1. 「それがお似合い」
凱旋を祝う謁見の間は、金と紅の垂れ幕で飾られ、いつになく華やいでいた。
魔族との戦争に勝利したゼントロール王国王子にして英雄、ライオネル・ヴァルハイト様の帰還を、王国中が待ち望んでいた。
だから私も、朝から念入りに身支度を整えて、この場所に立っている。
婚約者として、彼の隣に立つはずだった場所に。
けれど、私が立っているのは玉座の隣ではなく階段の下だった。
視線を上げると、玉座の傍らに見知らぬ女性が寄り添っていた。
褐色の肌に、燃えるような赤い瞳。
南方特有の華やかなドレスを纏った彼女は、勝ち誇ったような笑みを浮かべて私を見下ろしている。
「エミア・エール」
低く、よく通る声が謁見の間に響いた。
ライオネル様だ。
金色の髪に、戦場の陽に焼けた精悍な顔立ち。
かつて私が心から慕っていた人が、今は氷のような目で私を見つめている。
「私はお前との婚約を解消する」
その一言が、耳の奥で何度も跳ね返った。
すぐには意味が飲み込めなくて、私はただ立ち尽くす。
周囲がざわめいた。
集められた貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁き合っている。
教会の重鎮たちは、驚いた様子もなく、ただ静かにこちらを見守っていた。
まるで、この結末をあらかじめ知っていたかのように。
「……婚約を、解消……?」
やっと絞り出した声は、自分でも情けないほど震えていた。
ライオネル様は表情ひとつ変えない。
「聞こえなかったか。もう一度言おう」
彼は玉座の肘掛けに手をかけ、退屈そうに続けた。
「お前とは、婚約を解消する。お前のような女には、王妃は務まらない」
胸の奥で、何かが音を立てて崩れていくのがわかった。
この人のために、私はずっと祈ってきた。
彼が戦場に赴くたびに祝福を捧げ、傷ついた兵士たちを癒し続けてきた。
それなのに。
「私は……何か、いたらないことがございましたでしょうか」
震える声で尋ねる私に、ライオネル様はわずかに眉をひそめただけだった。
「いたらない、というより――お前は、女としてつまらない」
会場が静まり返った。
誰も、何も言わない。
「王妃には、政略も、欲も、駆け引きもわかる女が相応しい。お前のようにただ祈るだけの女ではなく、な」
赤い瞳の女性が、口元に手を当ててくすりと笑うのが見えた。
その笑い声が、割れた鏡のように私の耳を切り裂いていく。
視界がゆっくりと歪んでいく。
周囲の貴族たちの顔も、金の垂れ幕の色も、すべてが滲んで見えなくなる。
――ああ、私は今、この国の王子様の婚約者ではなくなったのだ。
その事実だけが、冷たく胸に沈んでいった。
呆然と立ち尽くす私に、追い打ちをかけるように甲高い声が響いた。
「あら、聖女様。そんなに悲しい顔をなさらないで」
赤い瞳の女性――アリアと名乗る女性が、扇をひらりと揺らしながら私の前に進み出る。
褐色の肌に浮かぶ笑みは、憐れみとも嘲りともつかない、いやに甘ったるいものだった。
「これからはどこかの寺院で、お祈りでもしていらしたらいかがかしら。それがお似合いですもの」
くすくすと笑う彼女の声に合わせて、周囲の貴族たちからも小さな失笑が漏れた。
私を「聖女様」と呼び、祝福を求めてきた人たちの中に、同じ顔で笑っている者がいることに気づいて、胸の奥が冷たく痺れていく。
そこへ、教会の重鎮――ゾルタン枢機卿が、静かに歩み出た。
「エミア殿」
低く、感情の読めない声だった。
彼は長年、私を「神の娘」と讃え、聖女としての務めを共に担ってきた人だ。
だからこそ、その口から出た言葉に私は耳を疑った。
「英雄王子殿下の幸福こそ、王国にとって何よりの祝福。聖女の位は、本日をもって剥奪といたします」
「……剥奪……」
その言葉を、私はただ繰り返すことしかできなかった。
聖女の位は、生まれ持った加護によって授かるものだ。
紫がかった銀色の長い髪と、透き通るような青い瞳。
誰もが聖女の証だと言った。
それがまさか人の手で剥ぎ取れるものだと、考えたこともなかった。
「聖女の務めは、また別の形でお果たしなさい」
ゾルタン枢機卿はそう言い残すと、興味を失ったように視線を逸らした。
まるで、私という存在がすでに用済みの道具であるかのように。
膝が震え、崩れ落ちそうになるのを、私はなんとか堪えた。
ここで泣いてはいけない。ここで取り乱してはいけない。
長年、そう自分に言い聞かせて生きてきたはずなのに、目の前が熱く滲んでいく。
「……今まで、私は」
声が掠れる。
それでも私は、精一杯の力を振り絞って顔を上げた。
「私は……何か、過ちを犯しましたでしょうか」
その問いに、答える者はいなかった。
ライオネル様は、私を見ようとしなかった。
ただ黙って、玉座の肘掛けに視線を落としている。
かつて戦場で私の手を握り、「君がいてくれるから戦える」と囁いてくれた同じ手が、今は私から目を逸らすためだけに動いている。
その沈黙こそが、何よりも雄弁な答えだった。
心の奥で、大切に守ってきた何かが、音もなく砕けていくのがわかった。
もう誰も、私を見てくれない。
もう誰も、私の名を「聖女」とは呼ばない。
謁見の間に満ちる冷たい空気の中、私はただひとり、崩れ落ちる自分を必死に支え続けていた。




