4. 「着いたぞ」
馬車に揺られ続けて、何日が経っただろうか。
窓の外の景色は、いつしか穏やかな田園から、鬱蒼とした木々の連なる寂しい森へと変わっている。
空気も日ごとに冷たさを増し、薄い旅装一枚では、夜になると身を切るような寒さが染み込んでくる。
がくん、と大きく馬車が揺れて止まった。
「着いたぞ」
御者の低い声に、私は小さな鞄を抱えたまま扉に手をかける。
外に降り立つと、そこにあったのは寂れた森の入り口。
薄暗い木々の隙間から、夕暮れの赤い光がわずかに差し込んでいる。
「あの……ここは」
尋ねる私に、御者は振り返りもせず、投げ捨てるように言った。
「国境はもうすぐそこだ。ここで降りろ。これ以上は送らん」
「え……」
言葉を失う私を置き去りにするように、御者は手綱を素早く操り、馬車の向きを変え始める。
「待ってください、まだ何も――」
私の声など聞こえていないかのように、御者は馬に鞭を入れる。
車輪が土を跳ね上げ、あっという間に馬車は元来た道を引き返していった。
がらがらという車輪の音が遠ざかり、やがて森の静寂に呑み込まれて消えていく。
気づけば、私はたったひとり、見知らぬ森の入り口に取り残されていた。
「……そんな」
声が震える。
周囲を見回しても、人の気配は微塵も感じられない。
頭上を覆う木々の間から、夕暮れの空が細く覗いているだけ。
寒さが、じわじわと体の芯に染み込んでくる。
薄い旅装の裾を握りしめ、私は震える足を前へと踏み出した。
立ち止まっていても、誰かが助けに来てくれるわけではない。
それだけは、痛いほどよくわかっている。
森の奥へと進むにつれ、木々はいっそう深く重なり合い、わずかな光さえも遮っていく。
どこか遠くで、獣の遠吠えのようなものが聞こえた気がした。
思わず足を止め、息を潜める。
空耳であってほしいと願いながら、それでも耳の奥では、確かな不安が膨らみ続けている。
聖女としての力を失った今、私にはこの森の脅威から身を守る術がほとんどない。
かつては当然のように使えた癒しの光すら、今の私にどれほど残っているのかさえわからなかった。
震える両腕を胸の前で抱き寄せ、私はただひたすらに歩き続ける。
目指す場所も、頼れる人も、何ひとつない。
この暗い森を抜けた先に、いったい何が待っているのか――。
夕闇は刻一刻と濃くなり、森全体が冷たい闇に呑まれようとしていた。
☆
すっかり日が落ちた森の中で、私は大きな木の根元に身を寄せていた。
これ以上歩き続ける体力はもう残っていない。
せめて夜露を凌げる場所をと、太い幹に背を預けて膝を抱える。
冷え切った指先に息を吹きかけながら、私は闇の奥をじっと見つめ続けている。
がさり、と乾いた葉を踏む音がした。
心臓が大きく跳ねる。
息を殺して耳を澄ませると、その音はひとつではなかった。
複数の足音が、四方から少しずつ距離を詰めてくる。
木々の隙間から、黄色く光る目がいくつも現れた。
黒い毛並みに覆われた、狼に似た魔獣の群れ。
低い唸り声が重なり合い、森全体を震わせるように響いてくる。
「……嘘」
立ち上がる足が震える。
逃げなければ。
頭ではそうわかっているのに、体が思うように動かない。
心臓が耳の奥で早鐘のように鳴り、それ以外の音が一切聞こえなくなる。
掌にじっとりと冷たい汗が滲んだ。
一匹が地を蹴り、私に向かって跳びかかってきた。
とっさに体をひねって避けたものの、鋭い爪が肩をかすめ、鈍い痛みと共に旅装が裂ける。
焼けるような熱さの後に、じわりと血が滲む冷たい感触が広がった。
「っ……!」
痛みに構う余裕もなく、私は無我夢中で走り出した。
木の根に足を取られながらも、必死に前へ前へと進む。
肺が焼けるように痛み、吸い込む冷たい夜気が喉を刺す。
背後から、獣たちの荒い息遣いと足音が、確実に迫ってくる。
視界の端が黒く狭まり、自分の呼吸音だけがやけに大きく耳に響いていた。
ふと、掌に淡い光が灯りかけた。
癒しの力――かつてなら傷など一瞬で塞げたはずのその光は、今はあまりにも弱々しく、頼りない輝きしか放たない。
聖女の位を剥奪された今の私に、もう戦う力はほとんど残されていなかった。
「ああああっ!」
背後から強い衝撃を受け、私は前のめりに倒れ込む。
鋭い牙が肩に深く食い込み、焼けるような痛みが全身を貫く。
頭の中で鈍い耳鳴りが響き、私はそのまま地面に崩れ落ちた。
血の匂いが、湿った土の匂いに混じって広がっていく。
視界がぼやけ、体が急速に冷たくなっていくのがわかる。
指先の感覚が薄れ、握りしめようとした拳にもろくに力が入らない。
なんとか木の根元まで這いずり、幹にもたれかかる。
獣たちの唸り声は、まだ遠くから聞こえていた。
次の瞬間には、あの牙が再びこの身に食い込むのだろう。
けれど、もう恐怖すら感じられないほど、体の力が抜けていく。
「もう……」
掠れた声が、闇の中に溶けていく。
「誰も、助けてくれないのね……」
瞼が、鉛のように重くなっていく。
冷たい土の感触と、遠くから響く獣の唸り声を最後に、私の意識はゆっくりと闇の底へと沈んでいった。




