一
……まあ、こんな経緯から私は幸の過去を多少なりとも知る事となるのですが、彼女の話はその時の私には到底理解できるものではありませんでした。けれど、その彼女の話がこの私が出会った非日常的日常の根幹に関る事になるのですから不思議な事も起こるものです。まあ、幸の話をとりあえず適当に書く事にしましょう。……
私が目覚めた時、私の前にはある人が居ました。
その人を幸せにする事が私の目的でした。
彼が望む事は全てやりました。
炊事洗濯から普段の話し相手まで彼が望まれた事の全てを私なりに全力でやりました。
私が考えられる彼の望む事全てをやりました。
彼を幸せにしようと、彼の心を満たそうと、彼が笑ってくれるように尽し続けました。
最初はとても喜んでくれていたと思います。彼はいつも笑っていて幸せそうに見えました。
私はそんな彼を見て、私の役目を果たす事が出来ていると思っていました。
けれど、そんな日常が続いたある日の事です。彼は唐突に私に疑問を投げかけてきました。
『幸は、僕がして欲しい事をするの?』
そう聞いてきました。
『はい。私はあなたを望む全てを行います』
当然私はそれに頷きました。
それが私という存在の目的であり存在理由だったからです。
その時私は答えを間違えてしまっていたのでしょう。
彼が望む言葉を答える事が出来なかったのです。
彼は続けて私に問い掛けました。
『幸、何か僕にして欲しい事はある?』
私は答えました。
『いえ、私の事は気になさらないでください。私はあなたを幸せにするための存在ですから』
私は彼の幸せな姿を見られれば、それで充分でした。
それで役目を果たせていました。
『……そう』
けれど、どうやら私は決定的な間違いを犯していたようです。
彼は私の言葉を聞いて悲しそうに眼を細めてしまいました。
そんな表情を見るのは初めてでした。
いつも私の前では幸せそうに笑ってくれている彼が、切なそうに悲しそうに哀しそうにするのです。
私は酷く狼狽しました。彼が何故そのような顔をしたのか分からなかったからです。
私の言葉の何が彼の心を哀しませたのか、分かりませんでした。
ですが、何故そのような哀しげな顔をするのか聞こうとする前に、彼は歩いて何処かに行ってしまいました。
今思えば、私は彼を引き止めてでも、彼に聞くべきでした。私の何が間違っていたのか聞くべきでした。
そうしていれば、彼があそこまで苦しむ事は無かったかもしれませんでしたから。
それからです。彼の私への態度は日に日にぎこちないものになっていきました。
私には訳が分かりませんでした。少し前では本当に幸せそうにしていた彼が悲しそうな辛そうな苦しそうな顔をするのです。
彼の笑みはぎこちなく、無理やりにさえ見えました。
私は必死でした。彼が幸せを感じてくれるために、より一層彼に尽し続けました。
なのに、私が彼に尽せば尽すほど、彼はますます悲しそうで辛そうで苦しそうな表情をするのです。
まるで蜘蛛の巣でした。もがくほど絡みつく糸のようでした。
とうとう彼は私の前で笑わなくなりました。私を見るたびに哀しそうで苦しそうで辛そうな表情をするようになりました。
ですけど、私は彼に尽さないわけにはいきませんでした。
いえ、尽す以外に何をすれば良いのか分かりませんでした。
砂の城で暮らすような日常がしばらく続きました。
私は彼に前のような幸せそうな表情をしてもらおうと、より一層彼が望むであろう事をしようとしました。尽そうとしました。
ですが、その頃にはもう私は彼が望む事が分からなくなっていました。
少し前なら本当にただ息を吸うように彼の望む事が分かっていたのに、彼の何もかもが分からなくなっていたのです。
そして、砂の城がとうとう壊れる日が訪れました。
十月十五日の水曜日でした。
その日、私はいつものように彼のために作った食事を彼と共に食べていました。
彼はこう私に聞いてきたのです。
『幸、お前は何か僕にして欲しい事はある?』
久しぶりに彼から話しかけられました。
私はとても嬉しかったのです。
これで彼がまた笑ってくれるかもしれないとさえ思いました。
私は答えました。一つしかありえませんでした。
『私は、あなたに幸せになって欲しいです』
私にはそれしか思いつきませんでした。彼が幸せになってくれるならそれで満足だったからです。私は充分嬉しかったからです。
彼の顔が歪みました。今までで一番哀しそうで辛そうで苦しそうな顔でした。
私は彼が望む言葉を答えられなかったようで、決定的な間違いを犯したようです。
その時、私は必死で言葉を探しました。彼がそのような表情をしないで笑ってくれるような言葉を探しました。
何の言葉も見つかりませんでした。彼が求めるものが分かりませんでした。
彼は、その場で俯きながら呟くようにこう私に言いました。
『……僕は最近、幸と居ると辛くて苦しい』
私は一瞬息を呑んでしまいました。何も考えられませんでした。陳腐な表現ですが頭が真っ白でした。
気づいたら私の口は言葉を発していました。何故そんな事をしたのかは分かりません。
『……何か私に至らない点がありましたか? 教えてください。すぐに修正します』
けれど、彼はその顔をますます深く歪めてしまいました。
『ごめん』
『……何故、謝るのですか? お願いですから教えてください。必ず望むように修正します。私にあなたを幸せにさせてください』
私の声は震えていました。本当に何故なのでしょう。ただ息を上手く吸う事が出来ず、体が震えていたのは覚えています。
彼は言いました。最後の言葉を言いました。
『ごめん。幸じゃあ僕を幸せにできないよ』
砂の城が完全に崩れ落ちました。
けれど、私は諦め悪く、言葉を続けました。砂の城を作り直そうとしたのでしょう。
『お願いです。教えてください。私の何が至らないのですか?』
彼は表情を変えないまま、立ち上がって、何も言わないで、彼を見つめる私に背を向けて、歩き出しました。
『あ』
待って、と言う事が出来ませんでした。
待って、と引き止める事も出来ませんでした。
待って、と立ち上がる事さえ出来ませんでした。
ただ、私は遠ざかっていく彼がドアを開けて部屋を出て行くまでずっと彼の背中を見つめていました。