11.「馬の骨」
温室を後にした私たちは、彼に導かれるまま城の外れにある軍病院へと向かった。
石造りの重厚な建物に足を踏み入れると、そこには苦しげなうめき声が幾重にも響き渡っている。
ベッドに横たわる兵士たちの多くが、包帯を巻かれた腕や足を抱え、痛みに顔を歪めていた。
直近の小規模な戦闘で負傷した者たちなのだと、案内してくれた軍医が静かに説明してくれる。
その光景を目にした瞬間、私の中で何かが激しく疼いた。
かつて戦場で数えきれないほどの兵士を癒やしてきた記憶が、鮮やかに蘇る。
祈りを捧げるたびに浮かんだ、彼らの安堵の表情。
誰かの痛みを取り除けることの喜びを、私はこの時、久しぶりに全身で噛み締めていた。
「陛下、よろしいでしょうか」
思わず尋ねる私に、彼は静かに頷く。
その眼差しには、許可というよりも、期待に似た色が浮かんでいる気がした。
私は迷わず病室の中央へと進み出た。
両手を胸の前で組み、心の中で祈りの言葉を紡いでいく。
掌の中心に灯った光は、これまでで一番強く、鮮やかな輝きを放っていた。
「これは……!」
一人の兵士が、驚いたように声を上げる。
光が病室全体を包み込むように広がっていく。
深い傷を負った兵士の肌が見る間に塞がり、青白かった顔色に、みるみる血の気が戻っていった。
「痛みが……痛みが消えた……!」
「聖女様……!これは、聖女様の光だ……!」
あちこちから、感嘆と歓喜の声が上がる。
起き上がれなかった兵士が涙を流しながら体を起こし、両手を組んで祈るように私を見つめてきた。
かつて王国の戦場で見た光景と同じか、それ以上に温かい感謝の眼差しが、私を包み込んでいく。
「聖女様、ありがとうございます……!本当に、ありがとうございます……!」
一人の若い兵士が涙ながらに何度も頭を下げる姿に、私の胸も熱を帯びる。
この力は、まだ確かに誰かの役に立てるのだと、その事実が何よりも救いのように感じられた。
すべての治癒を終える頃には、病室は静かな感動に満たされていた。
彼が、一歩前に進み出た。
普段は何も映さないその顔に、確かな誇らしさが滲んでいる。
「この女性は、帝国の宝だ」
低く、はっきりとした声が病室に響き渡る。
「以後、敬え」
その一言に、兵士たちが一斉に頭を垂れる。
感謝と敬意の入り混じった視線が、私に一斉に注がれる。
隣に立つ彼の横顔を見上げると、宵の色をした瞳が、まっすぐに私を見つめていた。
誇らしげな、それでいてどこか優しさを帯びたその眼差しに、私は胸の内側にじんわりと灯がともるのを感じる。
☆
夕刻、部屋に戻った私は、寝台の縁に腰かけてぼんやりと今日一日を振り返る。
軍病院での出来事は、まだ胸の奥に温かい余韻を残していた。
あれほど久しぶりに、自分の力で誰かの役に立てたという実感を得られたことが、何よりも嬉しい。
その一方で、廊下ですれ違いざまに聞こえた、貴族令嬢たちの囁き声が棘のように胸に残る。
「どこの馬の骨とも知れぬ女が、陛下のご寵愛を独り占めするなんて」
「聖女とはいえ、しょせんは余所者ですもの。長くは続かないでしょうけれど」
聞こえないふりをして通り過ぎたものの、その言葉は思いのほか深く突き刺さっていた。
この帝国に自分の居場所などまだない、そんな不安が幸福な一日の終わりにふと影を落とす。
そこへ、いつものように控えめな足音と共に彼が現れた。
「まだ起きていたか」
「はい。少し、今日のことを思い返しておりました」
素直に答えると、彼は寝台の傍らの椅子ではなく、なぜか私の背後にゆっくりと回り込む。
「髪を、下ろせ」
短い指示に戸惑いながらも、私は結い上げていた髪紐をそっと解いた。
紫がかった銀の髪が、さらりと肩から背中へと流れ落ちていく。
驚いたことに、彼はその髪に自らそっと手を伸ばした。
侍女が使うような繊細な櫛を手に取り、毛先から丁寧に梳き始める。
「あの……陛下御自らが、そのようなことを」
「侍女に任せるほどのことでもない」
素っ気ない返事とは裏腹に、その手つきは驚くほど優しい。
もつれた髪の一房一房を、決して痛くないように、確かめるようにゆっくりと梳いていく。
しばらくの間、部屋には櫛が髪を通る微かな音だけが響いていた。
暖炉の炎が揺れる音、彼の穏やかな呼吸、そして自分の鼓動――そのすべてが、不思議なほど心地よい静寂を作り出している。
「疲れただろう」
不意に、低く囁くような声が耳元で響いた。
「今日は、よく働いた」
その一言に、胸の奥がじんわりと温かくなる。
労いの言葉をかけられることに、私はどれほど飢えていただろう。
ゼントロール王国では、聖女としての務めを果たすことが当然とされ、こうして労われることはほとんどなかった。
「……ありがとうございます」
震えそうになる声を、なんとか抑えて答える。
彼は何も言わず、ただ静かに髪を梳き続けている。
その手の動きに合わせて、体の力が少しずつ抜けていく。
かつては警戒するばかりだった彼の存在が、今はこうして寄り添う温もりとして自然に受け入れられていることに、私は自分でも驚いていた。
冷酷な氷の皇帝と恐れられている人。
それでも、こうして触れる手には、確かな優しさが宿っている。
その矛盾するような二つの顔を、私はどちらも少しずつ知り始めていると感じていた。
梳き終えた髪を、彼はそっと肩に流し戻した。
指先が首筋を掠め、その微かな感触に、私は思わず身を竦める。
「おやすみ」
短く告げて立ち上がる彼の背中を、私はしばらくの間、じっと見つめていた。
先ほど耳にした棘のある言葉は、彼の温もりの中でいつの間にか小さく萎んでいく。




