5.「得体の知れぬ女」
地面を伝って微かな振動が届いた。
とん、とん、と規則正しく響くその音は、次第に大きく、はっきりとしたものになっていく。
複数の蹄の音。
硬い地面を叩く、重く力強い足音だった。
意識の底で、私はその音をぼんやりと聞いていた。
助けが来た、とはとても思えない。
むしろ、また新たな脅威が近づいているのではないかという、漠然とした恐怖の方が強かった。
馬蹄の音は、迷いなくこちらへと近づきやがて、すぐ近くで止まる。
微睡みの底で、何かが弾けるような音が聞こえた。
獣の甲高い悲鳴。
硬いものが空を切る音。
地を蹴る蹄の響き。
それらが幾重にも重なり、やがて静寂へと変わっていく。
何が起きているのか、朦朧とした頭ではもう理解できない。
重なり合う足音の中に、ひときわ重々しい気配があった。
地に降り立つ音ひとつにも、只者ではない力強さが滲んでいる。
私はわずかに瞼を持ち上げ、霞む視界の向こうにその姿を捉えようとした。
黒い馬。
その傍らに立つのは、長身の男だった。
夜の闇よりもなお深い色の外套を纏い、腰には鋭い剣を佩いている。
輪郭さえおぼろげにしか見えないのに、その男が放つ気配だけは異様なほど鮮明に伝わってきた。
まるで、この森の冷気そのものが、彼の姿を借りて形を成したかのような、そんな威圧感。
「……お前」
低く、地の底から響くような声が、静寂を切り裂く。
感情の温度をまるで感じさせない、氷そのもののような声音。
その声を耳にした瞬間、薄れかけていた意識の奥で、本能的な恐怖が疼いた。
この人に近づいてはいけない。
そんな警鐘が、消えかけた理性の隅で小さく鳴り響く。
男の足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。
一歩、また一歩と。
踏みしめる落ち葉の音だけが、やけに大きく鼓膜に響いた。
視界がさらに霞んでいく。
意識が再び闇へと沈み込もうとする直前、私はその男の瞳の色を、ほんの一瞬だけ見た気がした。
赤みを帯びた、深い黒。
☆
「陛下、あまり近づかれませぬよう。得体の知れぬ女です」
遠くで、誰かの緊張した声が聞こえた気がした。
「魔獣に噛まれた傷だ。得体が知れぬも何もあるまい」
落ち葉を踏みしめる音が、すぐ傍らで止まった。
大きな影が、私の上に落ちる。
夜よりも深い闇の色を纏った男が、こちらを見下ろしているのだと、薄れゆく意識の中でぼんやりと理解した。
膝をつく気配。
硬く冷たい手袋越しに、大きな手が私の頬に触れる。
その手つきに、乱暴さはない。
ただ、確かめるような、静かな確かさがあった。
「……生きているな」
低く呟かれたその一言に、感情らしきものは滲んでいない。
安堵でも、憐れみでもない。
ただ事実を確認しただけの、乾いた響き。
腕が、私の背中と膝の裏へと差し込まれる。
次の瞬間、体がふわりと宙に浮いた。
まるで羽根のように軽々と、私は抱き上げられていた。
その衝撃で、閉じていた瞼がわずかに開く。
霞んだ視界の向こうに、初めてはっきりとその顔が映った。
漆黒の髪。
整いすぎているがゆえに、どこか冷たく感じられる美貌。
そして――赤みを帯びた、深い黒の瞳。
感情の読めないその瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしている。
心臓が、恐怖に竦み上がる。
この人は、味方ではない。
本能がそう告げていた。
この森で出会った魔獣たちよりも、なお底知れない何かを、その瞳の奥に感じたから。
逃げなければ。
そう思うのに、体はぴくりとも動かない。
声を上げようとしても、掠れた吐息が漏れるだけだった。
男の眉が、わずかに動く。
私の怯えを見て取ったのか、それとも別の何かに気づいたのか、その表情から読み取ることはできない。
「怖がらずとも、今は何もせぬ」
そう告げる声は、先ほどよりもわずかに低く抑えられていた気がした。
けれど、その言葉を最後まで受け止める力は、もう私には残されていなかった。
再び瞼が落ち、意識が深い闇へと引きずり込まれていく。
最後に感じたのは、思いのほか温かい体温と、規則正しい鼓動の音だけ。




