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12.「昔のこと」

彼が去った後も、なぜか眠気は訪れない。

今日一日の出来事が、次々と胸の中を巡っていく。


庭園での宣言、温室での散策、軍病院での歓声、そして先ほどの、髪を梳いてくれた優しい手。

あまりにも多くのことが一度に起こりすぎて、心がまだ追いつかずにいる。

寝台に横になり、天井をぼんやりと見つめていると、再び扉が静かに開いた。


「まだ眠れないのか」


戻ってきた彼が、私の様子を見て小さく眉を寄せる。

私は慌てて体を起こそうとしたが、彼はそれを制するように寝台の縁に腰を下ろした。


「少し……今日はいろいろとありましたので」


正直に答えると、彼はしばらく無言で私を見つめている。

やがて、何を思ったのか寝台に自ら横たわり、逞しい腕を私の頭の下へと差し入れた。


「……っ、陛下、何を!?」


驚いて身を強張らせる私に、彼は静かに囁く。


「そのまま、休め」


戸惑いながらも、私はおずおずと彼の腕に頭を預けた。


硬い腕のはずなのに、そこには思いのほか確かな温もりがある。

規則正しい鼓動が、耳の近くから静かに伝わってくる。

もう一方の手が、私の頭をゆっくりと撫で始めた。

大きな手のひらが、髪を一房一房丁寧に梳くように動いていく。

その仕草には、これまで見たどんな彼の姿とも違う、静かな慈しみが込められていた。


「俺が守る」


抑えた声が、闇の中で静かに輪郭を持つ。


「もう二度と、誰にも傷つけさせはしない」


その言葉に、胸の奥が大きく震えた。

誰かにこんなふうに、無条件に守ると言ってもらえたのは、いったいいつ以来だろう。

ライオネル様との日々にさえ、こんな確かな安心感を抱いたことはなかった気がする。


瞼の奥が、じんわりと熱を帯びる。

溢れそうになる涙を堪えながら、私は彼の腕にそっと身を寄せた。


「……ありがとうございます」


掠れた声で紡いだその言葉に、彼は何も返さない。

ただ、頭を撫でる手が、これまでよりもわずかに優しさを増したように感じられた。


規則正しい鼓動と、髪を撫でる穏やかな手の感触に包まれながら、私は初めて、心の底から安らぎを感じている。

冷たいはずの氷の皇帝の腕の中で、こんなにも温かい気持ちになれるとは、少し前の自分には想像もできなかったこと。

その温もりに身を委ねながら、私はゆっくりと瞼を閉じていく。



腕枕で眠りについたあの夜から、数日が経っている。

城の庭に咲く花々は少しずつ移ろい、赤く色づき始めた蔦の葉が、石壁を静かに彩っていた。


朝の光が差し込む食堂で、私たちはいつものように向かい合って食事を摂っている。

温かなスープの湯気を眺めながら、私はふと、遠い記憶に意識を引き寄せられていた。


ゼントロール王国での朝食の光景――ライオネル様と並んで座り、他愛のない会話を交わしていた、あの穏やかだった日々。

あの頃は、これほど自分の未来が変わってしまうとは、想像もしていなかった。


「……エミア」


低い声に、私は我に返る。

顔を上げると、彼が鋭い視線でこちらを見つめていた。


「何を考えている」


短い問いに、私は思わず取り繕うような笑みを浮かべる。


「いいえ、何でも」

「隠さなくていい」


その一言は、静かでありながら、有無を言わせない強さを帯びている。

フォークを置いた彼が、まっすぐに私を見据えた。


「顔に、出ている」


指摘されて、私は思わず頬に手をやった。

表情を隠すのは得意なはずだったのに、彼の前ではなぜかそれがうまくいかない。

まるで、自分でも気づかない心の奥底まで見透かされているような気がする。


「……少し、昔のことを思い出しておりました」


観念して呟くと、彼はしばらく黙って私を見つめている。

追及するでもなく、かといって話を逸らすでもない、静かな沈黙。


「王国での日々か」


その問いに、私は小さく頷くしかなかった。

胸の奥に、まだ疼くような痛みが残っていることに、私自身も気づいていなかったわけではない。

聖女の位を剥奪され、婚約者に見捨てられ、追放された、あの日々の記憶。

この帝国で温かく迎えられ、少しずつ心が解けていく中でも、時折ふとした瞬間に、あの日の冷たさが胸をよぎることがあった。


「無理に、忘れようとしなくていい」


彼の声には、これまで聞いたことのない静かな響きが宿っている。


「傷は、いきなり消えるものではない」


その言葉に、私は驚いて彼を見つめた。

感情を表に出すことの少ない彼が、こんなにも人の心の機微を理解しているとは、思ってもいなかった。


「陛下は……」


言いかけた言葉を、私は途中で呑み込む。

彼にも、何か語らない過去があるのかもしれない。

そんな予感が、ふと胸をよぎったからだった。


彼は何も答えず、ただ静かにスープを口へと運ぶ。

それ以上何かを問うことはなく、その沈黙の中には、確かな理解のようなものが感じられた。

朝の食卓に流れる静けさの中で、私は自分の中にまだ残る痛みと、この人が示してくれる不器用な優しさの両方を、そっと胸に抱きしめている。


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