13.「後悔する」
朝食を終えた後、彼は何も言わずに私の手を取り、城内の温室へと連れて行く。
異国の花々が咲き誇るその場所は、いつ訪れても穏やかな香りに満ちている。
誰も近づけないようにと側近たちに命じたのか、広い温室には私たち二人以外、誰の姿もない。
硝子天井を打つ、ぽつり、ぽつりという雨音だけが、静けさの中に微かなリズムを刻んでいた。
土と葉の匂いに混じって、どこかで甘く咲く白い花の香りが、ふわりと鼻先を掠める。
長椅子に並んで腰を下ろすと、彼はしばらく何も言わず、ただ静かに私の言葉を待ってくれている。
その沈黙が、不思議と心を落ち着かせてくれる。
「……お話し、してもよろしいでしょうか」
震える声で切り出すと、彼は小さく頷いた。
それだけで、胸の奥に押し込めていた重い記憶が、ゆっくりと溶け出していくのを感じる。
「婚約を破棄されたあの日のことです」
言葉を選びながら、私は少しずつ語り始める。
凱旋の祝賀の場で、大勢の貴族たちが見守る中、ライオネル様から突然告げられた別れの言葉。
褐色の肌の美しい女性が、勝ち誇ったように微笑んでいた光景。
「聖女の位も、その日のうちに剥奪されました。誰も、私を庇ってはくれませんでした」
声が微かに震える。
それでも私は、言葉を止めない。
堪えていた記憶を吐き出すたび、胸の奥に溜まっていた重さが、少しずつ軽くなっていくような気がする。
追放された日のこと、粗末な馬車に揺られながら過ごした孤独な旅路のこと、国境の森に置き去りにされたこと――一つひとつ語るうちに、視界の縁がじわりと滲み始める。
「森で……魔獣に襲われたときは、本当に、もう誰も助けてくれないのだと思いました」
涙が、頬をこぼれ落ちていく。
それを拭う間もなく、私はその夜の恐怖を言葉にしていった。
冷たい土の感触、迫りくる獣の唸り声、そして意識が闇に沈んでいく、あの瞬間の絶望。
気づけば、大きな手が私の手をそっと握りしめてくれている。
顔を上げると、彼は真剣な眼差しでこちらを見つめていた。
冷徹だと言われる皇帝の瞳に、確かな痛みのような色が滲んでいる。
「よく、耐えたな」
静かでありながら、揺るぎない芯を持つ声。
その一言が、これまで誰にも言ってもらえなかった労いのように、胸の奥深くまで染み渡っていく。
「怖かったです。本当に、怖かった……」
嗚咽混じりに呟く私の手を、彼はさらに強く握りしめる。
言葉はそれ以上なくとも、その温もりだけで、十分すぎるほどに伝わってくるものがあった。
しばらくの間、温室には私の啜り泣く声だけが静かに響いていた。
それでも、隣に彼がいてくれるという事実が、これまで一人で抱え続けてきた重荷を、少しずつ和らげてくれているのを感じている。
涙が涸れる頃、私はようやく小さく微笑むことができた。
彼の手はまだ、私の手を優しく包み込んだままでいる。
☆
私の話を聞き終えた彼は、しばらくの間、何も言わなかった。
握られたままの手に、微かに力がこもる。
その静けさの中に、抑えきれない何かが渦巻いているのが伝わってきて、私は思わず彼の横顔を見つめた。
瞳の奥、深い黒に沈む紅の色が、これまで見たことのないほど冷たく研ぎ澄まされている。
あまり感情を見せない彼から、これほど明確な怒りが滲み出ているのを、私は初めて目にした気がした。
「その男は」
低く、静かな声。
それでいて、その声音には抑えきれない激しさが確かに滲んでいる。
「愚かだ」
短く言い切ったその言葉に、私は驚いて息を呑む。
「君のような聖女を、みすみす手放した。その意味を、あの男はまだ理解していない」
彼の声には、これまでにない鋭さがあった。
「君のような、慈しみに満ちた心を持つ者は、そう多くはない。あの男は、一生をかけて後悔することになるだろう」
胸の奥に、小さな震えが走った。
かつて自分を「つまらない女」と切り捨てた人の言葉が、彼の一言によって、まるで嘘のように色褪せていくのを感じた。
彼の手が、そっと私の頬に伸ばされる。
その指先が、驚くほど優しく、涙の跡を辿るように頬を撫でていった。
「ここでは」
その声は、いつになく低く、深いもの。
「もう君は傷つく事などない」
まっすぐに私を見据える瞳には、確かな誓いの色が宿っている。
滅多に本音を明かさない彼が、あえて言葉にしてくれることの重みを、私は痛いほど感じていた。
「二度と、泣かせない」
その一言と共に、彼は私をそっと抱き寄せる。
硬い胸に頬を預ける形になり、私は驚きながらも、身を委ねるようにその温もりに寄りかかった。
規則正しい鼓動の音を耳元に感じながら、私は静かに目を閉じる。
彼の腕の中には、確かな安堵と、これまで感じたことのない強い保護欲のようなものが満ちている。
冷酷な皇帝と恐れられる人が、これほどまでに強く自分を守ろうとしてくれている。
その事実に、胸の奥が温かく満たされていくのを感じながら、私はしばらくの間、その腕の中で静かに時を過ごした。
温室に満ちる花の香りと、彼の確かな温もりに包まれながら、私はようやく、過去の痛みから少しずつ解き放たれていくような感覚を覚える。




