6.「このような真似」
意識は、暗闇の中で幾度も浮き沈みを繰り返している。
不思議と、寒さはもう感じない。
代わりに、体を包む重く柔らかな感触。
ふわりとした毛皮の温もりが、冷えきった肌をゆっくりと溶かしていく。
規則正しい振動が、体に伝わってくる。
馬の背に揺られているのだと、朧げな意識の片隅でそう理解した。
「陛下、このような真似は――」
遠くで、誰かが戸惑うような声を上げている。
「黙れ。急ぐぞ」
短く遮る声。
あの、低く冷たい声。
感情の起伏を感じさせないその声音に、けれど今は微かな緊迫が滲む気がする。
体を包む腕の力が、わずかに強くなる。
落馬しないよう、しっかりと支えられているのだとわかる。
硬い革の胸当ての感触の向こうに、思いのほか速い鼓動が伝わってくる。
「治癒魔術師に伝令を。俺が城に着く前に、支度を整えさせろ」
「陛下自らが、そのような手配を……?」
部下らしき者の声には、隠しきれない驚きが混じっている。
それも当然のことなのかもしれない。
名も知らぬ行き倒れの女のために、皇帝自らが手を尽くすことなど、通常ではありえないことなのだろうか。
「二度は言わん」
短く切り捨てるようなその声に、部下は慌てて馬を進める気配を見せる。
馬の速度が、さらに増していく。
冷たい夜風が頬を掠めるはずなのに、毛皮に包まれた体は、不思議なほど守られている。
時折、大きな手が私の頬や額に触れる。
熱を確かめるような、それでいて、どこか落ち着かない仕草。
「……まだ熱い」
低く呟かれたその声には、微かな安堵のようなものが滲んでいた気がした。
それとも、それは私の願望が生んだ幻聴だったのだろうか。
意識は、ほとんど夢と現実の境を漂ったまま。
それでも、自分がしっかりと誰かの腕の中にいることだけは、はっきりと感じ取ることができた。
固い胸当てに頬を預けたまま、私は再び暗い眠りへと引きずり込まれていく。
最後に感じたのは、こちらをじっと見つめ続ける、宵闇よりもなお深く沈んだ、あの瞳の気配。
言葉にできない何かが、その視線には込められている気がする。
馬蹄の音は、夜の闇を切り裂きながら、遠く城を目指してひたすらに駆け続けていく。
☆
柔らかな光が、瞼の裏を優しく照らしている。
ゆっくりと目を開けると、見覚えのない天蓋が視界いっぱいに広がっていた。
淡い金色の刺繍が施された天蓋布が、朝の光を受けてかすかに輝く。
「……え」
思わず声が漏れる。
体を起こそうとして、初めて自分が驚くほど柔らかな寝台に横たわっていることに気づく。
肌に触れる寝具は、これまで感じたことのない滑らかさ。
肩に手をやると、あの魔獣に噛まれた傷があったはずの場所に、包帯が丁寧に巻かれていた。
そっと指先で触れてみても、鋭い痛みはほとんど感じられない。
信じられない思いで自分の体を見下ろすと、纏っているのは見たこともないほど上質な絹の寝間着だった。
「……ここは」
呆然と呟いた声に応えるように、部屋の扉がそっと開く。
「お目覚めになりましたか」
穏やかな声と共に入ってきたのは、見知らぬ侍女たち。
整った所作で歩み寄り、深く一礼する。
「あの……私は」
言葉に迷う私に、年嵩の侍女が静かに微笑む。
「ここはガルヴァン帝国の城でございます。皇帝陛下が、御自らあなた様をお連れくださいました」
「ガルヴァン帝国の、城!?皇帝陛下が……!?」
信じられない思いで、私はその言葉を繰り返す。
朦朧とした意識の中で見た、闇の奥にほのかな紅を滲ませたあの瞳が脳裏に蘇る。
あの威圧感のある人物が、皇帝その人だったのか。
「森で行き倒れていらしたあなた様を発見され、御自ら治癒魔術師の手配までなさいました。このように早く傷が癒えたのも、陛下のご配慮あってのことでございます」
侍女の説明を聞きながら、私は言葉を失う。
名も知らぬ異国の地で、異国の皇帝に助けられ、こうして手厚く看護されている。
これが現実だとは、まだどこかで信じきれずにいた。
「私……生きているのですね」
自分に言い聞かせるように呟くと、侍女たちが小さく頷いた。
窓の外に目を向けると、見慣れぬ帝都の景色が広がっている。
灰色がかった荘厳な建物が立ち並び、ゼントロール王国とはまるで異なる、重厚で力強い街並みが遠くまで続いていく。
胸の奥で、様々な感情が渦を巻いていた。
助かったという安堵。
見知らぬ土地にいる不安。
そして、あの氷のような瞳を持つ皇帝への、言葉にできない緊張感。
「あの……皇帝陛下は、今どちらに」
震える声で尋ねると、侍女が扉の方へと視線を向けた。
「もうすぐ、こちらへいらっしゃるはずでございます」
その言葉を聞いた瞬間、心臓がどくりと大きく跳ねる。
あの夜の、感情の読めない赤い瞳が再び脳裏をよぎった。




