二
ドアが閉まり、彼が離れていく足音が聞こえ、私は思っていました。
口に出していたかもしれません。
『私はあなたを幸せにできないのですか?』
『私はあなたを幸せにしたいです』
『けれど、私ではあなたを幸せにできないのですか?』
『どうすればあなたは笑ってくれますか?』
『どうすればあなたは幸せになってくれますか?』
『私には何ができますか?』
『あなたを幸せにできない私は、あなたの幸せのために何ができますか?』
『あなたにそんな表情をさせてしまう私があなたを幸せにするために何ができますか?』
そんな自問を私は何度も繰り返しました。
そして、私の思考は当然の方向に向かっていきました。
『私には何もできないのですね?』
『あなたの幸せのための私には、あなたの幸せのために何もできないのですね?』
『あなたは私を見ると辛いのですね?』
『私はあなたをそんな表情をさせてしまうほど不幸にしてしまうのですね?』
『あなたのための私はもうあなたのためではないのですね?』
『あなたのためだった私はあなたを苦しめるのですね?』
『……なら、』
『……それなら、』
『……それならば、』
『私はあなたから離れるべきですね?』
私の思考は、言葉は止まりませんでした。次々と言葉が生まれてきます。
『安心してください』
『これ以上、あなたの幸せを苦しめません』
『あなたを苦しめる出来損ないはすぐに姿を消します』
『だから、』
『ですから、』
『今すぐにとは言いませんから、』
『また幸せそうに笑ってください』
『幸せになってください』
私は彼の元を去る事にしました。
*
ここで幸は一度話を切った。
「……ふう」
彼女にしては珍しく息を吐いた。思えば今までで一番長く喋ったのではないだろうか?
「疲れたか?」
「いえ、少し長く話し過ぎましたから」
幸は無表情のままに無機質な声で返した。
佐野は携帯電話を取り出し、時刻を見てみると既に正午を回っていた。
「じゃあ、いい感じに昼時だし、昼飯食べよう」
「分かりました」
彼らはずっと座っていたベンチから立ち上がり、
「前行った喫茶店で良いか?」
「はい」
慣れた距離と歩幅で歩き出した。
佐野と幸は、佐野が今朝青山と一緒に居た喫茶店に入り、適当な席に腰かけていた。今は彼らが頼んだメニューが届くのを待っているところである。
しかし、ただ何もせず待っているというのも味気ないものなので、佐野は幸と話す事にした。話題は先ほどの幸の話だ。
「幸の言ってた『彼』ってどんな人だったんだ?」
「どんな人とは?」
幸は軽く小首を傾げた。狙っていないであろうところが彼女らしい。
「明るい人とか? 怖い人とか? そんな感じ」
「…………そうですね。『彼』は……、『彼』はいつも笑おうとしている人でした」
『彼』は幸に中々面白い評価を受けているようだ。どんな人か? という問いに笑おうとしている人という妙に物悲しい表現をされる人物を佐野は初めて聞いた。
「笑おうとしているって事は笑えなかったって意味か?」
「……いえ、誰の前でも『彼』は笑っていました。ただ『彼』は普段は無理をして笑っていました」
「ああ、周りに合わせて頑張って笑うってヤツか」
「はい。だから『彼』は無理に笑わないですむように私を求めたのです」
どうやら『彼』もまた幸に縋っていたらしい。では、何故そんな『彼』が幸を受け入れられなくなったのだろう?
自分が縋っている相手が自分から離れる事は何よりも恐ろしい事であるはずだ。
その答えは部外者が出せる物では無いが、佐野は彼としては非常に不本意で残念な事に部外者ではなくなっている。青山と幸の問題に既に巻き込まれているからだ。
そのため、佐野は『彼』が本当に青山であるならば、何故『彼』が幸の事を受け入れられなくなったのか、その正否は気にしないとして彼なりの答えは出せていた。
「じゃあ、幸の話のとおり、初めはその『彼』は幸の前では無理しないで笑ってたのか?」
「そうだったと思います。途中からは話のとおり辛そうな表情に変わってしまいましたが。私の何かが至らなかったのでしょう」
佐野は彼の考えた、『彼』が幸を受け入れられなくなった理由を目の前の女に話すかどうか考えた。
言う事は簡単で、彼なりに自分の出した答えは正解だとは思っているが、その事を彼女に伝える事が良い効果をもたらすかは確信が持てなかった。
自分の出した答えが、彼女にとって薬と毒どちらに転ずるか分からなかった。
幸は真っ直ぐに歪んでいる。自分の言葉が無責任にその歪みを深めてしまうならば、今は黙っているほうが吉だ。
少なくとも幸の事を背負おうと思えるまで、彼の出した答えを彼女に言うべきではないと、佐野は判断した。
「……まあ、その『彼』って人も大変だったんだろうな」
「そうです。『彼』はとても大変でした」
と、ここで佐野と幸が頼んでいたメニューが届いた。日替わり定食AとBである。
「じゃあ、話の続きは食ってからにするか」
「はい。そうしましょう」
喫茶店での食事を終え、彼らは先ほどの公園のベンチを再び訪れ、そこに腰かけた。幸の話の続きを聞こうと思ったのである。
時刻は十三時半ほど、朝から天気の崩れていない青空を見ながら、佐野は幸に話しかけた。
「……じゃあ、さっきの話の続きをしてもらって良いかな?」
「はい。では、私が『彼』の元を離れる事を決めたところから話します」




