14. 「悪くない」
しばらく彼の腕の中で過ごした後、私はゆっくりと体を離した。
まだ熱の残る頬を持て余しながら、私は彼の顔を見上げる。
感謝の気持ちが、胸の奥から自然と溢れてきていた。
「陛下」
呼びかけると、彼は静かにこちらを見つめ返す。
「せめて、私にできることを」
そう言って、私は彼の手を取った。
硬く大きなその手のひらに、両手をそっと重ねる。
「俺は傷などない」
素っ気ない返事とは裏腹に、彼は手を引くことなく、そのまま私の好きにさせてくれた。
私は小さく微笑み、祈りの言葉を紡いでいく。
掌の中心に、柔らかな光が灯り始める。
傷を癒すためのものとは違う、もっと穏やかで温かな光。
誰かを労うための祈りの光を、私は久しく使っていなかった。
淡い光が、彼の手を包み込むように広がっていく。
「……何をしている」
戸惑うような声に、私は小さく答えた。
「感謝の気持ちです。傷でなくても、癒しの光は、疲れを和らげることができますから」
光に包まれた彼の表情が、わずかに変化する。
それまで張り詰めていた眉間の皺が、ふと緩んだ。
目を閉じた彼の顔に、これまで見たことのない穏やかさが浮かんでいる。
「……不思議な、感覚だ」
低く呟くその声には、驚きと、確かな心地よさが滲んでいた。
「これが、聖女の力か」
「はい。ただ傷を癒すだけでなく、心を落ち着かせる力もあると言われています」
私の説明に、彼は静かに頷く。
目を閉じたまま、しばらくその光に身を委ねている姿を、私はそっと見つめ続ける。
冷酷で、誰にも心を許さないと言われる皇帝が、こうして無防備な表情を見せている。
その事実に、胸の奥が温かく満たされていくのを感じた。
光が収まる頃、彼はゆっくりと目を開ける。
その瞳には、これまでにない柔らかな色が宿っていた。
「悪くない」
短くそう呟いた彼の言葉に、私は思わず微笑む。
素直ではない、けれど確かな肯定の言葉。
「よろしければ、いつでもお使いください」
「その言葉、忘れるなよ」
冗談とも本気ともつかない口調で返され、私は小さく笑い声を漏らした。
彼もまた、微かに口元を緩めている。
「その声を、もっと聞きたい」
ぽつりと零された一言に、思わず彼の顔を見上げていた。
彼が、こんなふうに素直な言葉を口にするのは珍しい。
自分の笑い声に、そんな価値があるとは思ってもみなかった。
頬がじんわりと熱を持つのを感じながら、私はただ小さく頷く。
穏やかな沈黙の中で、私たちの距離は、これまでよりも確かに縮まっていた。
言葉を交わさずとも通じ合う何かが、静かにそこに芽生え始めている。
☆
夜になり、部屋に戻った私のもとを、彼が再び訪れた。
暖炉の炎が静かに揺れる部屋の中で、彼は迷いのない足取りで歩み寄ると、私を優しく抱き寄せる。
硬い胸に頬を預ける形になり、私は驚きながらも、自然とその腕に身を委ねていた。
「今日は、よく話してくれた」
耳元で囁かれる声には、これまでにない穏やかさが滲んでいる。
「あの過去を語るのは、どれほど辛かったか、俺にもわかる」
私は何も言えず、ただ小さく頷く。
彼の腕の力が、わずかに強まった。
低く、けれど確かな重みを持つ声が続く。
「もう振り返らなくていい」
抱きしめる腕の力強さと共に、その言葉には、これまで感じたことのない独占的な熱が込められている気がする。
「君の過去も、未来も」
彼はさらに囁いた。
「全部、俺が預かる」
その重く、それでいて甘い言葉に、胸の奥が震えた。
誰かにこれほど強く求められることが、これほど胸を満たすものだとは、私はこれまで知らずにいたのだ。
「陛下……」
掠れた声で名を呼ぶと、彼はさらに強く私を抱きしめる。
「もう、独りで抱え込むな」
その言葉が、これまで一人で耐え続けてきた重荷を、静かに解きほぐしていく。
私はそっと目を閉じ、彼の胸に顔を埋めた。
規則正しい鼓動の音を耳元に感じながら、私は自分の心の中に、確かな変化が生まれていることに気づく。
――ここにいたい。
その思いが、これまでのどんな瞬間よりも、はっきりと胸の奥から込み上げてくる。
ゼントロール王国で失ったものへの未練は、いつの間にか、この人と過ごす日々への確かな願いへと変わり始めていた。
抱きしめる腕の温もりに包まれながら、私は静かに、そう思う。
この場所で、この人の傍で、これからの日々を生きていきたいと。
彼の胸に顔を埋めたまま、私はしばらくの間、その温もりを噛みしめるように味わい続けていた。
窓の外では、帝都の夜が静かに更けていく。
二人だけの穏やかな時間が、いつまでも続いてほしいと、私は密かに願わずにはいられなかった。




