10. 「暇な時」
朝食を終えて間もなく、彼が部屋を訪れた。
いつもと変わらぬ静かな足取りで入ってくると、彼は寝台の傍らに立つ私の前で、迷いのない声で告げる。
「今日から、君を俺の特別な客人とする」
「特別な……客人」
繰り返す私に、彼はさらに言葉を重ねた。
「君は俺のものだ」
息が、喉の奥で止まった。
あまりにも唐突で、あまりにも明確な宣言。
頬が瞬く間に熱を帯びていくのを感じながら、私はただ彼の顔を見つめることしかできない。
「あの……それは、どういう」
「言葉通りの意味だ」
彼は表情を変えることなく、当然のようにそう言い切る。
反論の余地を与えないその口調に、私はますます戸惑いを深めるばかり。
戸惑う私の手を、彼が不意に取った。
硬く大きな手のひらに包まれた私の手は、驚くほど小さく見える。
「来い」
短く告げると、彼は私の手を引いて部屋を出た。
長い回廊を通り抜け、彼が向かったのは城内の庭園。
扉を抜けた瞬間、目の前に広がったのは、丁寧に手入れされた美しい庭だった。
色とりどりの花々が咲き誇り、大理石の噴水が朝の光を反射してきらめいている。
水の弾ける涼やかな音と、冷たく澄んだ朝の空気が肌を撫で、微かな土と青草の匂いが胸いっぱいに広がった。
ゼントロール王国の庭園とはまた違う、力強くも整然とした美しさがそこにはある。
けれど、それに見惚れる間もなく、私は自分の置かれた状況に気づいて息を呑んだ。
庭には、すでに幾人もの側近や使用人たちが控えている。
彼らの視線が、一斉にこちらへと向けられた。
「陛下……」
困惑気味に呟く側近の一人に、彼は私の手を離さないまま、はっきりとした声で告げる。
「この女性は、俺の特別な客人だ」
一同がわずかにざわめいた。
皇帝が誰かをこれほど公然と傍らに置くこと自体、異例のことなのだろう。
私は恥ずかしさで顔を上げられないまま、ただ俯いていた。
彼はさらに続ける。
冷ややかな、それでいて有無を言わさぬ声で。
「この女性に、指一本触れるな」
その場に集った者たちが、一様に息を呑むのがわかる。
「触れた者は、許さない」
その言葉には、これまで聞いたどんな命令よりも重い響きがあった。
冗談でも脅しでもない、確かな本気が滲んでいる。
側近たちが深く頭を垂れ、恭しく「御意」と答える声が、庭に静かに響いた。
私はただ、繋がれたままの手の温もりを感じながら、状況を呑み込めずに立ち尽くす。
自分がこの帝国で、いったいどのような存在として扱われようとしているのか――その答えが、少しずつ、確かな形を持って迫ってきていることだけは、感じ取ることができた。
☆
庭園での宣言の後も、彼は私の手を離そうとはしない。
「せっかくだ。城内を案内しよう」
そう言って歩き出す彼の後を、私は戸惑いながらもついていくしかなかった。
繋がれた手のひらの熱さが、意識するほどにいっそう強く伝わってくる。
案内された先は、幾重にも花壇が連なる中庭。
花々が、朝露に濡れてきらきらと輝いている。
北方の厳しい気候の国とは思えないほど、そこには柔らかで華やかな景色が広がっていた。
頬を撫でる風は思いのほか冷たく澄んでいて、その隙間から、蜜のように甘い花の香りがふわりと鼻先をくすぐる。
どこかで小鳥が短く鳴き交わす声が聞こえ、噴水の水音が絶え間なく耳を満たしていた。
「これは、南方から取り寄せた品種だ」
彼は珍しく自分から言葉を継ぎ、傍らに咲く鮮やかな赤い花を指し示す。
感情の起伏をほとんど見せない声のはずなのに、その説明には、どこか誇らしげな響きが混じっている気がした。
「陛下御自らが、庭の花にまでお詳しいのですね」
思わず漏らした感想に、彼はわずかに眉を上げる。
「暇な時に見て回るだけだ。大した話ではない」
素っ気ない返しではあったものの、その言葉の端々に、彼なりの拘りが滲んでいるように感じられた。
中庭をさらに進むと、大きなガラス張りの温室が見えてきた。
中に足を踏み入れると、外の冷たい空気とは打って変わって湿り気を帯びた温かな空気と、むせ返るような花と緑の香りに包まれる。
肌にじんわりと汗が滲むほどの熱気の中、異国の珍しい植物がずらりと整然と並んでいた。
硝子越しに差し込む陽光が、葉の緑を透かして床に淡い影を落としている。
「綺麗……」
思わず呟く私の隣で、彼は静かに歩調を合わせている。
すれ違う庭師や使用人たちが、驚いたように目を見開き、慌てて頭を垂れていくのがわかった。
皇帝が誰かをこうして連れ立って歩く姿など、誰も見たことがないのだろう。
視線を集めていることに気づき、私は俯きがちに歩を進める。
頬が熱を帯びていく。
「気にするな」
その様子を見抜いたのか、彼が低く言った。
同時に、大きな手が私の腰にそっと添えられる。
「……っ」
不意打ちのその仕草に、心臓が跳ねた。
抗議の言葉を発する間もなく、彼は何事もなかったかのように、視線を前方へと戻している。
腰に添えられた手の温もりが、じんわりと伝わってくる。
歩くたびに感じるその重みに、私はどう反応すればいいのかわからず、ただ黙って歩き続けるしかなかった。
温室を抜ける頃には、周囲の視線にもすっかり体が強張っていた。
それでも、隣を歩く彼の存在が、不思議なほど心強く感じられることに、私は気づかずにはいられない。
かつて婚約者だった人の隣を歩いていたときには、こんな安心感を覚えたことはなかった気がする。
その事実に、私は自分でも戸惑いながら、密かに胸の内で問い続けていた。




