2.「王宮から去るように」
「エミア・エール」
ライオネル様の声が、再び謁見の間に響いた。
私は震える体を叱咤して、なんとか顔を上げる。
「明日までに、王宮から去るように」
その言葉に、周囲がわずかにざわめいた。
けれど誰も、私を庇う声を上げる者はいない。
かつて祝福を求め、私の手を涙ながらに握った貴族たちも今はただ興味深そうにこちらを窺うだけだった。
「……かしこまりました」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
深く一礼し、踵を返す。
もうこの場所に、私の居場所はない。
それだけは、痛いほどはっきりとわかった。
謁見の間を出るまでの、あの短い距離が途方もなく長く感じられた。
左右に並ぶ人々の視線が、無数の針のように肌へ突き刺さる。
かつて「聖女様」と呼び、微笑みかけてくれた侍女たちは、今は皆一様に目を逸らしている。
誰も、私と目を合わせようとしない。
まるで、私という人間がすでにこの世から消えてしまったかのようだった。
長い廊下を歩きながら、私は必死に涙を堪えた。
ここで泣いたら、きっともう立ち直れなくなる。
そんな予感がしていた。
自室の扉を閉めた瞬間、張り詰めていた何かがぷつりと切れた。
膝から力が抜け、私はそのまま床に崩れ落ちる。
指先が、左手の薬指に触れた。
ライオネル様から贈られた、小さな青い宝石の指輪。
戦地に赴く彼のために、私が祝福を込めて共に選んだものだった。
震える指でそれを外し、掌の中でじっと見つめる。
こんなに小さくて、こんなに軽いものだったのに。
これを嵌めていた日々は、私にとって何よりも大切な、確かな幸福だったのに。
指輪を静かに小卓の上に置くと、私はそのままベッドへ倒れ込んだ。
柔らかな寝具に顔を埋め、声を殺して泣いた。
誰にも聞かれないように、誰にも知られないように。
涙は止めどなく溢れ、枕を濡らしていく。
戦場で数えきれないほどの兵士を癒し、教会で誰よりも熱心に祈りを捧げてきた日々。
そのすべてが、たった一日で音を立てて崩れ去ってしまった。
「どうして……」
掠れた声が、静かな部屋に溶けていく。
「私は、足りなかったのでしょうか……」
答えてくれる人は、もういない。
窓の外では、王都の夜がいつもと変わらず更けていく。
祝賀の宴の余韻を残す遠い喧騒だけが、かすかに耳に届いていた。
私はその音を聞きながら、闇の中でひとり、静かに涙を流し続けた。
明日には、この部屋も、この王宮も――私の知るすべてが、遠いものになる。
☆
一睡もできないまま、窓の外が白み始めるのを、私はぼんやりと眺めていた。
扉を叩く音がしたのは、それからすぐのことだった。
応える間もなく開かれた扉の向こうに立っていたのは、教会の執行官と、見知らぬ侍女が二人。
かつて私の身の回りを世話してくれていた侍女たちの姿は、そこにはなかった。
「エミア様。聖女位剥奪の儀を執り行います」
執行官は感情のない声でそう告げると、私の返事を待たずに部屋の中へと入ってきた。
侍女たちが手にしているのは、灰色の粗末な布地の旅装だった。
「まず、その衣をお脱ぎください」
私が纏っているのは、聖女として長年身につけてきた白い法衣だった。
清められた糸で織られ、裾には祝福の紋様が丁寧に刺繍されている。
この衣を着るたび、私は自分が果たすべき役目を胸に刻んできた。
侍女の手が、迷いなく私の肩に触れる。
抗う気力もなく、私はされるがままに立ち尽くした。
白い衣が肩から滑り落ち、床に音もなく積もっていく。
それはまるで、私という存在の輪郭が少しずつ剥がされていくようだった。
「首飾りと、髪飾りも」
執行官が淡々と手を差し出す。
首元に触れると、そこには聖女に叙任された日、大司教から直々に授けられた首飾りがあった。
小さな聖石が、朝の光を受けてかすかに輝いている。
指が震え、うまく留め具が外せない。
それでも私は、なんとか自分の手で外そうとした。
せめて最後くらいは、自分の意思で。
けれど震える指はもどかしいほど動かず、見かねた侍女がそっと手を伸ばし、代わりに外してしまう。
首飾りが、執行官の掌の上に静かに載せられた。
続けて、銀色の髪飾りも同じように取り上げられていく。
「これより、あなたは聖女ではありません」
執行官の声には、憐れみのかけらもなかった。
ただ事実を読み上げるような、乾いた響きだけがそこにあった。
灰色の旅装を頭から被せられ、粗い布地が肌に触れる感触に、私はようやく現実を実感した。
柔らかく清らかだった法衣とは違う、ざらついた重み。
これが、これから私が纏っていく現実の重さなのだと。
侍女たちが手早く支度を終え、脱がされた白い法衣を丁寧に畳んで運び出そうとする。
とっさに、私はその裾に手を伸ばしていた。
「……少しだけ」
震える声で呟き、法衣の端を強く握りしめる。
長年、私を守り、私を導いてくれた白い布の感触を、指先に刻みつけるように。
侍女が困ったように執行官を見遣ったが、彼は小さく頷いただけだった。
哀れみからではなく、ただ手間を省くための沈黙だったのだろう。
私はしばらくの間、その端切れのような感触を握りしめたまま、動くことができなかった。
窓の外では、王都の朝が何事もなかったかのように始まろうとしていた。




