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5.「得体の知れぬ女」

地面を伝って微かな振動が届いた。


とん、とん、と規則正しく響くその音は、次第に大きく、はっきりとしたものになっていく。

複数の蹄の音。

硬い地面を叩く、重く力強い足音だった。


意識の底で、私はその音をぼんやりと聞いていた。

助けが来た、とはとても思えない。

むしろ、また新たな脅威が近づいているのではないかという、漠然とした恐怖の方が強かった。

馬蹄の音は、迷いなくこちらへと近づきやがて、すぐ近くで止まる。


微睡みの底で、何かが弾けるような音が聞こえた。

獣の甲高い悲鳴。

硬いものが空を切る音。

地を蹴る蹄の響き。

それらが幾重にも重なり、やがて静寂へと変わっていく。


何が起きているのか、朦朧とした頭ではもう理解できない。

重なり合う足音の中に、ひときわ重々しい気配があった。

地に降り立つ音ひとつにも、只者ではない力強さが滲んでいる。

私はわずかに瞼を持ち上げ、霞む視界の向こうにその姿を捉えようとした。


黒い馬。

その傍らに立つのは、長身の男だった。

夜の闇よりもなお深い色の外套を纏い、腰には鋭い剣を佩いている。

輪郭さえおぼろげにしか見えないのに、その男が放つ気配だけは異様なほど鮮明に伝わってきた。


まるで、この森の冷気そのものが、彼の姿を借りて形を成したかのような、そんな威圧感。


「……お前」


低く、地の底から響くような声が、静寂を切り裂く。

感情の温度をまるで感じさせない、氷そのもののような声音。

その声を耳にした瞬間、薄れかけていた意識の奥で、本能的な恐怖が疼いた。


この人に近づいてはいけない。

そんな警鐘が、消えかけた理性の隅で小さく鳴り響く。


男の足音が、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

一歩、また一歩と。

踏みしめる落ち葉の音だけが、やけに大きく鼓膜に響いた。


視界がさらに霞んでいく。

意識が再び闇へと沈み込もうとする直前、私はその男の瞳の色を、ほんの一瞬だけ見た気がした。

赤みを帯びた、深い黒。



「陛下、あまり近づかれませぬよう。得体の知れぬ女です」


遠くで、誰かの緊張した声が聞こえた気がした。


「魔獣に噛まれた傷だ。得体が知れぬも何もあるまい」


落ち葉を踏みしめる音が、すぐ傍らで止まった。

大きな影が、私の上に落ちる。

夜よりも深い闇の色を纏った男が、こちらを見下ろしているのだと、薄れゆく意識の中でぼんやりと理解した。


膝をつく気配。

硬く冷たい手袋越しに、大きな手が私の頬に触れる。

その手つきに、乱暴さはない。

ただ、確かめるような、静かな確かさがあった。


「……生きているな」


低く呟かれたその一言に、感情らしきものは滲んでいない。

安堵でも、憐れみでもない。

ただ事実を確認しただけの、乾いた響き。


腕が、私の背中と膝の裏へと差し込まれる。

次の瞬間、体がふわりと宙に浮いた。

まるで羽根のように軽々と、私は抱き上げられていた。


その衝撃で、閉じていた瞼がわずかに開く。

霞んだ視界の向こうに、初めてはっきりとその顔が映った。


漆黒の髪。

整いすぎているがゆえに、どこか冷たく感じられる美貌。

そして――赤みを帯びた、深い黒の瞳。

感情の読めないその瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしている。


心臓が、恐怖に竦み上がる。

この人は、味方ではない。

本能がそう告げていた。

この森で出会った魔獣たちよりも、なお底知れない何かを、その瞳の奥に感じたから。


逃げなければ。

そう思うのに、体はぴくりとも動かない。

声を上げようとしても、掠れた吐息が漏れるだけだった。


男の眉が、わずかに動く。

私の怯えを見て取ったのか、それとも別の何かに気づいたのか、その表情から読み取ることはできない。


「怖がらずとも、今は何もせぬ」


そう告げる声は、先ほどよりもわずかに低く抑えられていた気がした。

けれど、その言葉を最後まで受け止める力は、もう私には残されていなかった。

再び瞼が落ち、意識が深い闇へと引きずり込まれていく。

最後に感じたのは、思いのほか温かい体温と、規則正しい鼓動の音だけ。


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