3.「練り歩いて」
灰色の旅装に身を包んだ私は、執行官に付き添われるようにして、王宮の裏門へと続く長い回廊を歩いていた。
小さな鞄ひとつを手に、粗末な靴で石畳を踏みしめる。
かつて聖女の礼装で歩いたときには気づかなかった、床の冷たさが足の裏から這い上がってくる。
回廊の両脇には、朝の支度を終えた貴族や使用人たちが立ち並んでいた。
私が通りかかると、彼らは一様に視線を逸らす。
昨日までは、私が通るたびに深く頭を垂れ祝福を求めていた人たちだった。
「聖女様、どうか私の子に祝福を」
そう言って涙ながらに手を握ってきた侍女も、今は目を合わせようとせず、俯いたまま私の横を通り過ぎていく。
誰も彼もが、私という存在を見なかったことにしようとしている。
回廊の奥から、くすくすという笑い声が聞こえた。
振り返らずとも、それが誰の取り巻きかはすぐにわかる。
派手な装いの令嬢たちが、扇の陰で私を指差し何事かを囁き合っては笑っている。
「あんなに我が物顔をして宮内を練り歩いていたのに、捨てられたのね」
わざと聞こえるように放たれた言葉が、胸の奥に小さな棘となって刺さる。
私は唇を引き結び、ただ前を向いて歩き続けた。
ここで足を止めれば、二度と歩き出せなくなる気がしたから。
裏門が見えてきた頃、背後から場違いなほど華やかな声が響く。
「あら、もうお帰りになるの?」
振り向かなくてもわかる。
アリアの声だった。
私は歩みを止めず、そのまま門へと向かう。
「お元気で。もう二度とお会いする事はないでしょうけど。ライオネル様は私が、幸せにしてあげるわ」
その一言が、耳から離れず胸の奥深くまで突き刺さる。
勝ち誇るような、それでいて心底楽しんでいるような響き。
私はぐっと拳を握りしめ、震えそうになる肩を無理やり静めた。
門番が、無表情のまま重い鉄門を開く。
その先には、これまで見たこともない、王都の外へと続く道が広がっていた。
一歩、また一歩と門をくぐるたびに、これまでの日々が音もなく後ろへと流れ去っていくような感覚に襲われる。
祝福を捧げた兵士たちの笑顔も、ライオネル様と過ごした夜も、教会で祈りを捧げた静かな朝も――すべてが、もう二度と手の届かない場所へと遠ざかっていく。
門の外で、粗末な馬車が私を待っていた。
御者は、私と目を合わせようともしない。
私は最後にもう一度だけ、振り返る。
王宮の尖塔が、朝の光を受けて美しく輝いている。
長年、私が仕えた場所。
私が愛した人達がいる場所。
もうそこに私の居場所はない。
小さく息を吸い込み、私は馬車へと足を踏み入れた。
扉が閉まり静かに、確かに、これまでの人生の幕を下ろす音がする。
☆
がたがたと揺れる馬車の中、私は膝の上に置かれた小さな鞄を見つめていた。
中に入っているのは、数冊の祈祷書と、着替えが一枚だけ。
かつて聖女として与えられていた宝飾品も、豪奢な衣装も、もう何ひとつ残されていない。
これが、私に許された全財産。
窓の外を流れる景色を眺めながら、私は静かに息を吐く。
見慣れた王都の街並みは、すでに遠く後方へと消えていた。
代わりに広がるのは、見知らぬ田園と、どこまでも続く曇り空。
馬車の中に、他に人はいない。
御者すら、必要最低限の言葉しか私に向けなかった。
ただ規則正しい車輪の音だけが、単調に響き続けている。
自然と、瞼の裏にこれまでの日々が蘇る。
初めてライオネル様と出会った日のこと。
戦地に赴く彼のために祝福の祈りを捧げたとき、彼が振り返って「ありがとう、エミア」と微笑んでくれたこと。
あの笑顔を見るたびに、私はどれほど胸を温かくしていただろう。
戦場で、傷ついた兵士たちに癒しの光を注いだ記憶も、次から次へと浮かんでくる。
血だらけで倒れていた若い兵士が、光に包まれて目を覚まし、涙を流しながら「ありがとうございます、聖女様」と何度も頭を下げてくれたこと。
あの瞬間だけは、自分の力が誰かの役に立っているのだと、心から実感できた。
教会で過ごした幼い日々も思い出される。
厳しくも温かかった修道女たちに囲まれ、祈りの言葉を一つひとつ教わったこと。
初めて癒しの光を灯せたとき、皆が驚き、喜んでくれたこと。
そのすべてが、たった一日で私の手からこぼれ落ちてしまった。
婚約者も、聖女の位も、私を慕ってくれていたはずの人々も――築き上げてきたものが、まるで最初から存在しなかったかのように、跡形もなく消えていく。
膝の上で握りしめた拳が、小さく震える。
堪えようとしても、瞳の奥から熱いものがせり上がってきて、頬を伝い落ちていく。
「うぅ……」
声を殺して泣きながら、私は窓の外の曇り空を見つめ続けた。
誰も見ていない、この狭い馬車の中でだけは、思う存分泣いてもいいはず。
涙が止まる頃には、日はすでに西へと傾き始めていた。
これから自分がどこへ向かい、何を頼りに生きていけばいいのか――その答えを、私はまだ何ひとつ持っていない。
ただ揺れる馬車の音だけが、先の見えない旅路を静かに刻み続けている。




