戦旗流転《Fahnen Wandelnd》
一六二二年六月二〇日――
フランクフルト・アム・マインの西方二マイルほどに位置する小村ゾッセンハイムを挟んで、カトリック連合軍とプロテスタント軍は陣を張って相対していた。ゾッセンハイムはマイン河の北を走る支流であるニッダ川のさらに支流の小川ズルツバッハの屈曲部北にあり、ズルツバッハを渡る橋を擁していた。
カトリック側のコルドバ将軍とティリー伯が率いるスペイン・バイエルン連合軍の兵力は二万五〇〇〇から三万、ブラウンシュヴァイク大公クリスティアンに率いられたプロテスタント軍はおよそ一万五〇〇〇であった。
マイン渡河が目的であるクリスティアンと、その阻止が目的であるティリー・コルドバがなぜこんなところで会敵したかというと、マイン河とニッダ川のあいだは沼沢地が広がっており、行軍にも渡河のために架橋するにも不便きわまりなかったからである。フランクフルトにクリスティアンが現われたという報を聞きつけたティリーらは通れる道を伝わって駆けつけてきたのであり、クリスティアンのほうはマインとニッダが合流した先の、川岸がぬかるんでいないヘッヒスト近傍で浮橋を作っている途中であった。
ちなみに浮橋のための木材はフランクフルトで購入したものである。「狂ったハルバーシュタット野郎」でも、ちゃんと金銭で対価を支払うことはあるのだ。
マイン河への道行きをティリー・コルドバ軍と争っていたマンスフェルトはといえば、ヘッセン・ダルムシュタット地方伯の領土を縦断しようとしたところで、皇帝に従順な伯が小砦リュッセルスハイムの引き渡しを拒否したため、最短路を通ることができなくなってレースから脱落していた。さしものマンスフェルトといえど、供出を拒んだ商人を斬り殺すのと同じ感覚で地方伯ともあろう人物を処するわけにもいかず、息子共々人質に取って軍団に帯同させるのみで留めていた。
いずれにせよ、クリスティアンは自軍のみで、ティリーとコルドバを切り抜けなければならない、それが現状であった。
同二〇日正午すぎ――
両軍のあいだで砲戦が開始されたが、先だってのヴィンペン会戦でバーデン・ドゥルラッハ辺境伯軍から鹵獲したものを含め一二門の火砲を備えるカトリック勢に対し、ブラウンシュヴァイク大公軍には略奪行脚の最中に調達した三門の砲しかなく、しかも、そのうち二門は手入れがされていなかったため使い物にならなかった。
一二対一という途方もない火力差では、砲戦というよりは一方的な爆撃のようなもので、ブラウンシュヴァイク大公軍の兵士たちは塹壕の中に縮こまってまったく身動きが取れなくなってしまった。
兵力でも火力でも圧倒的な不利に立たされ、ブラウンシュヴァイク大公軍は絶体絶命と見えたが、クリスティアンは成算を持ってことにあたっていた。ここでカトリック連合軍相手に勝利を博するのが戦いの目的ではない。必要なのは、北ドイツで収奪した膨大な軍資金を持ってマンスフェルトと合流することであり、極端な話、財宝を積んだ馬車さえ無事なら、あとはクリスティアンが身ひとつでもいいのである。傭兵であれば、金銭にものをいわせていくらでも現地召集が利くのだ。
クリスティアンは一度軍を後退させ、ズルツバッハ川の南岸を敵に明け渡した。渡渉可能な細い流れといっても、河川は河川である。騎兵にとってはなんらの障害にもならず、歩兵にとってもただの水が流れる溝であったが、この時代の鈍重な大砲はそうはいかない。ただ動かすだけでもひと苦労なのだ。移動中は、当然ながら砲撃ができなくなる。敵を誘うことで火砲による圧迫を減少させておいてからクリスティアンは反転攻勢を命じ、狙い通り、進出してきたカトリック軍に打撃を与えた。そして再び兵を退げ、いかにも罠があるようによそおったのである。
この時点で、スペイン・バイエルン連合軍の指揮権は事実上ティリーが握っていた。これまでの戦いでコルドバ将軍はティリーの実力を認め、その補佐に徹するようになっている。スペイン人は伝統的に高慢で、ハプスブルク連合王朝といってもオーストリアより自分たちのほうが優越すると考えていた。ましてオーストリア家の臣下のバイエルン公のそのまた臣下――とくれば、スペイン第一の将軍スピノーラの後任であるコルドバがティリーの下に就くことなど、スペイン人の考える序列からすればありえない。だがコルドバは我を抑えてティリーにしたがうことを選んでいた。とうてい、凡夫にはできない判断であろう。
敵将と僚将の双方から選択肢を委ねられたティリーは、慎重策を採った。ミンゴルスハイム、ヴィンペンと、二度続けて地形の妙を活用した敵に手を焼かされたティリーとしては、ここで危険と引き換えに勝ち急ぎにいく必要性は認められなかったようだ。ブラウンシュヴァイク大公軍で稼動している唯一の砲座に対しても、はったりで置いてあるだけの残りの二門の砲座に対しても、カトリック軍は手厚い火力を集中しながら歩兵部隊を送り込み、確実に制圧していった。
敵の堅実さに助けられながらクリスティアンは麾下をマイン河の向こうへ少しずつ逃がしていったが、狭隘な地形はカトリック軍の来襲を防ぐ以上に、自軍が浮き足立って逃散するのを阻止する効果があった。なにせ、退路に閊えている味方のせいで、逃げるに逃げられないのだ。生き残りたければ、後ろが空くまで前線を支えるしかない。
普通の会戦にはつきものの突撃や一斉掃射といった派手なことは起こらないまま、夕刻までかけてクリスティアンは撤退戦を完遂した。ブラウンシュヴァイク大公軍の戦死者は二〇〇〇を数え、そのうちの少なくない者は狭い浮橋を渡る順番を待てずにマイン河に飛び込んでの水死であった。
安全圏に脱出してから「いかれたクリスティアン」のふたつ名の意味を身をもって知り脱走した者や、捕虜になった者も含めれば、戦力は三割ほど低下した。クリスティアンは基本的に兵卒の損耗には頓着せず、末端の犠牲を考慮しないその無神経さがこの先にひとつ大きな仕事を果たすことになる。
役立たずを含めた三門の大砲はすべて鹵獲され、多くの補給馬車もカトリック連合軍の手に落ちた。が、肝腎要の財宝は無事であった。クリスティアンは敗軍の将とは思えないほど意気揚々、威風堂々と行軍していき、マンスフェルトと、そして名目上の首領であるフリードリヒと合流したのである。
ヘッヒストの戦いは、形としてはカトリック側の勝利に終わった。カトリック軍の損害は多く見ても二、三〇〇で、ヨーロッパ中にティリーとコルドバの戦上手が喧伝された。しかしそもそもの目的であった、プロテスタント軍の合流を阻止するという最大の仕事は為されなかった。二〇〇〇の命を戦場の露と変えたクリスティアンがまったく悪びれなかったのも、不当なことではない。自軍を遥かに優越する戦力の敵を向こうに回して、軍資金を携えてマンスフェルトと合流するという当初の作戦目標を達成したのだ。エリーザベトの騎士として、また合流プロテスタント軍の主将として振る舞うことに、なんの不思議があろう?
したがって、プロテスタント同盟の現首脳部が一座に就くとき、クリスティアンは最遅参の新顔でありながらごく当然のようにフリードリヒに次ぐ席を占めた。そうして始まる会食で、「客人」として居心地悪そうにしているヘッセン・ダルムシュタット地方伯へ、フリードリヒはいくども繰り返したものである。
「私は皇帝であるフェルディナントどのを相手に戦争をしているわけではないのだ。私はいつでも和平に応じる用意があるのだよ、不法行為の償いさえ、彼らが保証してくれればね」
――と。
だが、のちに信義伯とまで呼ばれることになるヘッセン・ダルムシュタット伯ルートヴィヒは、その言葉に心動かされることはなかった。なにしろルートヴィヒ自身、従兄のヘッセン・カッセル地方伯によって不法に権利を侵害されている当事者なのだ。しかもヘッセン・カッセル伯モーリッツはカルヴァン主義者であり、同じ教義を奉ずるフリードリヒが言分を信じてもらうには条件の悪い相手であった。
国を追われた王と囚われの地方伯が不毛な会話をしている一方、さすらいの傭兵隊長と時代遅れの騎士のあいだの空気も良好とはいえなかった。
クリスティアンは真物の大貴族の子弟であり、下級貴族の庶子にすぎないマンスフェルトとは毛色からして違った。伝統的貴種層への憧れと反発を抱えながら、マンスフェルトはそれでもクリスティアンに上座を許した――いずれ自ら昇るつもりであるから、ここで階級権威を否定し切ることはできないのだ――が、軍事の専門家として主導権を渡すつもりはなかった。
軍資金にものをいわせ、雑兵をかき集めながらティリーとコルドバへ挑戦を繰り返す――それがクリスティアンの主張する戦略であったが、マンスフェルトは、ライン河の西岸へ退避して同盟者であるイギリスやオランダが援護体勢を整えるのを待つべきだと譲らなかった。表面的には、マンスフェルトの意見のほうがもっともであるように見える。だが、人倫にはもとるがクリスティアンの策も間違ってはいなかった。末端の傭兵を陣営につなぎ止めておくものは、大義や正しい宗教ではなく、金銭だからだ。マンスフェルトも、本音としては手兵の損耗を避けたいというだけのことであった。
両者の見解の相違は、既に人民の生殺与奪を専断できる君侯の位にあるクリスティアンに対し、その地位を狙っているがために現時点では将兵からの信望を集めておきたいマンスフェルトの立場の差からきていた。流れの傭兵たちの横のネットワークは侮り難く、彼らは話のわかる雇い主とそうでない雇い主をすぐに見分け、情報を共有していた。窮極的には金銭の払いがよいほうにつくのではあるが、条件にさほど違いがないのなら、必ずそれまでの評判が響く。マンスフェルトは決着を先延ばしにすることで、あわよくば大会戦抜きで和平が訪れるのではないかと期待していた。
ハプスブルクの繁栄と伸張を恐れるヨーロッパ各国――イギリス、オランダ、フランス、デンマーク、スウェーデン、そして教皇自身すら含むイタリア諸邦――その存在を考えれば、マンスフェルトの目論みは身勝手だが無謀ではなかった。もし血戦を幕切れとしない和睦がきたれば、消耗していない大兵力を抱えたマンスフェルトは下にも置かれないであろう。つまるところ、マンスフェルトは絶対回避不能な事態に直面しないかぎり、自ら戦うつもりはなかった。
実戦指揮官である将軍ふたりの不和を目のあたりにして、フリードリヒは困惑したが、同時に悩むことになった。マンスフェルトの計画は合理的に思われたが、しかしラインの西へ軍が後退してしまったらファルツ選帝侯国の首府ハイデルベルクはがら空きになってしまう。心情的には、クリスティアンの肩を持って領土を守るほうへフリードリヒはかたむいていた。だが、戦って勝てるのかと自問すれば、心許なさを感じざるをえないのであった。
正当のボヘミア王として、不法な侵略にさらされているファルツ選帝侯として、フリードリヒはここで敗れて捕らわれるわけにはいかなかった。無論、選帝侯ともあろうものが処刑はされない。だが、叛いてもいない皇帝にひざを屈して慈悲を乞い、選帝侯の位が自分から剥ぎ取られてバイエルン大公に与えられるのを見届けてから、死ぬまでどこぞの僧院の窓のない部屋に幽閉される――そんな未来は認められないのだ。フリードリヒのプライドの問題ではなく、 「ドイツの自由」が滅ぼされることになるからである。フリードリヒの未来はドイツの全諸侯の未来に重なる。
……結局、フリードリヒは明確な意志を示すことができなかった。これまで何度か繰り返されてきた、決断できない悪い癖が出てしまったのである。第一位の者が決定権を放棄するなら、自ずと第二位の主張が全体の意志となる。マンスフェルトとクリスティアンはお互いに自分こそが第二位の座にいるつもりであったが、しかしこの場での実力者は疑いなくマンスフェルトのほうであった。クリスティアンが優っているのは位階のみで、年齢でも、実績でも、現有戦力でも、マンスフェルトのほうが上回っていた。
ようやく先年来の悲願であったはずの合流を果たしたプロテスタント軍は、その数の力を正面の敵に対して行使するでもなく、ラインを渡って、ヴォルムス、ランダウを通り、アルザス地方へ退却していった。アルザスはマンスフェルトが以前に兵員募集の拠点にしていたため、人的資源も、取り立てるべき動産も払拭しており、さらに軍はロレーヌ方面へと進路を転じた。
三週間に渡った行軍がもたらしたのは、周辺地域の完全な荒廃であり、フリードリヒへの失望と憎悪であった。無頼の傭兵軍団による略奪と、曲がりなりにもボヘミア王・ファルツ選帝侯自らが陣中にあっての「親征」とでは、その重みに決定的な差があった。フリードリヒには強欲な傭兵たちを制止するだけの指導力がなく、また彼らをして略奪の必要がないと納得させるだけの報酬を支払う資力もなかった。ただフリードリヒはこう歎いたのである。
「敵と味方のあいだには、なんらかの違いがあってしかるべきであろう。しかるに、これらの人民は、双方とも、破滅させられた。……思うに、これらの者たちは、悪魔の魂を持っていて、あらゆる物に火をかけることに快感を覚える性なのではなかろうか」
フリードリヒが暗澹と、彼の軍団が、彼のも味方のも敵のも区別なく町や村を劫掠するのを眺めている間に、ティリーとコルドバはライン・ファルツに残るプロテスタント側の拠点を次々と制圧していった。七月の第二週ごろ、ついにファルツ首府ハイデルベルクはティリー率いるバイエルン軍によって包囲され、さすがにこれにはフリードリヒも血相を変えてマンスフェルトを呼びつけたが、出陣を命じられた歴戦の傭兵隊長は、神妙な面をしながらも過去のことを指摘した。四月の末に、一度はハイデルベルク眼前でティリー軍団と戦い、フリードリヒの主城を救ったこと。そして、その報酬はいまだ支払われていないことを、である。
「――無論、陛下にはいま即金をお支払いできる状況でないことは承知しております。本来前金抜きでの仕事はお引き請けしかねますが、作戦終了の暁には確かに報酬をいただけること、陛下のお名前でお墨つきいただければ、小官として労を惜しむものではありません」
マンスフェルトは、ティリーによってハイデルベルクが陥とされ、プラハと同様、略奪の憂き目に遭うよりは、フリードリヒ自ら宝物庫の扉を開いてマンスフェルト軍団に支払いをしたほうがまだしも損害が少なくてすむだろう、と示唆してみせたのだが、この無礼を受け入れられるほどフリードリヒは円熟していなかった。その若さこそが、皇帝からの屈服勧告を蹴らせ、義父の提示する和解案にも頑として首を縦に振らせない原動力であったのだ。
不純な武器で身を守るくらいならいっそ無防備でいることに甘んじよう――あまりにも潔すぎる決断によって、フリードリヒはマンスフェルトとの契約を解除することを選んだ。
七月一三日のことである。
クリスティアンは自らの主権を持つ一君侯であるので、その参戦は自由意志によるものでフリードリヒとのあいだに主従関係や契約関係はない。だがマンスフェルトと完全にわかれ、単独でフリードリヒのために――正確には彼の細君エリーザベトのために――軍事行動を起こすにはその基盤はあまりにも脆弱だった。
結果として自ら武器を放り棄てた形となったフリードリヒは、フランスのスダンへ避難先を求めた。スダンを治めるブイヨン公は、フリードリヒの母ルイーゼ・ユリアナの妹エリザベスの夫であり、フランスにおけるカルヴァン派の指導者でもあった。フリードリヒにとってスダンは、少年のころに一時期をすごした懐かしい土地でもある。
戦争が始まって二度目の契約終了により旗を失ったマンスフェルトは新たな雇い主を探すことにし、クリスティアンは渋々ながらそのあとにしたがった。クリスティアンとしては、プロテスタントの保護者として、カトリックに打撃を与えることさえできれば、とりあえずなんでもよかったのである。




