8.「お召し替え」
午後になり、扉が静かに開いて彼が現れた。
昨日と同じ、感情の読めない眼差し。
それでも部屋に足を踏み入れる仕草には、どこか迷いのない自然さがあり、まるでこの部屋を訪れることがすでに当然であるかのようだった。
「体の具合は」
短い問いに、私は慌てて姿勢を正す。
「はい、おかげさまで、だいぶ良くなりました」
小さく頷くと、彼は寝台の傍らの椅子に腰を下ろした。
その視線が、まっすぐに私を捉える。
「聖女だと言ったな」
「……はい」
「ならば、力を見せてもらおう」
言うが早いか、彼は腰の短剣を静かに引き抜いた。
私が声を上げる間もなく、その刃を自らの前腕に軽く滑らせる。
白い肌に、すっと赤い線が浮かび上がった。
「な……っ何を」
驚いて身を乗り出す私に、彼は表情ひとつ変えずに腕を差し出す。
「試すには、これが一番早い」
その淡々とした態度に、抗議の言葉も呑み込まざるを得ない。
私は震える手を伸ばし、彼の腕にそっと触れる。
冷たいはずのその肌から、思いのほか確かな体温が伝わってきた。
久しく使っていなかった祈りの言葉を、私は小さく口にする。
掌の中心に、淡い光が灯り始めた。
聖女の位を剥奪されてから、力はずいぶんと弱まってしまったと思っていた。
それでも祈りを紡ぐたびに、光は少しずつ強さを取り戻していく。
傷口を覆うように光が広がると、浅い傷は瞬く間に塞がり、跡形もなく消えていった。
「……本当に、久しぶりです」
思わず呟いた声には、安堵の響きが滲む。
奪われたと思っていたものが、まだ確かに自分の中に残っている。
その事実に、胸の奥が微かに温かくなるのを感じる。
一方、彼は自分の腕をじっと見つめていた。
傷が消えた跡を確かめるように指先でなぞり、瞳を大きく見開いている。
「これほどとは……っ」
低く呟かれたその声には、これまでにない驚きの色が滲んでいた。
「戦場の治癒魔術師とは、比べものにならん」
「恐れ入ります……」
「いや」
彼は言葉を遮るように、鋭く言う。
「褒めているわけではない。事実を言っているだけだ」
予想外に素っ気ない返事に、言葉を探して口ごもった私はどう答えていいかわからず、ただ小さく俯いた。
けれど、彼のこちらを見つめる視線には、先ほどまでとは明らかに違う何かが宿っている気がする。
冷たいだけだった赤い瞳の奥に、確かな興味の色が灯っていた。
それはまだ、微かなものでしかない。
それでも、氷のように動かなかった彼の表情に生まれた、初めての変化のように私には感じられた。
「本物だな」
独り言のように呟かれたその一言が、静かな部屋の中に落ちていく。
☆
皇帝が部屋を辞してほどなく、大勢の侍女たちがどっと部屋に入ってきた。
「さあ、エミア様。お召し替えをいたしましょう」
侍女長グレタの朗らかな声に促され、私は戸惑いながらも椅子に座らされる。
あっという間に、部屋の中央には何着ものドレスが並べられていった。
淡い青の生地に銀糸の刺繍が施されたもの、真珠のような光沢を持つ薄紫のもの、繊細なレースをふんだんに使ったもの――どれも一目で最高級とわかる、見たこともないほど贅を尽くした衣装ばかり。
「こんなに、たくさん……」
呆然と呟く私に、若い侍女が嬉しそうに微笑む。
「陛下が特にご用意くださったのですよ。エミア様に一番お似合いになるものをと、何度も職人にお申し付けになったそうです」
その言葉に、私はますます戸惑いを深めた。
あの感情の読めない皇帝が、衣装選びにまで気を配っていたとは、にわかには信じがたい。
結局、選ばれたのは淡い青と銀の刺繍が入った一着だった。
柔らかな絹地が肌に触れると、思わず小さく息を吐いてしまうほどの心地よさがある。
侍女たちの手によって、あっという間に着せ付けられていく。
続いて、長く伸びた紫がかった銀髪に、丁寧に櫛が入れられていく。
優しい手つきで一房ずつ梳かれ、艶やかに輝きを取り戻していく髪を、私は鏡越しにぼんやりと見つめていた。
「本当に、綺麗な御髪ですこと」
侍女の一人が感嘆の声を漏らしながら、宝石をあしらった細やかな髪飾りを添えていく。
小さな青い石が、髪の間できらきらと光を弾いた。
最後に、薄く化粧が施される。
頬にほんのりと色が差し、唇にも艶やかな色が乗せられていく。
すべての支度が終わると、侍女たちは満足げに顔を見合わせ、鏡を私の正面へと向けた。
映っていたのは、自分でも見覚えのないほど美しく飾られた女性。
淡い青のドレスに包まれた身体、艶やかに輝く銀の髪、宝石の煌めき。
もともと色白の頬に薄く紅が差され、ふだんは硬くなりがちな口元が、緊張のせいか小さく震えている。
左の目尻に小さくある泣きぼくろが、化粧を施されてもなお、鏡の中の自分が確かに自分であることを教えてくれた。
どこを見ても、聖女として質素な法衣を纏っていた頃の自分の面影は薄い。
まるで、精巧に作られた人形が、そこに座らされているかのようだった。
「……なんだか、私ではないみたいです」
思わず漏らした呟きに、グレタは優しく微笑み手のひらをそっと胸に当てた。
「いいえ、これがエミア様の本来のお姿でございますよ」
その言葉に、恥じらいと戸惑いが同時に胸を満たしていく。
褒められることに慣れていないわけではなかったはずなのに、これほどまでに着飾った自分を見つめられるのは、どうにも落ち着かない気分。
鏡の中の自分から、私はしばらくの間、目を逸らすことができずにいた。




