三
「座ってろ」
佐野は幸を椅子に座らせ、急いで風呂を沸かした。風呂釜に湯が溜まるまで十五分。それまでにこのびしょ濡れの女を何とかしなければならない。
「幸、服脱いで。体拭け」
佐野は幸にバスタオルを手渡した。
「は、い」
が、パタリ、と受け取った彼女の手がそれを力無く床へと落としてしまった。
「もうしわけ、ござい、ません」
そして、幸は床に落ちたバスタオルを拾おうと手を伸ばしそのバスタオルを掴み上げた。
けれど、パタリ、と力が足りないのかバスタオルが床へと落ちてしまう。
どうやら握力が入らないようだ。この分では体に張り付いた衣服を脱ぐのも難しいだろう。
「もうしわけ、ございません。すぐに、ひろいます」
幸はそう言って何度も手を伸ばすが結果は変わらない。パタリ、パタリとタオルは落ち続ける。
「すぐに、すぐに、ひろいます、から」
痛々しい声を出したとしても彼女の右手はバスタオルを掴みあげる事は叶わなかった。
本人が体を拭けないのならば、濡れに濡れた彼女の体を拭くことの出来る人間はこの部屋の中に佐野しかいないという事に成る。
佐野は大きく息を吐いて、バスタオルを掴み上げた。
「あ」
力の無い声が彼の耳に届くがそれは無視し、佐野は聞いた。
「幸、バンザイはできる?」
幸はボーっと佐野を見上げ、小さく首を左右に振った。
「悪いけど、服脱がすよ」
一応の断りを入れ、彼は両手を何とか使って彼女の青いワンピースを脱がし、絶句した。
彼女の下着姿に厭らしさなどを覚えたわけでは無い。
幸の裸体は白魚のように真っ白であり、血の気が完全に失せていたからだ。
まるで精巧なマネキンを見ている感覚に佐野は襲われた。
「拭くよ」
「は、い」
出来るだけ体の局部には触れないようにして、佐野は幸の体を一通り拭いた。
さすがに下着まで脱がすわけにはいかず、佐野は幸をベットに寝かせ布団をかけた。とにかく暖めることが重要だと思ったのである。
風呂のお湯が溜まるまで後八分。質問したいことは山ほどあったが佐野はびしょ濡れの幸のワンピースを洗濯機に放り込んだ。
のろのろと風呂に入って十分、幸の体は温まったようだが、その眼は未だ虚ろであり、体もふらふらと揺れていた。
未だに意識がはっきりとしていないらしい。実際、何とか自分で着させたスウェットは半分脱げかかっており、佐野が貸したTシャツにいたっては裏返しのままだ。
「……幸、ベットで寝ろ」
「……わかり、ました」
普段の彼女であったなら、ここで迷惑は掛けられないといった反応などをするのだが、今は素直に佐野の言葉に従い、彼の手も借りながらベットに横たわった。
佐野がその上に布団を掛けると、幸はまぶたを閉じ、すぐに規則正しい寝息をたて始めた。
一体幸に何が起きたのか。雨とは言っても夏の雨だ。普通ここまで体が冷える事は無いし、タオルを拾い上げられなくなるまで弱るなど佐野には考えられなかった。
ならば、雨以外の何かが幸をここまで追い詰めたのだろう。
洗濯機の機械音を聞きながら、佐野は人形の様に眠る幸を見つめた。
「……何があったんだよ?」
そう問い掛けるが、まぶたを閉じた彼女からは返事が無い。
佐野は鉄の様に冷たかった幸の感触を思い出して、自分の手を広げた。
しばらくの時間が経ち、鼓膜を震わせる洗濯機の作動音と幸のかすかな寝息に慣れ始めた頃、
「――」
と、幸の唇がかすかに動いた。
「――」
どうやら幸は何か夢を見ているらしい。
その顔に佐野が見たことの無い〝表情〟と呼ばれる物が浮かんでいた。
ただし、その表情を喜怒哀楽の何かで表すとするのなら、それは間違いなく〝哀〟である。
圧倒的な哀色を自身の顔に張り付かせながら、その唇はかすかに動き続けている。
(……何の夢を見ているんだ?)
ふと、そう佐野が思い、しばらく耳を澄ましていると、その寝言が微かだが聞き取れるほど大きくなった。
「……しあわせに、させて、くだ、さい」
「……マジかよ」
自然と佐野は呟いていた。
彼の前で哀色に顔を染めている少女――または女――は夢の中でさえ誰かを幸せにしようとしているのだ。
そのことがどうしようもなく哀れに、また、どこまで真っ直ぐに歪むつもりなのだ、と佐野は思った。
夢の中でくらい彼女の願いが叶っても良いではないか。
夢の中でくらい他者を幸せにすることを忘れても良いではないか。
夢の中でくらい笑っていても良いではないか。
気づいたら佐野は左の掌を真っ直ぐに歪んだ女の額に置いていた。
「冷た」
幸の平熱はどうやらかなり低い物らしく、陶器の様な冷たさが佐野を右手に伝わる。
閉じられた瞳から水滴のようなものが生まれ、その目尻を伝う。
……何処までも、哀しかった。
他者を幸せにすることにとり憑かれた哀れな哀れに真っ直ぐに歪んだ女、そう佐野には思えてならなかった。
そして、今自分が思った事が傲慢であるとも佐野は思っていた。
誰かの感情や価値観や信念を他人が勝手に評価するなどおこがましいにも程がある。
それでも、佐野は幸を憐れんでしまった。哀れに思ってしまった。
佐野は大きく息を吐いて、右手の冷たさに集中した。
「青い鳥が居たら良いのにな」
もし、チルチルとミチルが探したように青い鳥が居るのならば、彼女の元へ訪れて欲しいとそれほどに今の彼女の姿は悲しく哀しかった。
「……しあわせに……」
また、彼女は同じ言葉を呟き、それは何となしに佐野の胸を締め付けた。
「……本当に、青い鳥がお前を訪れれば良いのに」
形の無い幸せが形と成った青い鳥を見つけられれば、彼女の願いは叶うのだろうか?
誰かを幸せに出来たと彼女は思えるのだろうか?
深く長いため息の音が部屋に響いた。




