9.「軽かった」
夕刻になり、部屋に豪華な食事が運び込まれてきた。
湯気の立つ温かなスープ、焼きたての柔らかなパン、色とりどの果物、そして丁寧に調理された肉料理。
長らくまともな食事を摂れていなかった私の目に、そのすべてが眩しいほどに映る。
「どうぞ、お召し上がりください」
侍女に促され、私は遠慮がちにスプーンを手に取る。
一口すすったスープの温かさが、喉から胃へとゆっくり染み渡っていく。
それでも豪華な料理を前にしても、私の手はどこかためらいがちにしか動かない。
この帝国で、自分がどれほどの立場にあるのかもわからないまま、贅沢を享受してよいものかという戸惑いが拭えなかったから。
そこへ、扉が静かに開く。
「まだ食べていないのか」
現れたのは、あの皇帝。
私の前の皿にほとんど手をつけられていない料理を見て、彼はわずかに眉根を寄せる。
「あの、いただいております。ただ、少し量が多くて」
言い訳のように呟く私の向かいに、彼は迷いのない足取りで腰を下ろす。
侍女が慌てて新たな皿を運んでくる。
しばらくの間、彼は何も言わず、ただ静かにこちらを見つめていた。
その視線に居心地の悪さを覚えながらも、私は再びスプーンを手に取る。
「もっと食べろ」
不意に、低い声が響く。
「痩せ過ぎだ」
その言葉に、私は思わず顔を上げる。
冷たいはずのその声に、今までとは違う響きが確かに滲んでいた気がした。
命令のようでいて、どこか気遣うような、そんな温度を帯びた声音。
「……はい」
戸惑いながらも小さく頷くと、彼はわずかに視線を和らげる。
少なくとも、私にはそう感じられた。
「森で拾った時、驚くほど軽かった」
淡々とした口調でそう続ける彼の言葉に、あの夜の記憶が蘇る。
冷たい土の上で、意識を失いかけていた自分を、彼が抱き上げてくれた瞬間。
あのとき感じた温もりが、不思議と今も胸の奥に残っている。
「これからは、しっかり食べろ。俺の目の前で、これ以上瘦せ細られては困る」
その言い方は、決して優しいものではない。
それでも、言葉の端々に確かな配慮が滲んでいることに、私は気づかずにはいられなかった。
胸の奥で、何かが小さく揺れる。
冷酷で恐ろしい皇帝だと思っていたはずの人が、こうして食事の量まで気にかけてくれている。
その意外な優しさに、これまで張り詰めていた警戒心が、少しずつ緩んでいくのを感じていた。
「はい……ありがとうございます」
素直にそう答えると、彼は小さく頷き、それ以上は何も言わずに料理へと視線を落とす。
食卓を静かに囲む二人の間に、これまでとは違う、穏やかな空気が流れ始めていた。
☆
夜も更け、寝支度を終えた私は、柔らかな寝台に横たわっている。
暖炉の炎が壁に揺れる影を落とし、静かな部屋を淡く照らしている。
今日一日の出来事を思い返しながら、私は瞼を閉じようとしていた。
そのとき、控えめな足音と共に扉が開く。
「まだ眠っていなかったか」
低い声に、私は驚いて体を起こそうとする。
彼の手が、それを制するように軽く肩に触れた。
「そのままでいい」
寝台の傍らに、彼は迷いのない仕草で腰を下ろす。
夜の薄闇の中でも、その瞳だけは、燃え残る炭火のような光をはっきりと宿している。
「何か……ご用でしょうか」
緊張しながら尋ねる私に、彼はしばらく答えなかった。
ただ静かに、私の顔を見つめ続けている。
やがて、大きな手がゆっくりと伸ばされた。
指先が、私の頬にかかった銀の髪をそっと払う。
硬い剣だこのある手のはずなのに、その仕草は驚くほど優しい。
「怖がるな」
低く、囁くような声。
「もう誰も、君を傷つけない」
その言葉で心臓が、ふいに跳ねる音を立てた。
彼はさらに一房、私の髪を指に絡めながら続ける。
「無論、俺も」
その一言に、私は思わず息を止めた。
冷酷で恐ろしいとばかり思っていた皇帝の口から、まさかそんな言葉が紡がれるとは、想像すらしていなかった。
大きな手のひらが、頭をそっと撫でる。
緊張で強張っていた体が、その温もりに少しずつ解けていくのを感じる。
誰かにこんなふうに触れられるのは、いったいいつ以来だろう。
ライオネル様との日々の中でさえ、これほど無防備に安らぎを感じたことはなかった気がした。
閉じかけていた瞼の奥から、じんわりと熱いものが込み上げてくる。
それは悲しみではなく、もっと別の、名前をつけられない感情。
「……ありがとうございます」
やっとの思いで絞り出した声に、彼は小さく頷いただけだった。
それ以上の言葉は必要ないというように、ただ静かに、私の髪を撫で続けている。
しばらくそうしてから、彼はゆっくりと立ち上がった。
「ゆっくり休め」
短くそう言い残し、彼は振り返ることなく部屋を後にする。
扉が静かに閉まる音を聞きながら、私はしばらくの間、天井をぼんやりと見つめ続けていた。
頬の熱が、隠しようもなく広がっていく。
触れられた場所すべてに、まだ彼の手の感触が残っているようだった。
冷酷な氷の皇帝だと聞かされていた人の、思いがけない優しさ。
その温もりを反芻しながら、私は暖かな寝具に包まれ、静かに眠りへと落ちていく――




