子であるマンスフェルトには望むべくもないみちだった。自らの存在を既存権力者へ知らしめるには、()として台頭するほかなかったのである。マンスフェルトもまた、クリスティアンとは違う意味で中世の残照に囚えられている人間だった。


 ミンゴルスハイムの戦闘で打撃を受けたバイエルン軍は、コルドバ率いるスペイン軍に一度収容され、損害を回復後に再びわかれると、連携できる程度の間隔を空けて東へと後退していった。この地点で撃退されなければ、カトリック軍はファルツ選帝侯国の首府ハイデルベルクを攻略しようとしたであろうから、さしあたってお気に入りの主城を守ることのできたフリードリヒは大いに悦んでマンスフェルトを褒め讃えた。


 一戦に敗れはしたもののカトリック側が受けた損害はそう大きくはなく、総兵力は三万弱で、マンスフェルト軍とバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍を合したよりもなお多数であった。しかし当時の道路事情は、三万もの軍勢が整然と行動することを許してくれない劣悪なものであるのが常だった。一度合流したバイエルン軍とスペイン軍が分離したもそのためで、大抵の軍団が一万から二万のあいだで構成されているのも、どうにか統制を保って行軍するにはそれが限界だったからであろう。


 平常時でも戦闘要員の三割前後、勝ちに驕っているときなどには兵員の二倍を超える雑多な従軍者――補給品を売り戦利品を購う商人、将兵の個人的動産を運ぶ人足、そして娼婦――がキャンプについてくるので、実際の混乱はいや増した。


 将軍に必要とされていたのは、移動時には道を詰まらせずにすむ程度の数に部隊を分割し、戦闘のさいにはわかれていた部隊を素早く統合する手腕であった。当時の軍事の才能とは、半ば交通整理の能力だったのである。


 プロテスタント軍も一度は合流したが、総力を尽くしてカトリック側に決戦を挑むにはやはり数が足りなかった。そして、ハイデルベルクを守った戦いぶりに対し、マンスフェルトの兵士たちは報酬を要求していた。バーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍はその多くがゲオルク・フリードリヒの臣下であったが、六〇歳の温厚な辺境伯は焦眉の危機に迫られて兵を集めたのであって、あらかじめ軍資金の準備があったわけではなかった。麾下を食わせるには充分なだけの金銭を持ってはいたが、同盟者とはいえ基本的には他国者よそものばかり、しかも強欲な傭兵揃いのマンスフェルト軍を満足させられるものではなかったし、その義理もなかったのである。


 金銭を出すべきなのは名目上の総大将であるフリードリヒなのだが、愛想こそ振りまけど報賞をバラまくことはできなかった。丸腰同然でオランダからライン・ファルツへやってくる勇気はあったが、ない袖は振れないのである。豊かなオランダ連合といえど、その財は無尽蔵ではない。ましてフリードリヒはわずかな供回りのみを引き連れて敵地を忍んできたのだから、多量の金銭を抱えてくることのできるはずもなかった。


 つまるところ、兵力の面でも軍資金の上でも、プロテスタント勢にとってクリスティアン軍と合流することがなんとしても必要になった。クリスティアンはこれまで戦争の影響を受けていない北ドイツで、莫大な徴発物資を略取していた。裕福なミュンスター、パーダーボーン両司教管区は、自称「神の友にして坊主の敵」によって散々に搾り取られたのである。


 クリスティアンは軍隊の進路にある手近な村へ簡易な書状を送ったが、そこには「燃やして血を流す!」と単純明快な脅迫が記してあった。戦禍に馴れていない北部の人々は震えあがり、クリスティアンは次々と「焼き払い免除税」をかき集めることができた。


 カトリック教会から財宝を毟り取るクリスティアンはいかにも野蛮で瀆神の徒であると見えたであろうし、彼の敵方は実際にそう宣伝したが、大貴族の子弟である当人はきちんと礼儀作法を守ることのできる男であった。直接クリスティアンから慇懃無礼な脅迫を受けたミュンスターやパーダーボーンの聖職者たちと、カトリックのプロパガンダで「狂ったハルバーシュタット野郎」について見聞きした人々のあいだでは、彼の人物像に関して印象の差が大きかったようである。もっとも、容儀を尽くしながら聖遺物箱を強奪して鋳潰し、納められていた聖人の遺骨は丁重に扱うその姿は、やはり厳格すぎるプロテスタント原理主義への狂信を感じさせるものであったかもしれないが。


 略奪があまりにも上手くいきすぎたために、クリスティアン軍の進行速度は非常にゆっくりとしたものとなってしまった。兵士たちへ支払う資金が欲しいライン・ファルツのプロテスタント軍としては、やってくるクリスティアンを待っていたのでは遅すぎる。時間をおけばティリーのバイエルン軍とコルドバのスペイン軍の体勢は整い、勝利のチャンスは減ずるであろう。合流する前に、大量の戦利品を持ったままでクリスティアンがカトリック軍に襲われる、というのが最悪のシナリオであった。ティリーとコルドバがこぞってクリスティアンを攻めれば数の差は倍以上だ。財宝で動きの鈍いクリスティアン軍は、逃げることすらできない。


 なんとかして、敵と接触することなく味方の三軍が合同しなければならなかった。だが、フリードリヒたちとクリスティアンのあいだには、ネカー河とマイン河という、ライン河の支流二本が横たわっていた。支流とはいえ大河であり、そして軍隊にとって、渡河というのは、攻城戦や大平原での合戦に並ぶほどの、もっとも危険な試みのひとつであった。


 カトリック側には劣るとはいえ、それでも二万五〇〇〇を超える数のフリードリヒの軍隊は、やはりマンスフェルト軍とバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍にわかれて進軍を始めたが、その交通整理で、マンスフェルトとゲオルク・フリードリヒは失策を犯した。

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