7.「上級の貴族方」
扉が、静かに開いた。
現れたのは、記憶の中にあるあの姿そのもの。
漆黒の髪、赤みを帯びた深い黒の瞳、そして冷たいまでに整った美貌。
長い外套を纏った長身が部屋に入ってくるだけで、空気そのものが張り詰めるような感覚がある。
侍女たちが一斉に頭を垂れ、静かに部屋の隅へと下がっていく。
私は反射的に体を起こそうとした。
この方が皇帝陛下であるならば、寝台に横たわったままでいるわけにはいかない。
でも、まだ本調子とは言い難い体は、思うように動いてくれない。
「無理に動くな」
低い声が、静かに私を制した。
歩み寄ってきた彼は、寝台の傍らに置かれた椅子に、迷いのない仕草で腰を下ろす。
間近で見るその瞳は、想像していたよりもなお鋭く、そして深かった。
感情の色をほとんど滲ませないその眼差しに、私は思わず身を竦める。
大きな手が、ふいに私の顎に触れた。
優しくというよりは、確かめるように、その手は私の顔を軽く持ち上げる。
「……っ」
驚いて息を呑む私の顔を、彼はしばらくの間、無言で見つめ続けている。
まるで、何かを見極めようとするかのように。
紫がかった銀の髪。
青い瞳。
私の一つひとつを丁寧に視線がなぞっていく。
居心地の悪さに、私は思わず視線を彷徨わせた。
「名前は」
短く、感情の読めない問いが投げかけられる。
「……エミア、と申します。エミア・エールです」
震える声で答えると、彼はわずかに目を細めた。
それが何を意味する仕草なのか、私にはまだ読み取ることができない。
沈黙が、部屋の中に落ちる。
彼はしばらくの間、ただ静かに私を見つめ続けていた。
やがて、低く、確かめるような声が響いた。
「その髪、その瞳――聖女か」
その一言に、心臓が大きく跳ねる。
もう剥奪されてしまった位。
もう自分には相応しくないと言われた称号。
それでも、答えないわけにはいかなかった。
私は小さく、そして確かに頷く。
「……はい。かつては」
その返事を聞いた瞬間、彼の瞳が、わずかに、しかし確かに細められた。
冷たかったはずのその眼差しの奥、深い黒に滲む紅の色に、微かな熱のようなものが宿った気がした。
「そうか」
短くそう呟いた彼の声には、これまでとは違う何かが混じっている。
それが興味なのか、それとも別の感情なのか、私にはまだ判断がつかない。
ただ、その瞬間から、この氷のような皇帝と私の運命が、静かに動き出した直感があった。
☆
翌日、私は侍女たちに導かれるようにして、城の奥深くにある一室へと案内された。
案内された部屋の扉が開かれた瞬間、私は思わず息を呑む。
天井まで届く天蓋付きの大きな寝台には、絹の帳が幾重にも垂れ下がっている。
壁際には静かに炎を揺らす暖炉があり、部屋全体をほのかに暖めていた。
金の縁取りが施された調度品の数々、精緻な織物のかかった椅子、大きな窓に掛けられた重厚なカーテン――そのすべてが、これまで王国で暮らしていた自分の部屋とは比べ物にならないほどの豪奢さ。
「こちらが、当面あなた様のお部屋でございます」
侍女長と思しき年配の女性が、丁寧に頭を下げながら告げた。
落ち着いた物腰の中に、隙のない気品が滲んでいる。
名をグレタと名乗った彼女は話の合間ごとに、癖なのか手のひらをそっと胸に当てる仕草を見せた。
まるで、口にした言葉に嘘はないと自分に言い聞かせるような、静かな所作。
「元々は上級の貴族方がお使いになる客間でございました。皇帝陛下のご指示で、この部屋をあなた様のためにご用意させていただきました」
「陛下の……ご指示で」
繰り返す私の声は、自分でも情けないほど掠れている。
窓辺に歩み寄り、外を見下ろす。
眼下には帝都の壮麗な街並みが広がっていた。
灰色を基調とした重厚な建物の合間に、色とりどりの旗が翻り、遠くには雪を頂いた山々が霞んで見える。
ゼントロール王国の穏やかな田園風景とはまるで異なる、力強く整然とした景色。
これほどの部屋を、行き倒れていた見知らぬ女に用意する必要が、本当にあるのだろうか。
困惑が、胸の奥でじわじわと広がっていく。
「あの……なぜ、私にこのような」
思わず尋ねると、侍女長は微かに目を細めた。
それは、答えを持ちながらも口にすることを控えているような、複雑な表情。
「詳しいことは、私どもの口からは申し上げられません。ただ――」
彼女は言葉を選ぶように、一拍置く。
「陛下があなた様を城にお連れになったこと自体が、極めて異例のことでございます」
その言葉に、私はますます戸惑いを深めた。
あの冷たい瞳をした皇帝が、なぜ見ず知らずの自分をここまで丁重に扱うのか、見当もつかない。
侍女たちが手早く部屋の支度を整えていく様子を、私はぼんやりと眺めていた。
暖炉の炎が、パチパチと小さな音を立てて揺れている。
その温かさに包まれながらも、心の中では冷たい不安がじわりと広がり続けていた。
自分はこの帝国で、いったいどのような存在として扱われるつもりなのか。
感謝すべきなのか、それとも警戒すべきなのか――。
広がる見知らぬ帝都の景色を見つめながら、私は答えの出ない問いを胸に抱え、窓の外を見つめ続けた。




