五
時刻は二十三時ほど、佐野と幸はタクシーの後部座席に座り、彼女の家へ向かっていた。佐野が居る必要は全く持って無いのだが、彼個人として幸が家に帰るのを見届けたかったのだ。
幸に干渉し過ぎている。佐野はそれを自覚し、改めるべきだとも思っていた。しかし、どうにも佐野は幸という相手を放っておく事が出来なかった。
「…………」
幸は申し訳なさそうに――ただし顔は無表情のままで――視線を彼女の膝に向け、佐野も何も言わずその左隣で外の景色を見ていた。
飲み会でもなければ出歩かない夜の風景は何処か寂しく魅力的でもあった。
数分ほど経ち、タクシーが、昔から建っている事が見て取れる雨漏りしそうな屋根を持つアパートの前で停車した。看板には育友荘と味気ない文字が書かれている。
「……幸、ここ?」
「はい」
幸は小さく頷いた。
「……着きました。お代は1250円になります」
佐野は財布からお札を二枚運転手に渡し、お釣りの小銭を受け取った。
「あ」
幸が小さく声を出したがとりあえずはそれを無視し、佐野はタクシーから出て傘を広げた。
「入れ」
未だ彼のジャージを着たまま、幸が階段を上り、203号室と書かれた部屋の前で立ち止まった。
「ここです」
幸はジャージのポケットから簡素な鍵を取り出し、ドアを開けた。
「上がってくださいませんか? 今日のお詫びをさせてください」
彼女は無表情に佐野を見るが、時刻はすでに二十三時を越え、しばらくすれば日を跨ぐ。
下手に長居をしたら佐野は帰れなくなるだろう。
「いや、止めとく。今日はもう遅いし」
佐野の言葉に幸は一瞬息を吸い込んで、口を閉じた。
「……そうですか。……今日は本当に申し訳ありません」
「今日一日で何回謝ったんだろうなお前?」
苦笑交じりで佐野は笑うが、幸の雰囲気は硬いまま、いや、暗いままだった。
気付いたら佐野は口に出していた。
「…………また来いよ」
いや、彼なりにもしかしたら多少の考えを行っていたのかもしれないが、自然とその言葉が佐野の口から出ていた。
幸の無表情のままだが、どこか驚いている様に佐野は思った。
何となく佐野は口元を笑わせた。
「んじゃ、とりあえず、またな」
彼女が口を開く前に佐野は言葉を紡ぎ、そのまま彼女に背を向けて階段を歩き出した。
「……また、です」
階段を下る直前、そんな言葉が聞こえた気がした。
六月八日、金曜日。
時刻は十九時十五分。佐野はいつものように自転車を走らせ、セセラギ荘に帰ってきた。
(あ、いた)
佐野の部屋の前で青いワンピースを着た女がこちらに背を向けて立っていた。どうやら幸は言葉通りまた彼の家を訪れたようだ。
やや足早に階段を上り、佐野は幸に声をかけた。
「よ、一日ぶり」
幸は昨日の緩慢な動きとは違い、いつものどおりの速さで佐野に体を向け、頭を下げた。
「……こんばんは。昨日は申し訳ありませんでした」
「まあ、気にするな」
佐野が苦笑混じりにそう言うと、幸は何故か口を閉じた。
どこか迷っているようにも見える。
「……どうした?」
幸は少々深く息を吸って、口を開いた。
「……あなたを幸せにさせてください」
いつもよりも硬い響きを持っているように感じられた。
それに佐野は何故か少しだけ嬉しくなり、彼なりの苦笑でこう言った。
「遠慮します」
「……そうですか」
いつものように残念そうにも感じられない無機質な声だ。佐野はそれに今度は少し笑い、こう言った。
「せっかくだ。散歩がてら夕飯でも食べないか?」
「ご一緒します」
彼女は頷き、佐野は玄関のドアを開けて、彼のショルダーバックをその中に置いた。
「んじゃ、行くか」
「はい」
彼らは慣れた歩調で歩き出し、佐野は幸が自分の隣に居る事を心地良く感じ始めていた。




