一
……その日以降、私は幸という相手にある程度心を許してしまいました。私と十八年以上共に暮らしていた家族の皆様は佐野幸喜という人間がどれほど他人を信用しないかを知っているはずです。そんな私が幸という人間に気を許したのですから、我ながら驚いていました。そこまで幸という人間に害意を感じられなかったのです。むしろ誰かを幸せにする事にとり憑かれた彼女を少々可哀相と思うぐらいでした。
まあ、話を戻します。そんなこんなであの雨の日から九日ほど経った六月十六日土曜日、この話にまた大きな出来事が起こります。今度は見ず知らずの男が私の家を訪れてきたのです。正直、私の一人暮らしにイベントが起こりすぎだろうと思いました……
六月十六日、土曜日。
数度のチャイムの音とドアを叩く音で佐野は目が覚めた。何だ? と思いながら携帯で時間を見ると朝六時半、幸は基本的に九時頃に佐野の家を訪れるため、彼女が来たのにしては早すぎる。
そもそも幸はチャイムを鳴らしたり、ドアをノックしたりしないだろう。
「……」
佐野は眠そうに眼を細めながら眼鏡をかけ、ジャージ姿のまま玄関に向かった。
眠気に襲われながらも嫌な予感がひしひしと彼は感じた。
「……はい。誰でしょうか?」
そう佐野がドアの向こうの主に尋ねると、寝惚け混じりの彼の耳に聞き慣れない男性の声が届いた。
他人と話す事に慣れていない事が伺える声だった。
「すいません。あの、最近ここを訪れている、幸について、話が、あるのですが」
「……」
厄介な客である事は明白であり、佐野は軽く頬を掻いた。
嫌な予感は嫌な時に当たるから嫌なのだ。
佐野は幸と始めに会った頃に彼女と訪れた喫茶店に入り、先ほどの男と向かい合って座っていた。
佐野の前にはミルクティー、男の前にはコーヒーが置かれている。
男は目元を覆うほど髪を伸ばしており、二十代中盤から後半程の年齢のようである。
男からは声の通り、人と話すのが苦手そうな印象を受けた。
「で、とりあえず聞きましょう。あなたは誰ですか?」
男は小さく頷き、短く区切りながら口を開いた。
「私は、アオヤマタカユキと言います。青い山に、考える幸せ、と書いて青山孝幸と言います」
「佐野幸喜。佐藤の佐に野原の野、幸せに喜ぶ、で佐野幸喜。とりあえずよろしくお願いします」
青山と名乗った男は軽く頭を下げ、おもむろに口を開いた。
「佐野さんは、幸について、何処まで、知っていますか?」
佐野はその言い方に何処かおかしい物を感じた。何処も変な言い方では無かったが、日常生活ではあまり聞かない言葉だ。
どこぞの探偵映画のセリフである。
まあ、気にするほどの事では無いため、佐野はそのまま話を続ける事にした。
とは言ったものの、出会って三週間強経ったとはいえ、佐野が幸について知っている事は極僅かだ。
「そうですね。幸は誰かを幸せにしようとしているって事ぐらいは知っていますが、それ以外に知っている事はありませんね」
その言葉に青山は〝やっぱり〟と小さく呟き、先ほどよりも硬い表情だ。
「幸は、あなたを、幸せにしようと、しているんですね?」
佐野はミルクティーを一口啜った。青山の様子から何処か長い話になる事を予感したからだ。
「ええ、もうかれこれ一月ぐらい前から俺のところに毎日来ていますね」
「……幸は、幸せそうですか?」
青山の目はとても不安げだった。
「それを俺に聞かれても」
佐野が幸の幸せについて断言できる事は何も無く、この質問に明確な答えを言えるはずが無い。また、これは彼が判断して良い事柄では無いと思っていた。
佐野は本人以外がその者の幸せを語るなど傲慢にも程があると考えているからだ。
しかし、青山は質問を続けた。
「佐野さんの、眼からで、良いんです。あなたの眼から、見て、幸は、幸せそうですか?」
彼の眼はとても真剣で、不安そうで、悲しそうである。
当然の事ながら、この質問に答える義務も義理も佐野には何一つ無い。
けれど、彼は彼なりに考える事にした。義務も義理も存在しないが、別にしてはならない事では無い。
佐野の眼から見て幸は幸せそうであっただろうか? 幸せなのだろうか? 〝あなたを幸せにさせてください〟この言葉をまるで毎日の挨拶のように繰り返し続け、あの雨の日震えるほど体を冷え切らせた彼女は。
「……俺が一度でも俺を幸せにしてくれと頼めば、幸は心底喜んで、幸せを感じるんじゃないでしょうか?」
それなりに苦痛に感じない程度に考えた結果の言葉だった。
「……そう、ですか。幸は、今日も、佐野さんのところを、訪れるのですか?」
「まあ、おそらく後一時間ぐらいすれば来ると思いますよ」
時刻は大体八時になるといったところだ。
と、ここで青山が今度は深く頭を下げた。
「佐野さん。お願いします。これから先、私に定期的に、幸の事を、教えてください」




