15.「大したことではない」
あの温室での告白から、幾日かが過ぎていた。
朝の陽射しが差し込む食堂で、私たちはいつものように向かい合って朝食を摂る。
温かなスープの香りが漂う中、彼が珍しく自ら果物を切り分け、私の皿へと添えてくれた。
その何気ない仕草に、私は思わず口元を綻ばせる。
「ありがとうございます」
「別に、大したことではない」
素っ気ない返事とは裏腹に、その口調にはどこか穏やかな響きがある。
この帝国に来てからというもの、私は自然と笑顔を見せる機会が増えていた。
彼もまた、私の前でだけは、こうしてわずかに表情を緩めることが多くなっているのだ。
窓の外では、帝都の朝がいつものように賑やかに動き始めている。
行き交う人々の声、遠くで響く鐘の音――その穏やかな日常が、今の私にとって何よりも大切なものになりつつある。
「今日は、庭の薔薇が見頃だそうだ」
彼がふと口にした言葉に、私は嬉しそうに頷いた。
「楽しみにしております」
そんな他愛のない会話を交わしながら、私は静かな幸福を噛みしめる。
追放され、絶望の淵に立たされていたあの日々が、今では遠い記憶のように思える。
この帝国で過ごす穏やかな時間が、少しずつ心の傷を癒してくれているのを、私は確かに感じていたのだ。
そのとき、慌ただしい足音と共に、側近の一人が食堂に駆け込んできた。
「陛下、火急のご報告がございます」
その緊迫した様子に、和やかだった空気が一変する。
彼は静かに手を止め、鋭い視線を側近へと向けた。
「何事だ」
「ゼントロール王国より、使者が到着いたしました」
その一言を聞いた瞬間、私の体が凍りついたように動かなくなる。
心臓が、大きく音を立てる。
ゼントロールという名を耳にするだけで、あの日の記憶――婚約破棄の宣告、聖女の位の剥奪、そして追放の道のりが、まざまざと脳裏に蘇る。
「エミア」
低い声に呼ばれ、私は我に返る。
彼が心配そうな眼差しで、こちらを見つめていた。
「大丈夫か」
「……はい」
震える声で答えたものの、内心では激しい動揺が渦巻いている。
あの国から、いったい何の目的で使者が送られてきたのだろう。
良い知らせであるはずがない、そんな予感が、胸の奥で不安を膨らませていく。
彼は静かに立ち上がり、側近に短く命じた。
「謁見の間に通せ。すぐに向かう」
そして私に向き直ると、力強く手を差し伸べる。
「共に来い。俺が傍にいる」
その言葉に、わずかな安堵を覚えながらも、私はまだ拭いきれない不安を抱えたまま、その手を取った。
☆
謁見の間に足を踏み入れると、そこには疲れきった様子の男が跪いていた。
見覚えのある紋章の入った外套。
ゼントロール王国の使者だと、一目でわかる。
彼は私たちの姿を認めると、慌てたように深く頭を垂れた。
「皇帝陛下、そして――エミア様」
その呼びかけに、私は思わず身を強張らせる。
彼が私の名を出すということは、この訪問の目的が、皇帝ではなく私自身に向けられたものであることを意味していた。
隣に立つ彼が、鋭い視線を使者へと向ける。
「用件を述べよ」
低く冷ややかなその声に、使者は一瞬怯んだ様子を見せたが、それでも意を決したように顔を上げる。
「恐れながら、申し上げます。ゼントロール王国は今、未曾有の疫病に見舞われております」
その言葉に、私は思わず息を呑んだ。
「王都だけでなく、各地の村々でも患者が続出しており、既に多くの民が命を落としております。教会の治癒魔術師たちの力では、もはや手に負えぬ状況です」
使者の声には、切実な焦りが滲んでいる。
「病に倒れた者の肌には、黒い斑点が浮かび、高熱にうなされたまま三日と持たずに命を落としていく者が後を絶ちません。市場は閉ざされ、通りには埋葬すら追いつかぬ骸が並んでいると聞き及んでおります。かつて聖女エミア様が祝福を授けられたあの広場も、今は死者を悼む声で満ちているのです」
その生々しい情景に、私は思わず言葉を失う。
かつて自分が祈りを捧げた場所が、今はそんな悲惨な情景に変わり果てているという事実が、鋭い痛みとなって胸を刺した。
「どうか……どうか、聖女エミア様のお力をお借りしたいのです」
その懇願に、謁見の間は重い沈黙に包まれる。
私は言葉を失い、ただ使者の姿を見つめることしかできない。
「これを」
使者は懐から一通の手紙を取り出し、震える手でこちらへと差し出す。
「ライオネル王太子殿下より、直筆のお手紙でございます」
その名を聞いた瞬間、心臓が止まりそうになった。
躊躇いながらも、私は震える手でその手紙を受け取る。
見慣れた筆跡が、そこには確かに刻まれていた。
手紙には、丁寧な言葉で疫病の惨状が綴られ、最後にこう記されている。
「どうか、王国と民を救ってほしい。かつての過ちを詫びる資格などないことは承知の上で、それでも頼らせてほしい」
その文面を読み終えた私の胸には、複雑な感情が渦を巻く。
あれほど自分を傷つけ、切り捨てた人からの、こんな身勝手な願い。
憤りにも似た感情が湧き上がる一方で、疫病に苦しんでいるという民たちの姿が、脳裏に浮かんで離れない。
かつて自分が癒し、笑顔を向けてくれた兵士たちや、街の人々。
あの広場でパン屋の老夫婦が焼きたてのパンを分けてくれた記憶、子供たちが花を摘んで祝福を求めてきた記憶――そうした温かな顔ぶれが、今この瞬間、黒い斑点に蝕まれ、苦しんでいるかもしれないと思うと、胸が張り裂けそうだった。
手紙を握りしめたまま、私はただ黙って立ち尽くす。
隣に立つ彼の視線が、静かに、そして強い緊張を帯びて私に注がれているのを感じていた。




