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第5話

「ねぇ本当にいいかな。何も言わずに出てきちゃっても」

アデルは前を行くインプに絶えず念を押した。

「だーから・・・・大丈夫だって、さっきから言ってんだろ」

面倒くさそうにこうもりが言う。

「でも――でもジャッキーさんたち、探してるみたいだったじゃないか。――やっぱりまずいよ。言っておかなきゃ」

こうもりが苛々しながら振り向いて、心配性の相棒に顔を近づけた。

「あのな、お前を探してボッコボッコにするために、あいつらは血眼になって俺様たちを探してんだ。魔術師にわざわざお別れの挨拶をいいたがる変人がどこいる? あ? ――お前はな、あの村で一つの魔法を使っちまったんだ。それも特別強力な魔法を。魔術師とバレた以上、もうあそこにはいられない。よーく覚えとけ。それが魔術師ってもんだ。長い間同じ場所にいることはない。――できないんだ。仕方がないのさ。みんなそれを乗り越えてきてる。それが出来なきゃ、早死にするだけさ」

さすがのアデルもそこまで言われちゃ、首をすくめて黙り込むしか無い。

 アスターが異界へ消えていったあと、ディスパーはすぐこの村を出発し、「怪物の洞窟」へ乗り込むと宣言した。アデルはもう少しこの村に滞在したい気持ちもあり、一日だけだが、世話になった村人にきちんと礼を言いたかったので強く反対したが、ディスパーはそれを無視し、「怪物の洞窟」へと(勝手に)進み始めた。アデルは仕方なく付いていくが、五分ごとにディスパーに念を押し、しつこく何か言ってからでていこうと催促していたのだ。

 

 一人の魔術師と一匹のインプは、しばらくだまって進んだが、次第に道が険しくなり始め、山登りの経験のないアデルは、ついに音をあげた。

「ちょ、ちょっとタイム。ディスパー、待って」

「なんだ。もうバテたのか?」

ディスパーは早く行きたいらしく、鼻息荒く不機嫌に言った。

「そんなこと言っても、僕、山を登るのは初めてなんだ」

アデルはリュックから地図と水筒を出しながら、ボソボソと言った。

「はぁ? こんなもん山じゃなくて、丘みたいなもんだぞおい」

アデルはその言葉は無視して、旅のための地図を開いた。

 王宮で渡された地図は手書きらしく、とても丁寧に書かれているが、やけに古びた感じがする。

最近書かれたもののはずなのに。

アデルは小さな違和感を覚えた。

「・・・・ここが、怪物の洞窟」

アデルは地図の右はしのほうを指しながら呟いた。

「ああ。この辺が今居る位置だ・・・・・ふむ、まだ結構歩くな」

ディスパーはアデルから水をもらいながら横で言った。

「・・・・ディスパー、これは? 何か変なマークがあるんだけど」

アデルは目を細めた。

それはとても小さく、黒い染みのようであったが、なにやら怪しげな臭いを撒き散らしていた。

「なにかな。何か、髑髏みたいだけど」

アデルは地図に顔を近づけた。

――その瞬間だった。その黒い染みが突然素早く動き、アデルを物凄い力で引っ張っていこうとしたのだ。アデルは、何か考える余裕もなく、ただ本能的に引っ張る力とは反対のほうに抵抗した。ディスパーもなにやら叫んで、アデルを地図と反対方向に引っ張った。両方に引っ張られたアデルは、最高に気分が悪い。

「バチン!」

と、ゴムがちぎれるような音と共に、アデルはディスパーのほうに仰向けに倒れこんだ。

「・・・・・」

アデルは顔を真っ赤にし、息を荒げているディスパーをゆっくりと見上げ、無言の問いかけをした。

ディスパーはアデルをつかんでいた鉤爪を離し、地面に着地した。

「おいおい・・・・この地図に魔力があるだなんてお前・・・・一言も言ってなかったよな?」

反対に質問され、アデルは不意を打たれた。

「うん。で、でも――僕だって、こんなのが仕組まれているなんて、全然知らなかった」

アデルは地図の黒い染みのような所を睨みつけた。

「なんなの、これ?」

ディスパーはふうと息をつくと話し始めた。

「こいつは、異界にしかないはずの小さな・・・・うーん人間界で言うヒル・・・・みたいな奴だな、うん」

アデルは「ヒル」と聞いた途端、くらりと世界が反転し、気絶しそうになった。

それもそのはず、アデルはこの世で最もヒルと名のつくものが大嫌いなのだ。

 小さいころ、弟のアルと喧嘩をした日のことだった。悪知恵の働くアルが、悪戯でアデルのベットに近くの池で捕まえてきたのか、何十匹というヒルを入れたことがあった。そしてその日の夜、アデルがベットに入った途端、ヒルがいっせいにアデルの背中に吸い付いたのだ。それはもう・・・・言葉では言い表しようのない恐ろしさだった。

 アデルはその日から、ヒルを見ただけで飛び上がって泣き叫び、大パニックを起こしてまうようになったのだ。

「ヒ、ヒル?」

恐怖のあまり、アデルの声は震えていた。

「ああ。お前、ヒルが苦手なんだな」

ディスパーはアデルの心の中が分かったのか、ニヤニヤしながら言った。

「異界では、このヒルを移動手段として使っている。こいつに吸われると、指定された場所に行き着くんだ。でも――こいつは、誰かが魔力を使って行き着く場所を指定しないと、吸い付いた奴を異次元に放り出すんだ。この魔法を掛けられる奴は、相当の使い手だな。・・・・しかしこの世界にも、魔力を持つものは結構少なくなってきたからな・・・・おい、この地図を描いたのは王宮に居た奴の誰かだよな?」

ディスパーは真剣な表情で問いかけた。

「うん。多分・・・そのはず」

アデルは確信なさそうに小さく言った。

「・・・そうだとすると、王宮、もしくはこのトゥーマリアに、かなりの力を持ったお前以外の魔術師が居る可能性がある。ほぼ、確実にな」

「そうか。でも、トゥーマリアにはそんな人何処にもいないと思うけど。皆魔術師嫌いだし・・・。怪しいといえば、国王とか、あのティーナとか言う、王女ぐらいだと思うけど」

アデルは最後に見た国王の冷ややかな微笑を思い出しながら言った。

「ああ。あの国王と王女は魔術師の可能性が充分にある。ま、確信は無いがな。――とにかく今は、先に進もう。このヒルは俺が取り除いてやる。地図を開くたびにお前にパニック起こされたんじゃ、たまんないからな」

 しばらくして、一人と一匹は再び歩き始めた。地図によると、この辺りからは草や大きな木は殆ど無くなり、岩石と水だけの寂しい場所に入るらしい。

 アデルは、さっきの巨大トカゲと、あの憎たらしい「ヒル」のことを思い浮かべた。

またおかしな怪物どもが出てこなければいいけど・・・・

アデルはいやな予感がして、首をすくめた。






 そして、そのアデルの予感は、見事に的中することになる。

アデルとディスパーが、地図どおり何もない、寂しい道を黙々と歩き始めてからしばらくして、大きな湖のほとりに出た。水は、多少濁っていたもののなんとか飲料水として飲めるようなので、ここでアデルの水筒を満たそうと、荷物を降ろした。

「ふう・・・・やっと広い場所に出れたぜ。村とかの狭い場所は苦手でな」

ディスパーは広い湖の上を低空飛行でゆっくりと旋回しながら、ほっとしたように息を吐き出した。

「・・・・よかったね」

アデルはその様子を微笑ましい思いで眺めながら水筒を取り出し、湖のほうに屈み込んだ。固く閉めた蓋を開け、水筒を水の中に押し込むようにして、水を流しいれる・・・・。

 アデルの指先が、冷たい水に触れた。

その途端、湖に一つの大きな波紋が、物凄い勢いで広がる。

 それと一緒に大きな風も吹いて、辺りをざわめかせた。遠くの森で、物凄い数の鳥達が、一斉に飛び立ったような音がする。

 同時にドクン、とアデルの鼓動が大きく波打った。

アデルは瞬時に何かが起こると悟り、同じように表情を引き締めたディスパーと目配せをする。アデルはあまり音が立たないように、まだ空っぽの水筒を脇に置いた。何が出てきてもすぐに対応できる体勢をとって、身構える・・・・・・

どのくらいたったのだろうか。辺りは、全ての音をなくしてしまったかのように、カタリとも音をたてない。さっきまで優しくそよいでいた風も、木々の葉を揺らすのを躊躇うかのように、いつの間にか、消えていた。

アデルが一瞬、肩の力を抜いた。

「バッシャア!」

物凄い量の水飛沫があがり、アデルは少しの間、なにも聞こえなくなった。ディスパーも同様のようで、混乱したように水飛沫が落ち終わるのをひたすら待つ。アデルの姿も見えていないようだ。

何がなんだか、わからない。

 この状況では、何処から怪物が飛び出してきても、おかしくない。――アデルは不意に、猛烈な恐怖を感じ、ディスパーの姿を必死で探しながら、やみくもに、殆ど無意識に走り出した。途中で、何か固いものを蹴った感覚がしたが、気にならない。時折聞こえる不気味な水の音が怖さを掻き立て、アデルはいっそう足を速める。湖の周りを一周したかもしれない。此処は何もない岩場だから、何処も同じような景色に見える。もう自分が何処にいるのかさえ、解らなくなっていた。辺りを必死で見渡し、さっきの水飛沫が残した霧の中に、目を凝らす。ディスパーの姿は、今だに見当たらない。

怖い怖い怖い怖い怖い――――!

次第に浅くなっていく呼吸。焦ってはいけないことは、なんとなく解っていた。しかし、落ち着こうとしても、怖い、という思いが、どうしても付き纏う。肺が急に苦しくなって、アデルはやむなく足を止めた。心臓の音が、異常に耳に響く。足が小刻みに震えて、立っているのもやっとだ。

その時、しゅるっと、何かが足首を掠めた。

アデルはヒッと小さく声をあげ、また走り出しそうになる。やっとのことで理性を取り戻し、深呼吸を繰り返してから、用心深く足首に触れてみた。触った感触では異常は見当たらないが、アデルは念のために足首に目をやった。その途端、足首を掠めたものの正体が、明らかになった。銀色に煌く、縄のような太い糸の固まり。どうやらその糸は、奥のほうまで続いているようだった。アデルは用心しながらその先を目で追っていく。永遠に続くかのように、糸は奥へ奥へと続く。アデルは半ば無意識にその糸のほうへ足を踏み出していた。

「クスッ」

全身をくすぐるかのような、不気味な含み笑いが横を通り抜けた。

アデルは、足を踏み出したままの状態で硬直し、目だけを動かして笑い声の主を探す。

不思議なことに、恐怖心は少しずつ消えていき、アデルのいつもの五感が冴えてきた。ゆっくりと体勢を立て直し、辺りを見渡す。

不意に、背後に何かの気配を感じた。

アデルは瞬時に振り返る。その途端、アデルは驚愕と感嘆で、身体が止まってしまった。

 それもそのはず、銀色の糸の主は、上半身は人間、腰から下は、青色に煌く鱗で覆われていて、先のほうに尾鰭が付いている。そう――人魚だったのだ。縄のような物は、人魚のとてつもなく長い、髪の毛だった。

 銀髪の美しい人魚は、少し離れた岩に腰掛けて、アデルを警戒しながらも興味津々と言った様子で眺めている。

 もちろん人魚なんて存在しないと信じていたアデルは、現実逃避をしてしまいそうになったが、すぐに落ち着きを取り戻し、この世にはインプや変身人間だっているんだから、と必死で納得しようとした。その間に、人魚は徐々に警戒を解いたのか、乗っていた大きな岩からスルスルと、まるで人間が歩くように難なく降りてきて、アデルの顔をまじまじと見つめ始めていた。アデルは至近距離で見つめられ、人魚のあまりの美しさに見惚れてしまいそうになったが、無理矢理重い足を動かし、人魚から距離をとる。

 人魚は最初、アデルの行動に驚いたようだったが、すぐに悪戯っぽい笑みを浮かべ、信じられないぐらいの速さで再びアデルの目の前に来ていた。

クスクスと、人魚が笑う。アデルの驚いた顔を見て、愉快そうだ。アデルはムッとしたが、人魚の笑い顔に見惚れて、人魚から距離をとるのを忘れてしまった。

「あなた、魔法使いね」

その容姿とはあまりにもかけ離れた、キンキンといやに耳につく声。アデルはその声で、人魚の美貌の呪縛から解かれ、急いで出来るかぎり早足で後ずさる。その間も、人魚から目を離さなかった。

「フフ・・・そんなに警戒しないで」

人魚は今度はアデルと距離をとったまま、楽しそうにアデルを見ながら囁く。

「あなたは、魔法使い。そうでしょう?」

人魚はほんの少し顔から笑いを消し、にこやかな表情とはうらはらに、どこか冷たい目を向けた。

「だったら、なんだ」

アデルは強気な声に聞こえるように努力しながら、人魚の目だけを見ていた。

「あなたが、湖に触れた瞬間、湖全体に波紋が広がったわ。それはあなたが魔法使い、もしくは強い魔力を持った人物だということなの」

人魚は瞬きを繰り返し、アデルをじっと見つめた。

「・・・この湖はね、魔法使いの魔力を吸い取る力を持ってるの。その魔力を使って、大きくなっているのよ。今も、さっきのあなたから吸い取った魔力で、この湖はほんの少し成長したわ・・・フフ・・・ありがとね」

心底愉快そうに笑う人魚を見て、アデルはゾッとした。もう、人魚が美しいとは思わない。

「だからもし、この湖に落とされたり、間違って水浴びでもしてしまったら――あなた、おしまいね。もう魔法なんか、二度と使えなくなるわ。・・・でも今はまだ大丈夫、あなたは指先で触れただけだから、そんなに身体に変化はないはずよ・・・・でも、この先は、更に魔力がなければ通ることを許されない、罠の道。湖に魔力を全て抜かれて空っぽになったら、あなたは、絶対に進むことができない」

 人魚は歌うように言って、不気味な微笑みを浮かべながら締めくくった。アデルの反応を楽しむかのように、じっと見つめる。

 人魚から聞かされた、あまりに恐ろしい湖の正体に、アデルは顔面蒼白だった。もしもこの湖の水を、水筒に満タンに汲み入れ、それを飲んでいたら? アデルの魔力が吸い取られ、魔法が使えなくなる。―――これが、アデル一人の問題だったら、飛び上がるほど嬉しい事だ。しかし、国王は、アデルの魔力を見込んでこの旅へ行かせた。アデルと、家族の命を守る代償に。魔力がなくなれば、アデルを生かしておく必要が無くなる。そしてアデルを旅へ行かせるための脅しの道具でしかない家族も、もちろん必要がなくなるのだ――頭の中を、恐ろしい光景が何度も駆け抜ける。

「魔力がなくなるのが嫌なの?」

すぅっと、頭の中に入ってくるような、さっきとは違う甘い声。アデルはハッとして、目の前の人魚を見た。人魚はニイッと悪戯っぽく笑ったかと思うと、突然アデルの前から消えた――と同時に、湖の方で、小さく水飛沫が上がる。アデルが目をやると、人魚が肩までを水面に出し、こちらを見ていた。銀色の髪が、まるで水草のように水中を覆って揺れ、きらきらと反射する。顔にはまだ、悪戯っぽい笑みが残っていた。

「あなたは、自分から魔力がなくなるのが嫌なのね?」

人魚が水の中を優雅に泳ぎながら、もう一度、アデルの頭の中で繰り返す。

どうしようもなく甘い声だ。

「それはどうして?」

人魚は随分深いところまで行って、アデルを振り返った。アデルは無意識に人魚を睨むように見つめ、拳を握り締めた。

人魚はそんなアデルの様子に怯むこともなく、いずれも楽しそうに眺め、また小さく笑う。

「あなたには、守りたい人がいる―――」

そのときアデルは、湖の異変に気づいた。人魚を中心にして、水が渦を巻き始めていたのだ。人魚は気づかれないようにしているのか、後ろ手で何かを隠すような仕草をしているのが、なんとなくわかる。アデルは深呼吸をして、人魚を警戒しながら、人魚の背後に回ろうとじりじりと足を動かし始めた。人魚は渦を作るのに夢中になっているようで、アデルへの注意が少し薄れているようだった。

「その人を守るために、魔力がどうしても必要なんだわ」

人魚は上の空で続ける。

「・・・・デルッ・・・アデル!」

アデルは背後の声にビクリと肩を震わせたが、声の主がわかると、人魚に気づかれぬよう、唇をあまり動かさないようにして応答した。

「ディスパー! ・・・・状況は、わかるよね?」

「ああ。少し前から、お前とあの人魚の話を聞いていた」

「・・・・人魚は、湖に何かしてるみたいなんだけど、この位置からじゃ手元が見えない。君が飛んでいって、見てくることはできる?」

アデルは後ろを見ずに、呟くように言った。人魚は、気づいていない。

「ああ――任せろ」

ディスパーは、答えると同時に音も無く茂みから飛び出した。

「守りたいものがあると、人は弱くなるのよ。あなたもそうね?」

人魚の声が、頭に響く。ディスパーが、人魚の何メートルか上空に居るのが見えた

「僕は弱くない。あなたが言ったように、魔力を持ってる」

それを聞いた人魚は、待ってましたとばかりに大声で嘲笑った。

ディスパーは、人魚の背後に回り、手元をじっと見つめている。アデルは人魚に気づかれぬように、茂みに背を向けたまま、ほんの少し、身をかがめた。

「魔力なら、私だって持ってるわ。きっと、あなたよりもたくさんね」

「・・・・ならどうして、あなたは湖に魔力を取られないんだ?」

アデルは言いながら、すぐ近くにあった小石を指で引き寄せ、掴んだ。人魚の視線を伺いながら、掴んだ手をさり気なく後ろに持っていく。

 こっちの準備はできた。アデルは人魚の背後を盗み見て、こうもりの姿を探した。

「それは、私がこの湖の主だから。・・・湖の主には、湖の弱点が見えるのよ。だから、湖は主の力を吸収できない」

アデルはその言葉で、ほんの少し人魚に関心を戻した。

 人魚は笑みを浮かべたまま、しっかりとアデルを見ている。心臓が、びくりと波打った。アデルは一瞬、ディスパーの存在に気づかれたかと思ったが、もう人魚の近くにディスパーはいなかった。

「湖の主? 湖の弱点? 生きてもいない湖に、弱点なんてものがあるのか?」

「あるわ。力をもった湖ならね。この湖も、遥か昔はただ自然にできた、普通の湖。それを、あの人が魔法をかけたことによって力をもち、意志をもったのよ――。だからこの湖は、自分の生みの親である、あの人の力を吸収することができない。あの人の力の一部を受け継いだ、この私にもね。――偉大なあの人は、孤独だった私に湖の主という居場所を与えてくださった」

人魚は、瞳を輝かせながら、うっとりと宙を見つめ、少しの間、湖にもアデルにも注意をそらした。―――その瞬間を、ディスパーは逃さなかった。

 何処にいたのか、目にも留まらぬ速さで茂みから飛び出し、人魚の喉笛に鋭い牙を立て、アデルに金色の瞳を向ける。人魚の真っ白い喉から、真っ赤な血が飛沫をあげた。しかし、地面におちると、青く変化し、灰色の煙をあげたる。アデルはそれを尻目に、人魚の背後に全力で走り、狙いを定め握り締めていた小石を思いっきり投げつけた。小石は人魚の、後ろに組んでいた手に当り、かすり傷を負わせた。それだけでも十分効果はあったようだ。人魚は突然の出来事に身体がついていかず、思わず動かしていた手を止めた。すぐに、人魚の背後に出来つつあった大きな渦が、小さく萎んでいく。アデルは萎んでいく渦を見やり、ほっと顔面に笑みを浮かべながら、ディスパーを見た。途端にその顔から笑みが消える。人魚が力づくで、喰いつくディスパーを引き剥がし、怒りで恐ろしく歪んだ顔をこちらに向けるところだった。喉から血が流れ出していたが、人魚は気にする様子もない。よく見ると、さっきまで普通だった両手から水かきが生え、爪がどんどん伸びて鋭い刃物のようになっている。

ノーザンビレッジの男達を八つ裂きにした爪だ―――

アデルは咄嗟に思った。

「おのれ、魔術師の若造が! よくもこの私を出し抜いてくれたものだ。覚悟しろ!」

物凄い水飛沫と共に、人魚がこちらに迫ってくる。

 アデルの頭の中は、真っ白になった。なんとか体勢を立て直したディスパーが、遠くのほうで何かを必死で叫んでいた。アデルは朦朧とした頭で、その口の動きが、「逃げろ!」といっているのをなんとか読みとった。瞬間、ほぼ無意識に足が動き、間一髪のところで人魚の鋭い爪から逃れた。しかしその勢いで、大きな波がまともに全身にかかり、服が水を吸って重くなる。アデルは上着を脱いで、地面に捨て身軽になると、死に物狂いで人魚から遠ざかった。幸い此処は、岩石だらけで隠れるには絶好の場所だった。アデルは一番近い場所にある大きな岩陰に身を潜め、心臓を落ち着かせようと試みた。人魚はすでに次の攻撃体勢になっていて、真っ直ぐにアデルに狙いを定めている。アデルが何か考える前に、猛スピードで突っ込んできた。本能的に身体が反応し、咄嗟にアデルは、湖の方へ飛びだした―――

しまった・・・!

そう思ったときには、遅すぎた。アデルは水面にしたたかと全身を打ちつけ、そのまま湖に入ってしまったのだ。

「ハハハハハハ! 馬鹿な奴だ。自分から湖に飛び込みおって! 魔法が使えなくなると話したばかりなのに。フフ・・・こうなればもう何もできまい・・・十分に魔力が吸い込まれてから引きずり出して、たっぷりいたぶりながら殺してやる・・・・ハハハハハ!」

アデルが沈んでいくのを、人魚は気が狂ったかのように笑いながら眺めた。

アデルはなんとか意識を保ち、必死に湖から脱出しようともがいていた。しかし、いくら手足を動かしても、水面にたどり着くことができない。焦る気持ちがアデルの身体を動かし、さらに体力を消耗させる。今のところ身体に変化はないが、もうそろそろで湖に力を吸われてしまうだろう。

早く――早く湖から出ないと―――!

 不思議なことに、水の中だというのに、アデルの意識は薄れながらも消える気配が全くしない。力を抜き終わるまで、死なせないということか。

 水面近くで、人魚の笑い声が響く。異様なほど耳に残る、嫌な笑いだ。

徐々に身体に力が入らなくなる。

数分もすると、アデルは完全な無気力状態になり、諦めてゆらゆらと水底につくのを待った。少なかった酸素はとっくに溢れ出し、水面に泡を作っている。息が苦しいとも思わなかった。家族やディスパーのことが頭に過ぎったが、なんの感情も浮かばない。段々と、瞼が重くなっていく。

僕は、死ぬんだろうか

自分の中で、そうだ、と声がしたように思えた。

 横目でちらりと辺りをみると、そろそろ底に着く頃のようだ。同時に、身体の奥底の方にあった力が抜けていくような気がし始めた。湖が、アデルの魔力を吸収しようとしている。ゴクリ、ゴクリと、湖が魔力を飲み込む音が聴こえた。幻聴だとわかっていても、おぞましいと感じる。

 アデルの心臓が、トクン、と波打った。しばらくして、耳も聞こえなくなっていく。さっきまで響いていた人魚の笑い声も、遥か遠くで吹く風のようだ。アデルは、自分はもうすぐ死ぬのだと、確信を得た。

 案外、苦しまずに死ねそうだ。そんな呑気な気持ちが、身体全体に広がっていく。

もうなにも感じない――――心臓のリズムが、徐々に遅くなっていく。

 そして、最期にひときわ大きく波打つと、動かなくなった―――




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