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18/42

三

*



 彼の元を離れる事を決めた私は、その日の内に簡単な荷物をまとめて、彼の家から飛び出しました。


 手紙などは残しませんでした。出来る限り私が彼の家に居た痕跡を無くしました。


 あれ以上彼に辛い思いはして欲しくありませんでしたから。


 そして、彼の元を去った私は育友荘の203号室を借り、アルバイトなどをして生計をたてていました。


 けれど、私は彼を幸せにするために生きてきた存在で、毎日何かをしようとしても何をすれば良いか分かりませんでした。


 ですから私はアルバイトしていない時間をつぶすために、毎日毎日歩いていました。


 考えました。私は何をすれば良いのか? 何をすべき存在なのか? 彼を幸せに出来なかった私は存在する意味が無いのでは無いか?


 そんな事を毎日毎日考えました。


 どうしても私自身に価値が無いとは思いたくありませんでした。


 いつもいつもそんな事を考えていたある日、アルバイトが終わった時だったと思います。


 私はふと思いました。


 彼ではなくても、誰かを幸せに出来れば私は存在しても良いのではないか。


 存在の価値を持てるのではないか。


 そう、ふと思いました。


 それからの私は誰かを幸せにしようと、毎日毎日歩いている時間に私が幸せにする事を許してくれそうな誰かを探していました。



 一人目の方は、あるビルの屋上に居た女性でした。


 彼女には愛し合っていた男性が居ました。


 とても幸せな日々を送っていたらしく、大恋愛の末、結婚を間近に控えていたようです。


 けれど、そんな幸せの絶頂に居た彼女は唐突に不幸のどん底へ叩きつけられます。


 彼女と将来を誓い合っていた男性が唐突に死んでしまったらしいのです。単純な交通事故だったようでした。


 私はそんな、あるビルの屋上で見つけた彼女にあなたに言ったように『幸せにさせてください』と、頼みました。


 彼女は疲れたように笑って、どうでも良いように頷きました。


 私はその日から『彼』にしたのと同じ様に彼女に尽し続けました。


 彼女に笑ってもらえるように私は尽し続けました。


 けれど、半年ほど経ったある日の夜の事です。彼女は私に言いました。


『幸。あんたじゃ私を幸せに出来ないよ』


 私は震えました。また何か私は間違え、至らなかったようでした。


 彼女はそのまま言葉を繋げました。


『でも、ありがとう。私はもう大丈夫じゃないけど、とっくに手遅れだけど、大丈夫だから。幸、あんたはもう私に尽さなくて良い』


『いえ、私はあなたを幸せにしたいです。尽させてください』


 彼女はゆっくりと首を左右に振りました。


『幸、私はあんたの事を何も知らない。何であんたがあの日私を見つけられたのかも、何であんたが私にこんなに尽してくれたのかも、何も知らない。けどね、一つだけ確かな事があるよ』


 彼女は、それはね、と一息入れ、


『幸、あんたの私を幸せにするって望みは絶対に叶う事は無いよ』


 だから、と彼女は続けました。


『幸、あんたは他の人を探しな。私みたいに手遅れじゃない人を探しな』


 私は彼女を幸せに出来ませんでした。



 彼女に最後の別れを告げるとき、彼女は言いました。


『私はあんたと会えて楽しかったよ』


 彼女は何かを諦めたような悲しげな笑みを浮かべていました。


 私は幸せに笑ってもらいたかったです。




 二人目の方は、夜、電柱に抱きついて泣いていた男性でした。


 彼はその日酷く酔っていました。支離滅裂な脈絡の無い言葉の羅列を繰り返していました。


 それらを読み取ってみましたら、どうやら会社で何かのプロジェクトの失敗を押し付けられたようです。


 彼は悔しそうに悲しそうに泣き崩れていました。


 私は彼にもまた、彼を幸せにさせてくださいと頼みました。


 彼は私に罵声を浴びせました。


『お前に俺の何が分かる!』


 そう叫び、そしてまた泣き崩れました。


 私はもう一度彼に言いました。


『頼みます。私にあなたを幸せにさせてください』


 彼は呂律が回ってこなくなった舌で言いました。


『……じゃあ、やってみろよ!』


 その日から私は彼の家を毎日毎日訪れ、彼が望むように尽し続けました。


 また、毎日夜、彼の話に付き合いました。主に彼の会社での事を聞きました。


 彼は会社に居場所が無いと言っていました。彼は必死に毎日毎時間会社で働き、周りと溶け込もうとしているというのに全てが空回りしていると言っていました。


『幸、僕はね、他人というものが怖いんだ。他人は僕の気持ちや内面を何も考えないで、僕に話しかけてくる。でも、それを我慢して、いざ僕から話しかけると、彼らはみんな嫌な顔をするんだ』


 そのような事を良く彼は言っていました。そしてそれに続けて良くこのような事も言っていました。


『でもね、僕は独りで居る事が一番怖いんだよ。矛盾しているね。だから僕はね、毎日会社に行くんだ。あそこに居る間はどんなにきつくても会社という組織の一員として孤独じゃないからね』


 私はこのような時決まって彼に問い掛けました。


『会社以外に孤独じゃなくなる場所は無いのですか?』


 彼は決まって寂しそうに首を横に振りました。


 このような彼との日常が大体一年ほど続いたある日の事です。彼は言いました。


『幸、君は僕を幸せに出来ないよ』


 私は呆けました。何故なのか分からなかったからです。彼は私が出会った頃に比べて良く笑うようになっていましたから。私は今度こそ誰かを幸せに出来ると思っていました。


 何も言えない私に彼は言葉を続けました。


『僕は君に感謝したいんだ。僕はこの一年君といれて楽しかったし、嬉しかったよ。でもね、君は僕を幸せに出来ないよ』


 私は聞きました。


『……何故、ですか? 私はあなたの居場所には成れないんですか?』


 彼は寂しそうに頷きました。


『幸、居場所を作れない人も居るんだ。僕は君の事が好きだよ。けどね、多分君は僕の事を見ていない』


 私は目を見開きました。彼が何を言っているのか分かりませんでした。


『私はあなたを見ています。あなたの幸せのためなら何でもします。それでも私はあなたの居場所には成れないのですか?』


 彼はまた笑いました。寂しそうな笑みでした。


『ごめんね。僕がもう少し勇気があるなら変わっていたのかもしれないんだけどね』


『私の何が、間違っていたのですか? 至らなかったのですか?』


 彼は言いました。


『いや、幸、君は何も悪くなかったし、間違えていなかったし、至らなかった事は無かったよ。悪かったのは、僕だったよ』


 私はもう何も言えませんでした。



 彼と別れるとき、彼はこう言いました。


『幸、君が大好きだった』


 彼は先の彼女と同じ様に寂しげに悲しげに笑っていました。


 私は幸せに笑って欲しいというのに、何故私は幸せに出来ないのでしょうか?

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