四
あれから二時間ほど経ち、既に時刻は夕方になった。窓の外からは未だに雨粒が地面を叩く音がしている。
この二時間得にやる事も無かった佐野は、幸の傍らで椅子に座りながら小説を読んだり、また台所でお粥を作ったりしていた。誰のためかは言うまでもない。
彼が今読んでいるのは良くある異能力物のライトノベルで、ちょうどラストシーンである主人公がヒロインを助けるシーンだ。王道展開万歳。
「…………」
と、薄らと瞳を開けて幸が眼を覚ました。
佐野は小説を傍らの机に置き、彼女の顔を見た。その顔色は先ほどより多少良くなっており、眼も虚ろでは無い。内心で佐野は胸を撫で下ろした。
「時刻的にはおかしいが、おはよう」
何となく苦笑しながらも、いつもよりも優しく声が出た事が、佐野自身意外だった。
「おはようございます」
そう言って幸は体を起こし、数秒ほど眼を閉じた後、深く佐野へと頭を下げた。
「……申し訳ありません。ご迷惑をおかけしました」
とても重い声で、佐野は一瞬言葉に詰った。
しかし、それを無視して佐野は出来るだけ軽く言葉を返した。
「まあまあ、とりあえずお粥作ったから食べろ。今温めなおすから」
そのまま幸の返事を待たず、佐野は台所へ向かった。
彼女がそれに更なる申し訳なさを覚えるであろう事は分かっていたが、佐野は無視する事にしたのだ。
(腹が減っては戦が出来ぬ。あいつの話を聞くのはその後だ)
「……ごちそうさまでした」
幸は申し訳なさそうにスプーンを茶碗に置いた。佐野はそれを苦笑混じりに受け取り、台所の流し台へ置いて、再び幸が腰かける椅子へ腰かけた。時刻は既に二十時頃である。
「…………」
幸は唇を固く結び、硬く握り締められた自身の拳へ視線を落としていた。
声をかけるのが阻まれるが、佐野は聞かずにはいられなかった。
「……何があったのか聞いて良い?」
「…………」
沈黙が続いた。
けれど、幸の口が何度か開閉しようとしているのを見て、佐野は彼女が話すまで待つ事にした。
二分ほどの沈黙の後、幸はゆっくりと口を開いた。
「……私は、誰も幸せにできないのでしょうか?」
唐突な質問だった。けれど、この質問が――正確には分からないが――今の幸の心の全てを表している事を、佐野は察した。
それと同時に佐野は、彼女に必要な言葉を紡ぐには幸という相手の事を知らな過ぎる事、また、自分はまだ彼女の何物も背負っては成らない事も分かっていた。
佐野には覚悟も無いのに優しい言葉などかけられない。
「……悪いけど、それは俺には分からないな。それに答えるのに必要なほど俺はお前の事を知らない」
だから、彼は正直に彼の言葉を伝えた。不器用な事は自覚している。
幸はゆっくりと彼女の拳から自分を見る佐野へ視線を移した。
「……そう、でした。つまらない事を聞いて申し訳ございません」
その無表情が哀しげに見えたのを見間違いでは無いと佐野は思いたかった。
それすらも勘違いだったなら、哀し過ぎると思ったからだ。
幸はあれから本調子とは言えないまでも幾分いつもの調子を取り戻し、今は佐野が新たに貸したジャージを着て、ベットに腰かけて適当に佐野が選んだバラエティ番組を見ている。
「…………」
さて、ここで一つ問題に佐野は直面していた。未だ生乾きで部屋に干されている幸の衣服である。佐野は一人暮らしで髪も短いためドライヤーを持っていない。
先ほど幸が風呂から出た際は、バスタオルで何とか髪の水分を拭う事が出来たが、ドライヤーも持っていないのでは、生乾きの服をすばやく乾かす事など不可能だった。
佐野は部屋のカーテン近くに干された幸のワンピースを触ってみたが、その裾はまだ冷たく湿っていた。これを着たら、彼女の体調は間違いなく悪化するだろう。
幸はまだまだ少しふらついており、この湿ったワンピースを着せて帰らせるのは気が引けた。外では雨が降り続いているのだ。
「幸、お前何処に住んでるの?」
「育友荘というアパートに住んでいます」
「それってここから歩いて大体どれくらいかかる?」
「直線距離で八キロほど離れております」
佐野はテレビ画面に表示されている時刻を見た。時刻はすでに二十一時五十分。今から出発したとして幸の住んでいる育友荘というアパートに着くのは急いで二十三時半ごろだろう。
今の幸の体調でそれだけの時間を歩かせると、彼女の体調が悪化しかねない。
佐野がどうしたものかと考えていると、幸はおもむろに立ち上がり、未だ生乾きである彼女の青いワンピースを手に取った。
「……ちょっと待て。お前何する気?」
彼女が何をしようとしているか分かっていたが、一応佐野は聞き、予想通りの答えが返ってきた。
「いえ、これ以上迷惑をおかけするわけにはいきません。すぐに帰りますので少々お待ちください」
幸はそういって、彼女の上半身を隠していたジャージのジッパーに手をかけた。どうやらこの生乾きのワンピースを着るつもりのようだ。
「いや、待て待て待て。それ着て帰ったら今度こそ完全に体壊すから止めとけ」
「しかし、これ以外に今私は服を持っておりません」
佐野は何となく深くため息をついた。
「どうしても帰るなら、今からタクシー呼ぶ。それで帰れ。俺の服貸してやるから」
「いえ、これ以上迷惑をかけるわけには――」
その言葉を佐野は遮り口を挟んだ。
「これ以上俺を疲れさせたくないなら言う事を聞け」
彼の口調はいつもよりも若干強くなっていた。
「……本当に申し訳ありません」
佐野は深くため息をついた。彼個人としては謝罪よりも感謝の言葉を貰った方が、気が楽だったからだ。




